Jannu expedition '81

1981年秋の記録)

(第21回)
          
                       吉賀信市

  
                   シェルパたち全員と

17.ベース・キャンプ撤収

10月23日 晴れ 起床:8時

昨夜は久しぶりにぐっすりと良く眠れた。そして、今朝は何日かぶりにシェルパの「サーブ、ティー」の声で目が覚める。シェルパが持って来てくれたミルクコーヒーをシュラフに入ったまま半身を起こしてゆっくりと飲み終えて天幕を出る。

空は雲ひとつない快晴。ジャヌーの方に目を向けると頂稜は静かなようだ。

7〜8m離れたキッチン兼食堂天幕へと行く。中ではシェルパたちがかまどの火を焚き朝食の準備をしている。その前に座りシェルパにミルクコーヒーのお代わりをたのむ。 

それを飲みながらかまどから立ちあがる赤い炎をぼんやりと眺めて食事ができるのを待つ。

アタックした後の疲れは特に感じない。しかし、精神的には虚脱感を感じる。

やがてみんなでたあいのない雑談を交わしながらの朝食となる。言葉を交わしながら頭の中に今後の予定というか可能性を浮かべてみる。3人共、再度のアタックを懸けられないほどに消耗はしていない。

今日から3〜4日BCで休養するとして高度順応は出来ている。もう1回アタックをかける日数は充分ある。そしてC3の天幕も残してある。

BCからC3までは1日で行ける。そして今回はアタックキャンプを6500m地点(C4)に前進させる。今度はそこから一気に頂上を狙う。“肩のコル”までは経験済みで状態は分かっている。C4が天幕であれば夜明け前の暗い内に出発できる。明るくなる頃に南稜に達すれば13時頃には頂上に立てるであろう。そして“肩のコル”付近まで下り1ビバークとする。次の日にC4の天幕に帰着。C4からはC1まで下る。ここまで下れば問題はなくなる。順調に行けばBCから1週間あれば可能である(天候次第であるが)。

さて、どうするか。篠原がどう判断するか気になり声を掛ける。篠原からは「やめよう」と思いがけなくあっさりとした返事が返って来た。

            
                             挑戦終わる

残念、無念であるが正しい決断であろう。この一言をもって今回のジャヌーへの挑戦は幕引きとなった。

南稜ルートの登山活動は20日以内の予定でスタートした。そして、その結果は予定通り20日以内の19日で終了することとなった。

ほぼ計画した通りである。しかし、肝心の頂上に立てなかったことが唯一の予定外である。

アタック2日目が荒天にてほとんど高度を稼げなかったこと(ビバークで眠れなかったのが主因)が成否の分かれ目となってしまった。

ジャヌーの頂上に立つことを夢みていたがサミッター(登頂者)にはなることができなかった。

ああすれば良かった、こうするべきであった、と多くの悔いが残る。しかし、登頂に失敗したことへの悔いはあるが、私たちが目標とした登山、すなわち、“仲間一人、ひとり、自らの手で困難な障害を乗り越えベースキャンプより上部においては外部の力には頼らず全員が登頂を目指す”この趣旨に近いものを実践することが出来たと思う。

