Jannu expedition '81

1981年秋の記録)

(第24回)
          
                       吉賀信市

19.キャラバン(復路その2)

11月5日  晴れ

昨日はポーターにキャンプ地変更の連絡が不徹底であったために、彼らは戸惑い全員がキャンプ地に到着したのは夕暮れとなってしまった。

シェルパに、キャンプをする場所をポーターによく知らせること、また、少ない人数であり先頭と最後尾が長い距離をあけずに歩くことも伝えるように指示をする。

今日も7時30分に出発。ここから次のキャンプ地グルジャガウンまでは標高差にして約1000m登らなければならない。

このキャラバンルートでは標高が最も低いタムール河の川底地帯をひとりで歩いていると子供たちの歓声が聞こえて来た。

その声の方向に目を向けると「おっ、あれは何だ」と、びっくりする。見たことのない凄い装置で数人の子供たちが遊んでいた。

           
                            大きなブランコ

集落の広場に大きな数本の孟宗竹で組み上げた巨大なブランコである。その高さは十数メートルほどもある。

先端からロープを下げたブランコに乗って漕いでいる。その揺られる様は凄い迫力である。

ブランコが揺れる方向に支柱(竹)はしなり長いロープのブランコは空高く舞い上がる。乗っている人が飛んで行きそうだ。まるでサーカスさながらの豪快な遊びである。

日本ではおそらく『危険である』と使用禁止になることであろう。

やがてキャラバンルートは棚田の水田地帯に沿った登り路に変わる。稲穂の刈り取りは標高の低いところから始まり徐々に上部へと移動している。

晴天で風もほとんどなく曲がりくねった坂路が続き、額を流れ落ちる汗が目にしみる。

ようやく尾根に達し後方を振り返ると、荷物を背負って登って来るポーターの背後にジャヌーとカンチェンジュンガ小さくなって見えている。

気候は秋の澄んだ空気となり往路の時よりも山容がはっきりと見えている。ジャヌーはもう、あんなにも遠い彼方になってしまった。

          
                    遠ざかるジャヌー

この付近から初めて夕空に浮かんだジャヌーを見て興奮した時のことを思い出す。

14時ごろにはグルジャガウンの集落に到着する。さっそく、チャンかロキシーを求めて民家に行く。しかし、ないようである。

その代わりに軒下にザルに入った里芋らしき黒っぽい芋が目に留まり少し(3kg/7Rs)分けてもらう。キャンプを設営するとさっそく蒸かして皮を剥いて食べてみる、‘旨い’里芋の味だ。たしかに里芋である。

夕方には残照のジャヌーとカンチェンジュンガがヒマラヤの空に同化していく様子をカメラを片手にして眺める。

ジャヌーもこれで見納めである。ここから先になるともう見ることが出来なくなる。

11月6日  曇り

7時10分出発。今日もグパポカリまでは急勾配の登りが続く。ポーターの進み具合に合わせてゆっくりと歩を進める。今日の空は一面雲に覆われているために気温があがらない。やがてガスも立ちこめてますます暖かくなる状況ではなくなった。私たちは空身同然で歩いているため身体が温まらない。

したがってポーターと同じペースで歩き休憩すると寒い。やむを得ない、彼らと行動を共にせず、寒さを感じない程度の速さで進み先行することとする。ガスで視界が悪い山路を歩き続けるとやがてガスにけむるグパポカリの集落に到着する。時間はまだ13時すぎであった。

朝食はシェルパに負けないほどの量を食べて歩き始める。しかし、すぐに腹がへり弁当はいつも昼を待たずになくなる。

腹がへると寒い。何か珍しい食べ物はないかと集落の民家をのぞいて廻る。食べ物やチャンはないがロキシーがあるという。さっそく譲り分けて貰い空きっ腹に何杯か流し込み腹の虫をなだめる。アルコールがまわり冷えた身体が温まると一時的に落ち着く。

帰りがけに天井の梁から豚肉の塊が吊り下げてあるのが目に留まる。おやじさんに無理をいって分けて貰う。夕食は久しぶりに肉が入ったカレーを食べることができた。(いつもは肉の入ってないベジタブルカレーである)

標高が2900mほどあり夜になると一段と冷え込む。

 

11月7日  曇り時々晴れ

夜中に寒くて眠れず梱包荷物を開けて股引を取り出してはく。朝方の冷え込みは厳しく夜露が凍り天幕はバリバリである。周辺は霜で真っ白となり霜柱は10cmほどにもなっている。

凍った天幕が小さくたためない。それをポーターの荷物の上に無理やりくくり付けて8時すぎに出発する。

今日のルートには登りは少なくほとんど平坦のハイキングコースである。

したがってポーターの歩きも速い。雲の切れ間から時折、マカルー(8481m)が覗く尾根道を快調に飛ばして歩く。11時半にチョーキ着。そんなに急ぐ必要はない、ここで全員大休止とする。キャンプ地ズールパニには15時ごろに到着した。

キャンプ地は近くに民家が3軒あるのみでちょっと寂しい場所だ。民家には必ずニワトリや豚、牛を家の周りで放し飼いしている。

夕方になると家族みんなで牛、豚、ニワトリ、ヒヨコとそれぞれの囲いの中に追い込む。そして私たちは毎日卵を買い集める。毎晩のご馳走は玉子焼きである。

 

