遥かなるアンデス Jirishanca 1973
                ・・・ヒリシャンカ南東壁回想・・・
                      (最終回)
               吉賀信市


            
                     ワスカラン(南峰、北峰)

 23.エピローグ

 遥かなるアンデス――月日の経つのは早いものであれからもう30年の歳月が流れている。

 これは30年前に書いた原稿を整理しまとめたものである。近年のインターネットの発達が30年の長き眠りを揺り動かし覚醒させたのだ。原稿の整理を始めると30年前のことが、1〜2年前、いやつい昨日のことのように鮮明に蘇って来た。

 ヒリシャンカ南東壁に設営したまま残してきたC2、C3の天幕はどうなったであろうか。30年間の風雪に耐えて今もあの場所にあるのであろうか。その中に置いてある食糧、燃料、装備等はどうなっているのか。また、岩壁に張ったまま残した固定ロープはどうなっているか。再びアンデスの地に立ちヒリシャンカの岩と氷の壁を登攀して確かめてみたい気がする。

 第3キャンプは標高5700m、中央稜上の岩峰の突端にある。そこは風がもろに当たるために、ウインパー型天幕はおそらく風雪に飛ばされて跡形もないであろう。・・・いや、天幕を支えていたロープの切れ端くらいは、横の岩に打ち込んだ埋め込みボルトにくっついて風に吹かれているかも知れない。

 第2キャンプはどんな状態であろうか。雪と氷を削り取った跡にはめ込むように設営したオリジナルの直角三角型天幕――これはどのような状態になって残っていることであろうか。雪に埋もれたままであれば、30年前の原型を雪に守られて保っているかも知れない。積雪が少ない季節には露出するのであれば、天幕は太陽、雨、雪、風など自然との闘いによりボロボロとなり原型を留めていないであろう。しかし、骨組みに使用したアルミのアングルは当時の位置に雪に埋もれて残っていることと思う。したがって、その中に残した食糧、燃料、装備類も同じく雪の中にあると思われる。

 また、岩壁に張ったまま残した8mmのフィックスロープはどうか?。アンデスの太陽、風雨に30年間も晒されて風化し、おそらく残っていまい。

 これらのことを自分の眼で確かめてみたい。また、近年のエベレスト清掃登山に代表されるように、高所登山においても山に持って行った物はすべて持って帰ること、自然を汚さないこと、美しい自然を守り後世に残すこと等々が啓発され、自然を汚さないことが義務とされている。この2つのことを実行するために、30年前と同じ計画(ヒリシャンカ南東壁からロンドイまでの縦走)を実践出来ないであろうか。

 当時の20歳代の青年は、現在では50歳代となっている。中には60歳代になった者もいる。今回は隊を2パーティ(A隊とB隊)としよう。

 A隊は‘枯れ草隊’(露草登高会OB)、B隊は‘おゆぴにすと隊’(大分登高会OB)とする。隊をヒリシャンカとロンドイに分ける訳である。A隊をヒリシャンカ、B隊をロンドイとしよう。さて、各隊どこまで登れるか。

 まず、A隊:プカコーチャ湖畔のBCからヒリシャンカ氷河を登り大垂壁基部に30年前と同じ様に第1キャンプを設営。ここまでは特に問題なく進むことであろう。30年前のルートを辿り大垂壁を左に捲いて壁に取り付く。雪壁を5ピッチ、氷壁を2ピッチ登り、氷のチムニーの基部に到達する。ここまでは何とかなると思うがこれから上部の垂壁とオーバーハング帯の登攀は50,60歳代の私たちではちょっと無理であろう。

 次にB隊:ミツコーチャ側からロンドイに挑むことになるが、この山は標高5883mで高さ的には手ごろな目標である。しかし、ノーマル・ルートはなく傾斜のきつい雪壁、氷壁登攀が主体となりスピーディな行動が要求される。今の私たちにスピーディな行動がとれるであろうか。残念であるが今の私たちの体力と登攀技術では無理かも知れない。