初めてのヒマラヤでジャヌーに挑戦という幸運に恵まれ3人で精いっぱい戦ったという達成感はある。

再度のアタックをやめるとなればこの場所(景色が良くない)に長く居る必要はない。

協議の結果とりあえずグンサまで下ることにする。そして、その出発は10月26日と決まる。

本日を入れて3日間にてベースキャンプを撤収する準備を整えることになった。

食事を終えて外に出ると風もなく暖かい。この4〜5日は高所での厳しい寒さの環境にさらされていた為ベースキャンプは暖かく感じる。

この暖かさに誘われて汚れた衣類の洗濯をすることにしよう。

キャンプの前を流れる冷たい水を大鍋で少し温めて衣類を洗う。そして、キッチン兼食堂天幕の周りにロープを張り並べて干す。

干し終えてベースキャンプ全景を見渡した時「あっ、ない、しまった」と初めて気づいた。日の丸、日章旗が掲げられていないのである。

       
                 ベースキャンプ全景

今までまったく気づかなかった。何ということだろうか。アンデス遠征の時はしっかりと掲げていたのに今回はヒマラヤの空に翻っていない。

気持ちにその余裕がなかったのであろうか。もしかすると登頂に失敗したのはこのような余裕のなさが原因なのかもしれない?。

日の丸は日本から間違いなく持って来た。ネパール国旗はカトマンドゥで「ナショナル・フラッグを買いに行こう」とシェルパと2人で買いに行った覚えがある。

しかし、BCには掲げられていなく忘れてしまっている。荷物の中を探すがどこにも見当たらない。今更どうしようもないことだ。

ラッシュ攻撃に出発して(10月18日)以来5日間ほど日記を記していない。

この間の5日間は日記を書けるような状態ではなかった。

行動の記録を簡単に記しておこうと手帳のページをめくる。新しいぺージを開いて書こうとしたところ真っ白いはずのページに黒い小さな点が幾つか見えた。

何だろうと思い手で払ったが黒い点は動かない。その瞬間に「あっ、眼底出血だ」と認識した。

高所における眼底出血のことを文献で読んだことがある。厳しい高所登山をした場合その時の体調にもよるが本人が気づかないのを含め3〜4割の人に眼底出血の症状がみられる。という報告であった。

しかし、自分にそのような症状がでたとは少なからずショックである。そんなことになるとは思いもしていなかった。

‘眼底出血’この実態から体調が不十分な面もあったが自分としては限界であったといえよう。

足の指が登攀中の4日間ほど感覚がなくなっていた。気になり晴天の太陽光線のもと靴下を脱いでよく診てみるが外見上異常は認められない。

少し白っぽい気がするが腫れてもいなく痛みも感じない。篠原、森口も特に身体的に異常はないようだ。

10月24日  雲り  

今日は朝方より、天幕を揺らす風が吹いている。BCでこのような風が吹くのはBCを設営以来初めてであろう。下の方も風が吹く時期になって来たのであろうか。

山はガスにけむって良く見えない。グンサまでのポーターの人数を手配するために全員で荷物の整理を行い数量をまとめる。

荷物は20個ほどになりそうだ。シェルパにグンサポーターを20人手配するように指示する。

曇は徐々に厚くなり辺り一面ガスに覆われて天幕の周辺5〜6m以外は何も見えない。午後はシュラフに入り昼寝をして過す。

 

10月25日  晴れ    

昨日、空を覆っていた厚い雲がうそのような青空である。ベースキャンプに居られるのも今日1日限りとなってしまった。もう今日だけだと思うと去りがたい気持ちが湧いてくる。

BC設営(9月28日)して以来、約1ヶ月間ジャヌーの麓で過したことになる。

感じとしてはもっと長かったようであり、あっという間の非常に短い期間であったようにも思える。西稜から急に南稜へと登攀ルートを変更したこともあり非常にあわただしい1ヶ月であった。

最終的な荷物の整理を終えると全員でジャヌーを背景に記念写真に納まる。

           
                          ジャヌーを背景に

 2日ほどの休養で焼けただれたようになっていた顔や唇の皮が剥けて幾分まともな状態になってきた。そして、熱いお茶を飲む時の唇の痛みも少なくなった。

夕方、日没直前のジャヌーを撮りに行くことにする。BCより小一時間ほどヤマタリ氷河を下る。モレーンの中央に格好の大きな岩を見つける。その上に登りカメラを構えて夕陽がジャヌーを照らすのを待つ。

この辺りの位置からはジャヌーの象徴である“怪物の頭”を想わせる頂稜は残念ながら半分も見えない。

夕陽に照らされ黒々しい空にそそり立つジャヌーの雄姿を撮りたいと思うがそれは叶わない。待つことしばし、ジャヌーは残照を受けると淡い桃色から徐々に橙色へと変化しやがてヒマラヤの空に同化していった。(つづく

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