11月8日  晴れ

定刻の7時30分に歩き始める。今日からは下り勾配のよい道がバンジャン峠の登り口まで続く。朝の打ち合わせにて今日は2日分の行程を歩くことにする(ポーターには2日分の賃金を払う)。

空には雲が一つ二つ浮いて昨日と同じように日差しは強からず弱からず、絶好のハイキング日和である。1日が2日分の日当になるとあってポーターの足は速い。9時にバサンタブール、10時半、チットレー、12時にはシンドーワと凄い速さである。

途中、バサンタブールの近くで米国人パーティー(7人)に出会う。

どこに行くのかを尋ねてみると、ヤルン氷河までトレッキングに行き帰りにはダージリンにも行くとのことである。シェルパ(2人)とポーター(30人)を連れてカメラの他は水筒すら持たずに歩いていた。

風もない良い天気であり道すがら日向で髪を洗い手入れをしている女性の姿を多く目にした。

この辺りになると茶屋(バッティー)をちょくちょく見かけるようになる。その度に立ち寄りチャンやロキシーを飲む。これが楽しみで歩いているようなものである。

           
                         茶 屋

往路の時は茶屋のなかの不衛生さが気になった。特に土間に転がって多くのハエがたかっているコップを口にすることができなかった。しかし、今は平気になっている。そのコップでチャンやロキシーを飲んでもなんともない。

大腸のなかに住でいた日本の菌がようやくヒマラヤの菌に入れ替わったようで往路時に苦しんだ下痢もない。

ひげそりのケースに付いている小さな鏡に顔を映して見ると、往路時には下痢で頬がこけブドウ糖の注射で栄養補給を受けながら歩いた青白く生気の無かった顔が、今では見違えるほどのたくましい顔に変わっている。

このような状態(体調)でベースキャンプに乗り込み登山活動を始めるべきである。

しかし、残念ながら逆の状態であった。いまになってようやくヒマラヤの空気や水、風土に身体が馴染み順応して来たのである。

           
            往路の表情               復路の表情

今から踵をかえして戻れば冬季のジャヌーに登頂できるかも知れない・・・・・・・??。

本日のキャンプ地、ムレには15時40分に到着。ポーターの最後尾が着いたのは1時間遅れの16時40分であった。キャンプの設営が済むまでの間、近くの茶屋でチャンを飲みながらロキシーを蒸留しているのを見学していた。

夕方になるとキャンプの前方にある灌漑用の堤越しに夕陽に映えたマカルーとチャムランを観ることができた。

今日は2日分の距離を歩いたのでさすがに少し遅くなり、久ぶりにランプを灯しての夕食となる。

夜になると電灯の明かりがすぐ下からとちょっと遠くの2箇所から見えてきた。

電灯の灯火を目にするのは久しぶりである。電灯の明かりを見ると‘ホッ’とした気持ちになる。電灯の明かりで生まれ育った者はそのように感じ、ランプの明かりで生まれ育った者はランプの明かりを見ると安らぎを感じることであろう。

ここ(ムレ)から少し下った所はヒレ、もっと下ればダンクタの町である。

           
                    マカルーとチャムラン

 

11月9日  快晴

今日の予定はバンジャン峠の登り口の付近までである。7時30分に出発。広い下り道でポーターの足取りは速い。

この辺りまで戻ると急に人通りが多くなる。乾燥した道は人々の往来で土ホコリが立ち込めるほどの賑わいである。歩き始めて小一時間ほどでヒレに着く。

なにはさておき往路時に立ち寄った雑貨店に入りビールを注文する。ヒレまで戻れば「ビールが飲めるぞ」と思いつつ歩いて来たのである。

カウンターの上に出されたビール瓶は冷たくない。「冷えたのに換えてくれ」・・店主「いま停電している」との返事。しかたがない、温いビールでイワシの缶詰を肴にして朝から一杯やる(ビール1本:22Rs/440円)。

今日は快晴無風、キャラバンを初めて最も良い天気で気温も高い。再び歩き始めると先ほど飲んだビールが汗となり額を流れる。ダンクタに近づくに連れて人々の往来が一段と多くなって来た。欧米人のトレッカー、トレッカーに雇われているポーター、それに一般の生活物資を運ぶ多数のポーター、それに一般の住民等々。

ヒレ〜ダンクタの街道筋は往路時の何倍もの賑わいをみせている。

11時すぎにダンクタに着く。ここでは‘よく冷えたビール’にありつけるかと町の真ん中を通る石敷きの道をまっしぐらにビールのある雑貨店に3人で飛び込む。

「冷たいビール」と注文する。果たして冷たいのが出てくるかとカウンターに寄りかかってしばし待つ。出されたビール瓶をつかむと“冷たい”良く冷えている。

コップに注ぎ一気に喉へと流し込む。冷たさにこめかみがビリビリするほどである。

店の前を通るC・ビクラム(リエゾン)やシェルパを呼び止めて共に喉を潤す。

久ぶりによく冷えたビールを腹いっぱい飲む。重くなった身体で真昼の強い日差しを浴びて歩き始める。

何歩も進まないうちに先ほど飲んだビールが汗となり全身から噴出す。あまりの汗にこれでは脱水症状になってしまう。今度は水を飲まなくては、と忙しい・・・・?。

人の往来で混雑する街道をゆっくりと進みレウティー・コーラの手前付近、稲刈りの済んだ田んぼに良いキャンプ地を見つける。キャンプ予定地にはまだ達していないが本日はここまでとする。

