Jannu expedition '81

1981年秋の記録)

(第回)
          
                       吉賀信市
  

          
                     雨の中キャラバン出発

6.キャラバン(その1)

9月9日 曇り時々雨  起床:5時

5時。シェルパの「サーブ、ティー」の声にて眼が覚める。まだ、薄暗いが今にも雨が降りそうな空模様である。昨夜は、天幕内に蚊が何匹も飛び廻って熟睡できなかった。個人装備を片付けて天幕をたたみ始めた頃から小雨となる。6時すぎ朝食を終える頃からポーターたちが集まってき始めた。

ほとんどのポーターは『ドッコ』と呼ばれる竹で編んだ大きな籠を持っておりそれに荷物を入れて運ぶ。まもなく雨は本降りとなってキャラバンの出発準備は大忙しとなった。

整列させて荷物を番号順にポーターに渡す予定であったが、ポーターたちは持ち易い荷物を目指して「ワァーッ」と一斉に群がっていった。荷物の捕り合いとなり大変な混乱となる。

私たちはシェルパに任せる方がよいと考えまったく口出しはしない。全員に荷物が行き渡ったのを見計らい、シェルパが名簿を見て名前を大声で呼び上げて一人ひとり呼び寄せる。

名前を呼ばれて来たポーターの荷物番号を確認しノートに番号を記入する。そして荷物の番号札と雨で荷物が濡れないようにかぶせるビニールを切って渡す(1.5m/1人)。

ポーターの名前と人数と荷物の確認である。受け取った者からバラバラに(ポーターの思い思いに)出発し始めた。

740分に先頭が出て最後のポーターが坂を登り始めたのが830分ごろであった。

ポーターの総勢は53人。荷物は残っておらず予定通り。ポーターには4人の少年少女(1617歳)も参加している。少年の1人は30kg足らずの体重と思える身体で自分の体重より重い隊荷を担いで歩くことになる。

この4人茶目っ気がありにぎやかである。私たちが声をかけると気軽に乗ってくる。ポーターは荷物を入れるドッコ(竹で編んだ大きな籠)を持っておりそれに隊荷を入れて背負う。

          
               ドッコの下に杖をあててひと休み

また、男性はククリと呼ばれる山刀(
3040cm)を腰に下げている。

さて、と私たちもキャラバンの歩を進め始める。ここからジャヌーの麓までは山あり谷ありの約250kmの道のりである。

すぐにバンジャン峠の急峻な登りとなりけっこうきつい。背負っているザックには、お茶の入ったテルモス、弁当、カメラ、その他の小物(約78kg)であるが重い。ポーターたちはある程度の間隔をおいて隊列で歩くのかと思っていたがそうではない。何人かの知り合い、同じ村の者といったグループとなりバラバラにばらけて進む。

これでは先頭と最後尾ではかなりの時間差が生じるであろう。やがて雨が止み曇り空となる。歩くにはちょうど良いキャラバン日和である。林ではセミがうるさげに鳴いているが日本のセミより鳴き声が少しかすれているような気がする。

このレウティー・コーラへの道は人々の往来が多い。いわゆる街道である。大きな荷物を担いだポーター、空身で歩く身なりのちゃんとした人、籠に乗ってポーターの背に担がれている人、2人のポーターが担いだ輿に乗った人、いろいろなスタイルが行き来する。見ていておもしろい。物資の運搬はほとんど人間の背中で行われている。日本も江戸の昔はこのような光景であったのだろうと想像する。

キャラバンルートには所々に人家があり、その付近には家畜の糞がいたるところに散乱しており休憩場所を探すのに苦労する。ポーターはちょっと休む場合は持っている杖を、ドッコの底に当てて立ったまま休憩する。

