Jannu expedition '81

1981年秋の記録)

(第25回)
          
                       吉賀信市

     
    
                           朝陽のジャヌー
 

20.エピローグ

知り合いの住職に教えていただいた話では、“ヒマラヤの語源”は一般的にはヒーマ(雪)とアーラヤ(蔵)の合体した意味、つまり雪の蔵のことであるという。

アーラヤとは仏教で唯識(ゆいしき)という思想の阿頼耶識(あらやしき)のこと。

人間が物事を認識する六感(眼、耳、鼻、舌、身、意)の奥に意識にはのぼらない領域がありすべての心の働きの源となるものが阿頼耶識(あらやしき)といわれる。

私たち人間を突き動かす根源にさまざまな経験がつもって、今の私たちが知らず知らずのうちに出来上がっている。そのことを薫習(くんじゅう)という。

つまりそれと同じように古来蓄積されてきたヒーマ(雪)によって根源なるものアーラヤが被い隠されているということらしい。

  ヒマラヤの白き峰々は、仏教文化に依って立つ現地の人々にとってはそれほどまでに近寄りがたい威厳と奥深さを持った山として、いや山というよりはむしろ神殿(神々の栖)の如くあがめられて来たのである。

その山にクライマーはちょっとの油断やミスがたちどころに死につながる危険を冒してまで登ろうとする。何が彼らをしてそうまでさせるのであろうか。

若い頃ヒマラヤを目指したというある高名な作家が山登りを次のように表現している。

『山に登るためには体力と時間と費用がいる。これは山登りに必要な三大要素である。だが、それだけでは山へは登れない。山に恋する心、山に登りたいという渇望、つまり山恋がなければ三要素が揃っても山に登る気にはなれない。登山の難度やスタイルにちがいがあっても、山へ登る人々の心には山恋がある』。

 山恋、“山を恋する心”なるほどその通りだと思う。

ことにヒマラヤやアンデス、その他極地の高峰や難峰に登る場合には山恋がなければ行動に移せないであろう。

いや、そうばかりともいえない。作家がいわれるようにヒマラヤなどの高峰、難峰であれ近郊の山々であれ山登りの難度やスタイルには関係なく、対象となる山や登山スタイルはそれぞれ個人の嗜好、好みに関わることであり“山を恋する心”は皆おなじなのである。

自分の嗜好する山について過去の記録や写真をみて、感動し憧れを抱きその山への想いが徐々に膨らみ、やがて自分の経験や力量では無理かも知れないと思いつつも‘山恋’に抗しきれずに危険を承知で行くのである。

そして、たとえ目指した山の登頂に成功することができたとしても、ごく一部のクライマーの他は単に自己満足を得たということのみであり、死の淵を覗くような苦労をしたからといっても物質的な見かえりは何にもない。これが‘恋’でなくしてほかに何と表現できるのであろうか。

V・セッラ(イタリアの写真家)が1899年に撮影した妖気漂う“怪奇の峰”ジャヌーの写真(モノクローム)を二十歳くらいの時に始めて見た。その時の印象は「陰気でなんと恐ろしげな山か」であり山恋の気などはつゆほども起きなかった。

 つぎに同じ視角(アングル)から撮ったジャヌーを見たのはそれから10年ほど経た頃であった。それは書店で目にした藤田広基氏(写真家)によるヒマラヤ写真集の表紙を飾る写真であった。残照を受けて茜色に輝き天空に浮かぶジャヌーの姿である。一瞬、「あっ、どこかで見たことのある写真だ」と思った。さっそく、蔵書を片っぱしから開いてその写真を探す。 「これだ、あった、あった。」 それは‘海外登山と世界の山’(第U次RCC編)に載っていた。

V・セッラの陰気で妖気が漂い恐ろしげなモノクロームのジャヌー。一方、藤田広基氏によるこれ以上に素晴らしい姿の山は他にはないと思わせるようにヒマラヤの天空に聳え立つジャヌー。対照的で落差が激しいこの2枚のすばらしい写真に接することによりジャヌーに登りたいという‘山恋’を抱いてしまったのである。

“念ずれば現ず”とはよく言ったもので“叶わぬ恋”と思いながらも念願していたジャヌーの登山許可が幸運にも取れたのである。喜び勇んで初めてのネパールヒマラヤ行きとなった。ヒマラヤ未経験の3人によるジャヌーの麓までの20日近くの日数を要した長いキャラバンは魅惑的で楽しくも、また小さなトラブルの連続であった。

