Jannu expedition '81

1981年秋の記録)

(第回)
          
                       吉賀信市
  
    
                 大分の山仲間による壮行会

. 計画の概要

ジャヌー(7710m)はネパールの東方カンチェンジュンガ山群に属し、チベットとシッキムの国境に近い位置にある。

          

          

この山域はカトマンドゥからは遠く離れ、交通の便も悪くキャラバンに日数を要し、訪れる人も少ないために旧来の生活路や住民の生活が保たれており、山々の魅力もさることながら人々の生活や文化にも大変興味深いものがある。

 ジャヌーは1962年フランス隊による南稜からの初登頂以来、いままで(1981年春)フランスルートから4回、南西稜より1回、それに北壁から1回の計6回登られている。

 今回の私たちは、未踏の西稜から挑むものである。私たちはいわゆる分業登山から本来の登山、すなわち、仲間一人ひとり自らの手であらゆる困難な障害を乗り越え、ベースキャンプ以上に於いては、極力外部の力には頼らず全員が頂に立つ、と言う理想に燃えこの計画を実践する。

 隊の構成及びメンバー 東京露草登高会:隊長;篠原正行(34)、隊員;吉賀信市(31)、森口孝(29)、医師;朝波惣一郎(39)、リエゾン・オフィサー;チャンダラ・ビクラム(30

          
 
        篠原正行        吉賀信市         森口 孝

                  
              朝波惣一郎       チャンダラ・ビクラム


3.準 備

待望の許可が取れてからやっとトレーニングに身が入るようになった。暮れから正月にかけての篠原と2人による谷川岳での合宿。森口は静岡で所属している山岳会の冬山合宿に参加した。互いに気心が知れているので3人で会って調整しなければならない事は特にない。

問題と言えば、ヒマラヤ登山には医師の参加が必要である。篠原の知人である慶応病院の朝波ドクターが「ジャヌーならば途中まででも行こう」と多忙な日程を調整して往路のキャラバンのみ参加する事となった。

 実は、朝波ドクターが何人かの医師に打診したが無名のクライマー3人がジャヌー、しかも未踏ルートに挑戦するような無謀?な登山隊に参加してくれる物好きな人は見つからず、朝波ドクターが変則的な参加となった次第である。

 5月の連休には篠原宅に世話になり、3人でスノーバーの製作、装備や食糧の手配、買出し等の諸準備をしたが、静岡、大分と離れているため出発までの細かい準備、別送品の梱包及び発送等その他こまごました事をほとんど篠原にやってもらうことになった。

 体力増強のトレーニングは、ランニングと倉庫の天井から吊るしたロープを‘ゴボウ’で登る。これを確実にこなすように努力した。

 また、山の準備と併行して、仕事の引継ぎ作業等々、時間は瞬く間に過ぎて出発する日が近づいて来た。

 会社関係や大分の山仲間による激励会、壮行会を催して頂き、1981816日、友人、知人、親戚、家族ら大勢?に見送られて大分駅から列車でまず東京に向かう。

           
                   大分を発つ日(1981.8.16)

 東京では篠原宅にやっかいになり、国内での最後の準備を数日間行い822日、露草登高会の仲間に見送られて成田を発ちバンコク経由でカトマンドゥへと旅発った。この時もアンデスの時と同様、手荷物を軽くするため真夏の暑い日に登山用の2重靴を履いていた。
つづく

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