 と言うことは30年前に放棄した登山装備等がどうなったかを確認し、これを回収することは私たちの力では困難と言うことになる。それでは今の私たちに出来ることは何であろうか。再びアンデスを訪れそこに住む人々と触れ合い、今の自分たちの力量で登れる山を楽しみ、今度は自然を汚さないように登山装備、ゴミなどすべてを回収してしかるべき処理をすることであろう。

 チキアンから馬に乗り、ブーロ5〜10頭に荷物を積んでワイワッシュ山群をゆっくりと旅をして廻ってみたいものである。

 エルトロ、ヒリシャンカ西面のジャワコーチャ、ロンドイ、ヒリシャンカ北東面のミツコーチャ、ヒリシャンカ南東面のカルワコーチャ、シウラ、イエルパハー方面のシウラコーチャ、また、サラッポ、シウラの南面のラグナコーチャ、等々の集落を廻り、そこに住んでいる人々と触れ合い、アンデスの雄大な自然を楽しみながらのんびりとキャンプをしてみたい。

 しかしそれにしても30年前はペルー国内のどこに行っても治安に不安を感じることはなかったが、今現在はどうなっているのであろうか。ひと頃反政府ゲリラ(MRTAのテロリスト)の活動が激しく、人が殺害されるのは日常茶飯事の状態で、1996年12月日本大使公邸占拠事件もあった。そのゲリラを日系のフジモリ大統領が力で押さえ込み、社会が落ち着きかけたかに見えた。

 しかし、今度はそのフジモリ氏が失脚して日本に亡命している。このようにペルー国内の変化が激しく、めまぐるしく動いており、また最近は日本のニュースではペルーのことはまったくといえるほど流れて来ない。したがって、ペルー国内の社会状況が分からず行ってみようと思っても治安面で不安を感じざるを得ない。

 そこで、南米7ヶ国の社会、治安状況をインターネットで検索してみると、治安上特に問題ない国はチリとウルグアイの2カ国。30年前はチリが革命で最も国内が混乱していたのを思い出す。他の5ヶ国、とりわけペルー、アルゼンチン、ブラジルは経済状態が悪い。したがって治安も良くない状況で渡航注意が出されている。

 アンデスの村では雄大でのどかな自然のなかで人々が暮している。物質的にはかならずしも豊かな生活とは言えないが、そこに住む人々は本来的には明るくおおらかで開放的な性格のはずである。一日でも早く社会が安定し人々が平穏に暮せるようになることを切望するものである。

 ベースキャンプ設営完了時に全員で撮った写真を見るとみんな若い。自分たちにもこんな若い時があったのだと言う年齢になってしまった。

 この中で最も若かった岡田はアンデスの2年後、マッキンリー南壁を完登後の下降中に墜落死してしまった。23歳の若さで誠に残念なことであった。原稿を書き始めると、黒部別山大タテガビン南東壁に露草ルートを開拓したことや、アンデスに行く前年、初冬の或る日谷川岳の本谷で「ヒリシャンカには2人共会社を辞めて行くのだから登った後、アンデスからそのままヨーロッパに渡りグランドジョラス(ウオーカー稜)、アイガー、マッターホルン北壁を登ろうか。夏季ならば登れんことはないだろう。何とかなる」と話しながらビバークしたこと、また、冬の三ツ峠の岩場で「1日に何ピッチ登れるかやってみよう」と朝から夕方まで各ルートの登攀と懸垂下降を繰り返したこと、厳冬期の衝立正面壁を登攀してアンデスに行こうと1月から2月にかけての日曜日、3週連続谷川岳に通ったが天候が悪く壁に取り付くことさえもできなかったこと、さらに、ヒリシャンカ南東壁の登攀が山渓登攀賞を受賞してみんなで祝杯を挙げたことなどが次々に思い出された。

 もし、岡田が生きていたならば私たち仲間の登攀経歴も、もう少し多彩なものになっていたことであろう。若くして山に逝ってしまった岡田を偲び、30年前のアンデスの報告を終わりたい。(完)

       
        篠原隊長          岡田

       
        長塚           佐藤

            
                吉賀

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