登山活動においても登攀ルートを西稜から南稜(フランスルート)に変更するというような全く想定もしていなかった行動となり3人で精いっぱい頑張った。しかし、残念ながらジャヌーのサミッター(登頂者)になる夢を実現させることはできなかった。

登頂に失敗した原因としては、本文でも述べたが、C3(6200m)からのラッシュ攻撃で登頂できると判断し、C4までキャンプを伸ばさなかったことが主因だと思う。

もし、6500m付近にC4を進めていたならば、標高差としては300m程の違いであるが道のりが大幅に短縮され攻撃が楽になっていたであろう。

しかし、そのことは別にしても客観的に考えてあの状況であれば登頂して無事に下山できたはずだ。それではなぜ失敗したのか、何ゆえ登頂することができなかったのか・・・・・・・?。

一言でいえば私たちの経験不足(不慣れ)である。高所登山におけるラッシュ攻撃の経験が足りなかったのである。

アンデスやアラスカにおいて6000m峰のラッシュ攻撃の経験はあった。しかし、それから6〜7年も経過しておりその年月の間高所登山の経験はなかった。2〜3年毎に高所登山をしたいと言う想いは抱いてはいたが、ごく普通の社会人の身としてはそういうようにできるものではない。このことは私たち3人だけではなく、ヒマラヤなどの高峰を目指したクライマーの多くが同じ想いであったことと思う。

登山に限らずどんなスポーツや仕事においても経験がものを言う場面が多々ある。私たちはその経験不足が故に絶好の登頂チャンスを逃がしてしまったように思う。

その昔、芳野満彦氏がヨーロッパから打電したと言われる「われ北壁に成功せり」を真似してカトマンドゥから「われジャヌーに成功せり」の電文を山仲間に打電することを楽しみにしていたけれど残念ながら皮算用に終わってしまった。

カトマンドゥの宿舎の庭で帰国のするための荷造りをしていると、庭の片隅で秋の陽光をあびて両足のズボンを膝までまくった格好でひとり椅子に掛けている男を見かける。「何をしているのかな」と思いそばに近寄るとひどい状態になった足が目に飛び込んだ。

「おっ、凍傷だ。これは重症だ!」と一瞬ドキッとする。前に突き出した両足の指10本が骨と皮だけに細り壊死して真っ黒となっている。指の付け根のところから腫れ上がり、そこがクレバスのような断層となり肉がのぞいている。このようなひどい凍傷を目にするのは初めてである。

      凍傷   

彼はユーゴスラビアのダウラギリ隊の一員とのことで身長は180cmを超す屈強な青年(27歳)である。片言の英語で話しかけてみると、「登頂後8000m付近にてビバークした」という。登頂の代償ともいえる凍傷である。登頂を果たした結果、高所でのビバークを余儀なくされ凍傷を負ってしまったのか、それとも代償を覚悟のうえで登ったのか、どちらであったのだろうか・・?。

両足は見るからに痛々しい状態である、「痛むか」と尋ねると「今は痛くない」という。一時期は大変な激痛と戦ったことであろう。また、復路のキャラバンは悲惨な旅であっただろうと思い想像するだけでも‘ゾッ’とする。

両足の指をほとんど失うような厳しい症状であるのに、当人の表情には気落ちした様子は微塵もなく、平然と椅子に掛け日光での消毒を兼ねて傷ついた両足を陽にさらし、ビールをラッパ飲みしながら玉ねぎを丸かじりしている。

8000m峰での先鋭的な登攀を実践するためには、このような強靭な精神力が必要なのだということを思い知らされる。私にはとても真似のできることではない、両足の傷だけを写真に撮る約束で許可を得て数回シャッターを切り‘Good luck’と言葉をかけてその場を離れた。

もし、我々3人も頂上をあきらめずに登り続けていたならば、どんな結果になっていたことであろうか。篠原さんや森口のことは推測できないが、私自身はおそらくあの青年よりもっとひどい悲惨な状態になっていたであろう。いや、最悪の結末になっていたかも知れない。

何事も本当のところは実践してみないと結果は分からないが、50%以上の確率で悪い結果になる恐れがあると判断できるようであれば無理をすべきではないと思う。

あの時ジャヌーの頂上を目前にして、指を5本も10本も代償にすることを覚悟して頂上に向かう勇気はなかった。私は山登りなんぞで手足の指を1本たりとも失いたくはない。困難な登山に出発する際には、もしかしたら死ぬかも知れないという思いはあるが、身体の一部を失うことを覚悟してまで頂上に立ちたいとは思わない。