道筋には所々と言うか要所々に大木が木陰を作った広場になった休憩所がある。そこにはバッティ(茶屋)もあり休憩をしながら各人思い思いの速さにて峠を登って行く。

峠を越えて坂道を転がるように下るとレウティー・コーラの村であった。先頭が15時ごろ着。最後尾のポーターが着いたのは17時過ぎとなった。


           
                        キャラバン初日の泊地

 ここでは天幕は張らずに民家の1間を借用する(60Rs/1坪)ことにした。シェルパたちは着き次第、お茶及び夕食の準備にかかる。ポーターたちも着いた者から思い思いに道端に場所を探して小枝を拾い集め鍋のような物で米を炊き始めている。寝る場所もその横に夜露を凌げるように葉っぱの付いた小枝を取って来て屋根を架けてその下で薄い布をかけて寝る。

シェルパが食事の準備をしている間、すぐ前を流れるタムール河の支流に汗を流しに行く。

川の水は冷たくとても腰まで浸かれない。素裸になって全身の汗をタオルで拭く。

                 
                        食事の準備をするポーター

夕食ができあがったのでさっそく食べはじめる。しかし、ハエが多いのには閉口する。

自分の家も昭和30年頃はこのようにハエが多かったのを思い出す。食事はいつものカレーである。ここでカレーを作る場合はカレー粉と数種類のスパイスを入れて色と味付けをしなければならない。日本でいつも使っているルーはないのである。

カレー味ならば日本人であれば食べ慣れた味なのでノドを通る。場所が川辺であり9月というのに蛍がチラホラ舞い始めた。蛍が舞うのを見ながらの夕食はなかなかのものである?。

ポーターのひとりが足にケガをしたから診察してほしいと言って来た。朝波Drが診察を始めると俺も俺もと集まって来た。朝波ドクターは対応に忙しい。医師が登山隊に必要なのは隊員の健康管理もさることながら地域住民への医療サービスなのであろう。

コースタイム:ダランバザール(820)〜レウティー・コーラ(1540

 

910日 晴れ 起床:530

早朝からシェルパ及びポーター達が火を起こし一斉に朝食の準備をしている。630分より食事。730分に出発を始める。その前にシェルパから「ポーターたちは手持ちのお金がなく自分たちの食糧が買えないので1日分の賃金を支払ってほしい」との申し出があり急遽支払うことにする。我々は初めてでありシェルパからキャラバンのノウハウを学ばなければならない。

アンテンバーが大声でひとりひとりの名前を呼び上げ荷物の番号をチェックして日当(24Rs:480円)を支払う。しかし、4Rsはデポジット・マネーとしてシェルパが預かりとなり、ポーターが帰る時に渡す。なるほど、このようにしてポーターを管理しているのか。

ヒマラヤが始めての我々は知らなかった。賃金を支払いながらの出発は全員が終わるまで40分を要した。

昨日は、隊の資金(小額紙幣約56kg)が心配なので自分のザックに背負って来たが、こんな重い物を長いキャラバンの間とても持てない。人物のよさそうなポーターに目星を付けて今日からは彼の荷物の中に入れ込んだ。もしも、すべて無くなっても残りの金で何とかなるだろう。

ポーターは隊の荷物(30kg)と自分の食糧、炊事用具等もあるので40kg以上を背負って歩いている。ポーターには人なつっこい者も多い。チャールズ・ブロンソンにちょっと似ていてキセルでタバコを吸うおじさん。がっちりとした体格に大ぶりのククリをカッコよく腰に下げて西部劇のガンマンを想わせるような年配のおじさん。そのククリには、日本刀の小柄のような小さなククリが差してあった。

また、休憩中に道端で仲間に頭を剃ってもらっている者もいる。シャボンも付けずに水だけで上手に剃っていた。

                  
                            頭を剃るポーター

 篠原は、ステテコ姿でサブザックを背負い、長い棒きれを担いでタムール河に架かる橋を歩いていた。そして、その棒先には昨日川で洗濯したシャツが干されていた。

キャラバンは拡幅工事中の道路から旧来の登り道となり青空の下順調に進む。この道は村と村を結ぶ街道にあたり、我々の隊以外に荷物を運ぶポーターや一般の人々の往来が多い。