キャンプを張るのはここが最後となる。ここまで来るともう食糧のほとんどが底をついている。近くの民家を廻りニワトリ5羽と卵を集落にあるだけすべて調達しキャンプ最後の宴となる。玉子焼きにかける醤油もなくなり代用品としてソースをかけて食べる。

11月10日  晴れ

キャラバンは本日で最後である。グンサを出発して13日目となる。

今日のルートには最後の難所?バンジャン峠の登りが待っている。暑くなる前に峠を越すため早く出発したいと思っていたが歩き始めたのは7時であった。遅れを取り戻すべく早足で歩きレウティー・コーラに8時着。

しばらく進むとバンジャン峠の登りにさしかかる。

           
                     C・ビクラムと吉賀

天気は良く風も無い。暑いこと、暑いこと、顔を流れ落ちる汗が目にしみる。暑くなる前に峠を越すどころの話ではない。最も暑い時間に最も厳しい坂道の登りとなった。

あまりの暑さに堪らず峠の木陰にある茶屋にてしばし昼寝をして過ごす。

峠を越えると後はほとんど下り坂のみとなる。坂道を駆けるように下り続けて15時ごろにダランバザールに到着する。

ここでも何をさておいても酒屋に行き冷たいビールで喉を潤す。この2〜3日、頭の中は“ビール、ビール”である。

もう、キャンプを設営するのは面倒だという気持ちになりバザール横のホテルに部屋をとる(35Rs/1人:700円)。

また、この遠征で使用したキャンプ備品、食糧の残り等をシェルパに指示して処分(売却)させる(カトマンドゥまでの荷物を少なくする)。

それとカトマンドゥ行きのバスのチケットを手配しに行く。幸い明日の便にまだ空席があり予約することができた(77Rs/1人:1540円)。出発は明朝5時となっている。これでカトマンドゥまでの段取りは完了である。

1ヶ月余りひげが伸ばし放題でむさくるしい。本通りに面した床屋に飛び込む。

立派な鼻ひげをたくわえた親爺さんが愛想の良い表情で「いらっしゃい」と迎えてくれた(ネパール語なので何と言ったか良く分からない)。

店の中には天井から裸電球がひとつ下がり、床屋用の椅子がひとつあった。それに座り「散髪はしない。顔を剃るように」と身振りで伝える。それを理解した親爺さんは大きなカミソリを持つと大きなベルトのような皮にあてて「シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュッ」とすばやく数回しごき、つぎに顔にシャボンをたっぷりとつけ大胆かつすばやいカミソリ使いで、顔を「シャーッ、シャーッ、シャーッ」と3〜4回あたって一丁あがりである。みごとな剃刀の腕前であった。

日本の理髪店みたいにカミソリをちまちまと動かすような事はしない。椅子に座って終わるまで僅か2〜3分である。裸電球の前にある鏡を見ると鼻ひげが残してある。

立派なひげなので残してくれたのであろうか?。 気を利かせてくれたのに申し訳ないが「親爺さんこれも剃ってくれ」。ひさかた振りにさっぱりした顔となった。

 

11月11日  晴れ

ホテルの部屋には扇風機も無く非常に蒸し暑い一夜であった。それに蚊が何匹も『ブン、ブン、ブン』と羽音を立てて飛び廻る。蚊取り線香もなく夜通し飛び交い熟睡できない。こんなことなら天幕の方が良かった。

まだ暗い夜明け前、朝食抜きでバスに乗り込む。1日に1便のカトマンドゥ行きは超満員となっている。通路にも人が座っておりバスの車内は身動きも取れないほど混雑している。

バスはまもなく走り出す。定刻通り5時ちょうどである。道路の舗装が良くない箇所では車体が上下左右に揺れる。我々の席は最後尾の長椅子であるため揺れがとりわけ激しい。

また、床には何箇所も小さな穴が開いておりその隙間から土ホコリが車内に入り込む。

乗客の衣服はホコリをかぶり白っぽくなっている。ネパールの人々はまったく平気な顔をしている。これがあたり前なのであろうか。

彼らと同じくらい図太い神経でありたいが私たちはひよわである。左右、上下に揺られて尻や腰が痛くなって来た。とにかくカトマンドゥまで耐えることである。

途中で3回ほど短い時間、茶屋での食事兼トイレ休憩となる。それ以外はパンクその他の故障で停車することもなくほぼ定刻通り20時すぎにカトマンドゥに到着。

9月5日にカトマンドゥを出発して以来66日間に及んだ私たちのドラマ、“ジャヌーへの挑戦”の幕をどうにか無事におろすことができた。

つづく

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