近年『身体能力』という言葉を耳にし、活字で見たりするようになった。人間も動物の一種であり生まれながらにして『身体能力』に差異がある。それは努力しても超えることのできない大きな壁である。しかし、それを自覚していてもなおあきらめずに目標(夢)に向かって努力をし続けるのが人間であり、己の限界を知ることができるのもまた人間である。

8000m峰に無酸素で登頂する、また高峰をアルパイン・スタイルで登攀する人は持って生まれた身体能力が普通の人よりも優れている。並の人が厳しい訓練を積み努力しても彼らと同じ水準まで身体能力を高めることは容易ではない。人それぞれに自分の限界があり、訓練の過程において“自信と限界を知る”ことこそが大切である。

話をジャヌーに戻す。外国のクライマーは毎年ジャヌーに挑戦している。しかし、近年日本人クライマーの足跡はないようである(私の勉強不足かもしれないが)。人の好みや美意識は千差万別であるが、東部ネパールの峰々のなかで雄々しく且つ秀麗な山の一つであるジャヌーに、私たち以後日本人クライマーが挑戦しないのは不思議な気がしてならない。ジャヌーはその困難さにおいて並の8000m峰をはるかに凌ぐ。労多くして一般受けしないことが日本人クライマーを遠ざけているのであろうか・・?。

ジャヌーが終わってあれからもう23年の歳月が経とうとしている、今になって昔のことを整理する気になったのは年を取った証拠であろう。

ジャヌーの頂きに立つことはできなかったが、(この歳になると)あの時に登頂に成功していようがいまいが今となってはどちらで良いと思う。しかし、“失敗した”ことへの想いはいつまでも消し去ることができず時折脳裏に浮かぶ。失敗は成功よりも深い想いが残るものではないだろうか。

ジャヌー以後登山活動は休止しているが、いつの日か再び挑戦したいとの夢は持ち続けて来た。連れ合いからは「子供や家庭のことはほったらかしにして、暇があれば自分の趣味の運動ばかりしている」と、叱られ続けながらも体力を維持するための努力を継続して来たつもりである。

しかし、最近は加齢による経年劣化(老化)と自分自身の不注意によるケガなどにより、ガタがきはじめている身体はトレーニングをすれば、逆に支障をきたしてしまう有様である。

海外登山はいままで2回(アンデス、ヒマラヤ各1回)経験することができたけれど、若い時にはジャヌーと8000m峰の一つくらいは登頂したいとの想いがあった。しかし、これといった取り柄のない平凡なサラリーマンとして、自分の生活能力を勘案するとこの2回が限界であった。

近年、三浦雄一郎氏(2003年、70歳でエベレストに登頂)に代表されるように60歳を過ぎた老練クライマーが8000m峰に挑戦する事例が多くなっている。20年、30年、それ以上の歳月思い続けた人もいるであろう。それをいま実践しているのである。

20歳のころ、“北壁の青春”という言葉を見ききした。高田光政氏の言葉だったと思うがこの新鮮な言葉の響きに憧れ、また小西政継氏のマッターホルン(冬季北壁)の登攀記などには少なからず刺激を受けたものである。

その小西氏は中高年に再開した登山活動においてマナスルに逝ってしまった(1996年)。

また、冒険や登山において最も著名であった植村直巳氏はそれに先立つこと12年前(1984年)に、烈風の吹きすさぶマッキンリーに消えている。両氏の遠征記には胸の高鳴りを覚えたものである。その両氏が山に召されてしまい誠に残念なことである。

他にも著名な何人ものクライマーや冒険家が命を落としている。自分の可能性の限界を押し広げる登山や冒険は魅惑的である。しかし、それは“綺麗なバラには刺がある”の例えのようなものではないだろうか。

もう、長い間山登りはしていない。しかし、60歳を過ぎ時間的な余裕ができたならばジャヌーへの再挑戦は無理にしてもカメラを担いであの周辺を歩き廻りたい。また、アンデスの雄峰イエルパハー(アンデスの白い鷹)の雪壁をワスカランにて高度順応後アタックできないものだろうか、などと夢みている。(おわり)

   
                     全員(グンサにて)

注)唯識:仏教思想の一つで万有はすべて識(心の本体)の変現であるという考え方。唯識では六つの認識作用(眼・耳・鼻・舌・耳・意)に、末那識(まなしき)と阿頼耶識を加えて八識となす。因みに西遊記でお馴染みの玄奘三蔵法師は唯識仏教を求めて長安(西安)から天竺(インド)に旅をした。その系譜は法相宗して法隆寺に伝わる。
 末那識:深層に働く自我執着心のこと。

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