寂しいアヒル7




「・・・?」

客間は、和室の畳の上に絨毯を引き、中央に木製の小さな丸い卓。三人がけのソファーが二つと、二人がけのソファーが一つ、卓を囲むように「コ」の字型に置かれている。

その上座側のソファーにお父さんとお母さん、下座側のソファーに江里子ちゃんと、そしてなぜか朋子姉様がちょっと離れた壁に寄りかかるようにして立っていた。

朋子姉様の言いつけ通り制服から着替えた私が客間に入り、お母さんの勧めに従って江里子ちゃんの隣りに腰掛けた途端のお父さんの言葉は、私はともかくとして江里子ちゃんからしてみれば、訳のわからない言葉だっただろう。

私だって初対面の相手に突然あんな事を言われれば、「この人は何を言ってるんだ」と呆れる事しかできないと思う。

実際、江里子ちゃんはお父さんの言葉を聞いた直後『へ?』と首をかしげ、時間とともにその意味を理解すると、今度は眉間に深いしわを刻み込んでいる。

お母さんもお父さんの唐突さに呆れているのだろう、フーと長いため息をついた後、江里子ちゃん・私・お父さんの順番に見回して、そして今度はフッと短いため息をついた。

「ごめんなさいね、江里子ちゃん。突然『今日から一ヶ月、この家で暮らせ』なんて言われても、戸惑うわよね。ちょっと待って。わかるように説明するから」

お母さんは隣に座っているお父さんの膝を、なにやってるのよとでも言うように軽くポンと叩き、そしてさてどこから話したものかと思案するように視線を天井に向けた。

「あなたとあなたのお家の事は私も瀬川も、水野から聞いたわ。これに関して私達はあなたに謝らなくちゃいけない。この家はこの村で何かあった時の調整・調停役だと私達は思っているから、あなたの事に気付かなかったのは私達の怠慢だわ。・・・本当にごめんなさい」

座ったままとはいえ深々と頭を下げるお母さんと、お母さんに合わせて頭を下げるお父さん。そんな二人に、先ほどのお父さんのあまりに唐突な言葉にちょっと怒っているようだった江里子ちゃんが、どうすればいいの? と言いたげな戸惑った視線を私に向けてくる。

私としてもこんな二人は初めて見るから、どうすれば良いかなんてわからないけれど、とりあえずという感じで、江里子ちゃんの耳元に口を寄せ「話を進めたら?」と囁いた。

彼女もそれが妥当だと思ったのだろう。チョコンと私の囁きに小さく頷く。

「あの。・・・とりあえず話を先に進めてもらえますか? どうして私がこの家で生活しなきゃいけないのか」

先の一言でお父さんじゃ話にならないと思ったのか、お母さんに向かってそう言った江里子ちゃんの様子から、お父さんのあのあまりに唐突な言葉も、まったく無意味なものではなかったのかもしれないと、そう思った。

この家に入る事さえ緊張していた江里子ちゃんが、あの一言から、肩の力が抜けているように見える。

江里子ちゃんの言葉で顔を上げたお父さんとお母さんは、何か確認しあうかのように頷きあって、そして今度はお父さんが話し始めた。

「お前達が帰ってくる二時間ぐらい前まで、ここにお前の爺さんと母親が来ていてな。二人が来ていた理由はお前達が一番良く知ってるだろ? 聞くところでは朋子も一枚かんでるらしいが、こいつはこの件に関しては俺達にはなかなか口が堅くてな。自分からは何も言えないと、頑として口を割ろうとしない。・・・まぁ、朋子の事はこの際どうでもいいんだ」

お父さんがそこで一度言葉を止めると、いつの間にか壁際から私のすぐ後ろに来ていた朋子姉様が、お父さんに抗議するかのように「うわ。ひどっ」と声を上げる。

お父さんは私の頭上の朋子姉様を一睨みしてから、江里子ちゃんに視線を移して言葉を続けた。

「何を言いにきたのかと思えば、お前がいかに瑞香に非礼を働いたか、から始まって、挙句はお前をこの村から追い出したいなどと言い出す始末。爺さん、最初はお前が来るのを待って一緒に謝らせるつもりだったらしいが、子供同士の口喧嘩ぐらいでいちいち謝りにこられるのも馬鹿にされてるようで頭にくるし、お前に対する言い様があまりに酷い上に昨日水野から聞いた件もあってな。沙夜子と相談した結果、とりあえずお前と家族、双方距離を置いてみたらどうかという事で、それで一週間なり一ヶ月なりこの家で生活させてみたらどうかと提案した。爺さんは俺に迷惑を掛けるわけにはいかないとあまり良い顔をしてなかったが、母親は了解してくれたから、後はお前の気持しだいと言うわけだ。さっきは爺さんに対してあまりに頭に来ていたから、あんな命令口調になったが、これは命令とかじゃなくてただの提案だと思ってくれ」