中央に大きな木がある休憩所が要所々にあり、その茂みが良い日陰を作っている丘の上の茶屋で昼食となる。

大勢の人々が木陰で寝そべったりして休息している。また、その中を5〜6頭の牛がウロウロしている。露天で果物、飲み物を売っているので試しに買ってみたりして人々と交歓する。重い腰を上げて再び急登な道を進み登り着いた所がダンクタの村であった。

この村の中を通る道には石を敷き詰めてあり、家がきれいにしてあり子供たちの服装も小奇麗な格好をしている。電気(ディーゼル発電機)があり、水道もあるようだ。田畑が多くある豊かな村のようである。

この村には電気がある。と言うことは冷蔵庫もあるはずだ。本通りを歩いてビールのある店を探し出し缶詰のサーディンを肴に冷たいビールで喉を潤すことが出来た。また、チェック・ポストにも忘れずに立ち寄ってあいさつをする。

本日のキャンプ地は村の有力者らしき人に話を通してお寺の境内を使用させてもらえることになった。寺院の内に入るとご本尊のきらびやかさに驚く。金色、紅、緑の極彩色にて着飾った仏様。日本の仏様とはおもむきが幾分と言うかかなり違う異様な雰囲気を感じる。

まず、ご本尊に手を合わせ登山の安全を祈願した。天幕の設営が終わる頃、学校の先生と10人ほどの生徒が訪れた。その教師はカトマンドゥで日本語を勉強したとのことでカタコト日本語にてしばし交歓。

コースタイム:レウティー・コラー(830)〜ダンクタ(15:20)

          
                       ご本尊に安全祈願 

911日 晴れ時々雨  起床:530

ダンクタの家並みを貫く石敷きの坂道を村の中を通り抜けるように進む。このメインストリートを過ぎると通常の尾根道に変わり、時折風が通り抜けて涼しくなる。また、急に雲が湧きにわか雨となり、民家の軒下に駆け込んで小降りになるのをしばらく待つ。

これを何度か繰り返しながらキャラバンは進む。ダラン〜ダンクタ〜ヒレまでは道路工事中であるがここではほとんど人力で施工している。

現場小屋もプレハブなどではなく丸太で骨組みをして屋根はカヤなどを葺いている。

13時、ヒレの村に着く。この村もダンクタと同じように家並みが小奇麗で電気もある。キャンプ地はさらに1時間ほどかかる丘の上である。

バッティ(茶屋)や民家に立ち寄り‘チャン’やヨーグルト(自家製)などを飲み食いしながらビスターリ(ゆっくり)で進む。民家の裏庭に廻って見ると若い女性が『パタン、パタン、パタン』と昔ながらの織り機で仕事をしていた。

           
          
はたを織る女性              容器に入ったチャン

また、その横、軒下の唐臼で『コトン、コトン』と穀物を碾いている母娘を見かけ自分も昔小学生の頃、母親の手伝いで唐臼を踏んだことを思い出した。

立ち寄った茶屋の立派なあごひげを生やした親父さんが、隊荷に書いてある‘TOKYO JANNU’を見て「NATIONAL TEAM」か、と尋ねるので「オブコ〜ス」と胸を張って大きな声で返事をした。キャンプ地は標高1900mと高くなり日が落ちると急に冷えて来た。ポーターらは民家の軒下で夜露をしのぎ身体に布1枚をかけて寝ている。

森口、風邪気味にて若干体調不良気味のようだ。

コースタイム:ダンクタ(800)〜ヒレ(1430

注)‘チャン’:粟、ひえ、トウモロコシなど雑穀類を醗酵させた醪を特製の丸い容器に入れ     て、それに熱湯を注いで竹のストローで飲む。少しアルコールがあり酸味のある味がする。

  ‘ロキシー’:チャンと同じ醪を蒸留した物(焼酎)。アルコール度は20度以上ある

つづく

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