「裕紀兄さんはなんだかごちゃごちゃ言ってるけど、要点をまとめればこういう事よね。江里子ちゃんに『お前が心配だから、俺の所に来い』って言ってるのよ」

朋子姉様のちょっと茶化すような口調に、今度はお母さんからやんわりとした叱責が飛んできた。

「朋子ちゃん、茶化さないで頂戴。それに今日は私達、あなたにも言いたい事が沢山あるんだから。・・・夕飯が済んだら裕紀の部屋にいらっしゃい。晴紀おじさんや冬子さん、美咲ちゃんも交えてゆっくりと話し合いましょう」

お母さんが言葉の最後に浮かべた笑顔を見て、朋子姉様が私の首に腕を廻して後ろから抱きつきながら「うげぇ」などと、あまり品があるようには思えない呻き声を上る。

「まぁ朋子の言い方には色々問題はあるが、大体そういう事だと思ってもらって構わない。後はお前の意思次第だ。どうしてもこの家で生活するのが嫌だと思うなら、この話はなかった事にしてもらっていい。」

それまでちょっと重かった場の雰囲気が、朋子姉様の存在でふと軽くなった気がした。そしてそれはお父さんも感じたんだろう。お父さんにしては珍しく、苦笑のようなものを浮かべながら、ちょっと俯いて考え込むようにしていた江里子ちゃんの顔を覗き込む。

「・・・今、答えなきゃいけませんか?」

江里子ちゃんはちょっと間を置いて顔を上げ、お父さんに尋ねた。それも仕方ないと思う。なんでそんな『家で生活しなさい』なんて話になったのかは、まぁなんとなくわかったけれど、それでも急な話であるのは変わりないから、江里子ちゃんが戸惑うのだって無理はないのだ。

まして彼女はこの家の事をあまり快く思っていないようだから、なおさらだと思う。

「そうだな、できれば早い方が良いと思う。とはいえ、あまりに急な話だと言うのはわかってるから急かしはしない。まぁとりあえずは今晩試しにここに泊まってゆっくり考えてみたらどうだ?」

お父さんの『急かしはしない』というのを、まるで強調するかのようにゆっくりとした口調に、江里子ちゃんは下唇を噛んで、まるで何かに耐えるように膝の上に載せていた手をギュッと握りこんだ。

お父さんとお母さんはその様子を、急かさないと宣言したとおりただ眺めているだけで、朋子姉様もスルッと私の首から腕をほどき、静かに壁際へと戻って行った。

私にはわからないけど、でもきっとお父さんもお母さんも、そして朋子姉様も、江里子ちゃんが今何を考えているのか、わかってるんじゃないかと思う。

この人達は私が計り知れないぐらい色んな事をその内に抱え込んでいて、年の功とはよく言ったもので、これまでの経験から、ここは黙って見守っていたほうが良いと判断したんだろう。

でも、きっとそうなんだろうと思っても、私には手のひらの皮を破りかねないくらい、両手をギュッと力いっぱい握りこんでいる江里子ちゃんの姿を黙って見ているなんて事が出来なくて。

でも彼女にどんな言葉をかければいいかなんて、私にはまったくわからなかったから。だから私は江里子ちゃんの左手の甲にそっと右手を重ねた。

手を重ねた瞬間江里子ちゃんの体が一瞬ピクンと強張って、そして彼女が私を横目で睨みつけてきたのがわかったけど、それでも私は右手をのけなかった。のけなかったどころか、精一杯の笑顔で江里子ちゃんに「大丈夫だよ」と、無言で伝える。

何が「大丈夫」なのか、私自身にだって分からなかったけど、でもそれが今の私に出来る唯一の事だと、そう感じたのだ。

いくら睨みつけても右手をのけようとしない私に、やがて彼女も諦めたのだろ。フンと鼻で軽く笑って、そして吹っ切れたように顔を上げ、今にもお父さんに飛び掛りかねないような目でお父さんを睨み据えると、ゆっくりと口を開いた。

「・・・今日からしばらく、こちらでご厄介になります」

と。

 


「この家って、いつもこんなバタバタしているの? だとしたら、気の休まる暇がないわね」

まるで独り言のように、ため息と一緒にそんな言葉をポツリと江里子ちゃんが漏らしたのは、お風呂から上がった私が自室に戻る途中、縁側に腰掛けて庭を眺めていた江里子ちゃんを見つけ、その隣にお邪魔した時だった。

まぁ確かに、江里子ちゃんが愚痴りたい気持ちもわからないでもない。

本当に今日は、バタバタと慌しい一日だった。

しばらくの間とはいえ、江里子ちゃんが家で生活する。それが決まると、当然と言えば当然なのかもしれないけど、家の中が慌ただしくなった。

まず初めに、話が終わり五分ほどすると水野一家がやってきて、なにやら大きな荷物を抱えている正文伯父様と美央美伯母様の姿を、何事だろうと私が眺めていると、伯父様が苦笑いを浮かべながら「江里子ちゃんの荷物」と、持っていたバッグをゆっくりと下ろす。

江里子ちゃんは、水野夫妻がもっている荷物が自分の荷物だという事がすぐにわかったみたいだけど、何故それを彼等が持っているのかがわからなかったのだろう、私の隣で口をポカンと開けて、「なんで?」と何度も呟いていた。

「一時間半ぐらい前かな、江里子ちゃんの荷物を持ってきてくれって、裕紀から連絡があってね。でもそれだけじゃ訳わかんなかったから、木戸さんに確認して事情を聞いて。で、さっき江里子ちゃんのお母さんが荷造りが済んだからって家に持ってきたから」

江里子ちゃんのその様子から説明してくれた美央美伯母様の話を聞いて、お父さんの手際が良いというよりも、先走りすぎとも言える手配に私と江里子ちゃんが呆れていたら、江里子ちゃんの姿を認めた悠華ちゃんが「江里子お姉ちゃんだ!」と江里子ちゃんに飛びついて、それを見ていた朋子姉様が江里子ちゃんをからかって、彼女を怒らせたり。

「荷物、どうしようか」という美央美伯母様の質問に、「明日にはあなたの部屋を別に用意するけど、とりあえず今日は瑞香の部屋で眠ってもらえないかしら」と、まず江里子ちゃんにお母さんが確認すると、江里子ちゃんはあからさまに嫌そうな顔をして、でも毒食らわば皿までとでも思ったのだろう。いかにも渋々と言った感じで頷いたり。

それまでニコニコと微笑みながら黙って私達の様子を見守っているだけだった冬子おば様の、「今日はこっちで晩御飯食べていったら?」との言葉に、美央美伯母様が「助かった」と言わんばかりに頷いたから、急に五人も増えた夕食の準備に良子さんが慌てたり。

・・・そんな感じで今日は本当に家中がバタバタと慌しかったから、正直なところ今日の事を思い出そうとしても、よく思い出す事が出来ない。

お風呂から上がって一息ついても、なんとなく気だるい倦怠感みたいなものが体の奥底に溜まっていた。

でもそれは普段の、具合が悪い時のものとは違って、遠足とか旅行から帰ってきた時に感じる「疲れたけど楽しかった」みたいな、そんな気だるさだったから、こんなふうに江里子ちゃんと二人ちょっとぼやきながらも、私は結局楽しかったのかもしれない。

「さすがに今日は特別だったけどね、でも雰囲気はこんな感じかな」

私の答えに「ふーん」なんて気のなさそうな返事をしながら、江里子ちゃんの横顔も何だかちょっと楽しそうだった。

「この家はもっと静かで、お上品ぶった家だと思ってた。だからここに厄介になるって決めた時も、ちょっと心配だったんだけどね」

「心配?」

「私みたいな人間が、しばらくの間とはいえお上品に澄ました人達と生活出来るかなって・・・ね」

自虐的にフフンと鼻で笑った江里子ちゃんの顔は、なんだかそれまで私の思っていた彼女の顔とあまりにかけ離れていた。彼女は自虐的に笑う時だって、なんと言うか、周囲に対して牙を剥いているみたいに笑うのが似合っていて、今の江里子ちゃんはなんだか雨にうたれて震えている猫みたいで。

それが私の勝手な思い込みだって言うのはわかっているけど、目を伏せて今みたいに寂しそうに笑うのは何だか彼女らしくなかった。

私の中での江里子ちゃんは、顔を伏せていても野生の肉食獣みたいに目だけはギラギラと輝いて、生気に満ち溢れていて、彼女のそんな一面にも憧れていたから、それが私の我儘だって事は十分わかってはいるけれど、彼女に今みたいな寂しそうな顔はあまりして欲しくなかった。

でも江里子ちゃんは生身の、私と一つしか変わらない女の子なんだから、悩んだりする事だって一杯あるだろう。私は彼女に、自分の中で勝手に作り上げた『江里子ちゃん像』を我儘だと知りつつ押し付けようとしているのかもしれない。

江里子ちゃんがその胸の内に、どんな事を抱え込んでいるのはわからない。

でも、この家でほんのわずかな時間でも江里子ちゃんが生活するのは、彼女にとっても私にとっても悪い事じゃないと思う。

だから私は、彼女の周りに漂っている暗い雰囲気を吹き飛ばそうと、精一杯の笑顔で彼女に言ったのだ。

「大丈夫だよ」って。

江里子ちゃんは私のそんな言葉に「だから。あんたの大丈夫なんて私にはこれっぽっちも信用できないんだよ」なんて憎まれ口を叩いたけれど、その声はさっきよりも幾分明るいものだった。

お父さん達の真意がどこにあるのか私にはわからないけど、ここでの暮らしはきっと江里子ちゃんにも、そして江里子ちゃんとの暮らしは私にも、なにかしらプラスになる事があると思う。

雨に打たれて震えている子猫のような江里子ちゃんにも、手負いの獣みたいな江里子ちゃんにも、温かくもなく冷たくもなく、私に接するのと同じように自然体で、ここに住む人達は接してくれるだろうから。

だから私は、江里子ちゃんのそんな憎まれ口にもめげずもう一度言ったのだ。

縁側に腰掛けて足をブラブラさせながら、私に出来る最大の笑顔で江里子ちゃんの顔を覗き込んで。

「大丈夫だよ。うん」って。

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