ジャヌーへの挑戦 Jannu expedition '81
(1981年秋の記録) (第17回) 14.第3キャンプ(6200m) 10月15日 晴れ 起床:3時30分 天幕を撤収してザック入れきれないほどいっぱいとなった荷を背負い6時過ぎに出発とな る。取り付き地点はすぐ近くである。固定ロープにユマールをセットして登攀を開始する。垂直に近いルートに固定ロープは(8mm・クレモナ)1本のため少し不安である。 しかし、ロープに傷がつかない限り簡単に切れることはない。ロープに傷をつけないように慎重に登るとしよう。 それにしても重荷を担いで垂直の壁をユマールで登るのはこの高度になると辛い。何かの拍子でバランスを崩すと呼吸が乱れ腕は疲れて感覚がなくなってくる。 これが7ピッチ続き稜線にでる。稜線に立ち「やれやれ」と思ったのはつかの間、巨大なカリフラワーが小山のようになって連なる白い尾根の登りはもっと大変で苦しくて肺が口から飛び出しそうである。 酸素を体内に取り込もうと激しく呼吸をする。その状態は酸欠状態の水中をパクパクと口を開けて苦しそうに泳ぐ金魚のようである。 時々、左の上部に見えるジャヌーの頭に目をやりながら、20歩ほど登っては立ち止まり呼吸を整えるペースで登高して行く。 左の下には王座氷河から落ちる大氷爆が大きな口を開けている。もしもバランスを崩して落ちればおしまいである。アンザイレンすると登攀スピードが遅くなるため可能な限りノーザイルで登ることにしている。 稜線は雪と氷が複雑に変化し左右上部には大きなハンギング・グレッシャーが覆いかぶさっている。その中を進む私たちは小さな‘アリ’が巨大な砂糖の山に迷い込んだような状態であろうか。 複雑で急峻な雪稜を登り終えると急に視界がひらけて正面にジャヌーが良く見えるプラトー(台地)に立つ。 高度計は6220mを示している。もう少し上部にC3を設営したいと思うが、ここから見る限りほかに適当な場所が見あたらない。この台地に第3キャンプを設営することに決める。 この場所は平らに均す手間はほとんど要らず足で幾分踏み固めるのみで済む。C2を撤収して運び上げた天幕を張りC3の設営を完了する。この小さく狭い天幕に3人も入ると窮屈で身動きもできない。 しかし、ビバークの辛さを思えば窮屈で居心地が悪いなどと言ってはおれない。 あらためて正面に聳え立つジャヌーを観る。日本の山での感覚であればここから1ビバークでアタックが可能のように思える。ところがここからの高度差はまだ1500mもある。 しかし、そんなにもあるとは見えなく感じられない。 BCから仰ぎ見た王座氷河からヤマタリ氷河へと落ち込む断崖の大氷瀑の落ち口も手が届きそうなすぐ近くにある。山のスケールが大きいために見える景色が圧縮されて近くに見えるようである。 このプラトーから先はなだらかな雪稜から‘小刀の頭’、その上部の‘レースの頭’へと続く。 その地形はフランス隊の写真とは少し変化しているようだ。 フランス隊は‘レースの頭’の左中腹にルートを取っていた。今、この場から見る限りそこはルートとしては困難なように見える。 私たちは‘小刀の頭’は左に捲いて‘レースの山稜’を登り‘レースの頭’を乗り越して王座氷河に入るルートとする。 C3からの観察では‘レースの頭’から王座氷河へは『ガクン』と大きな落差(高低差)があるように見える。 王座氷河の全容は‘レースの頭’に遮られてほとんど見ることができなく、源頭部のみが見えるだけで全容をつかむことはできない。南稜と南西稜に囲まれた王座氷河の広い源頭部、その上に見えるジャヌーの頂稜は目と鼻の先ほど近くに感じられる。 キャラバンの時、グルジャガウンの丘から遥か遠くに小さく見えた頂稜が目の前の蒼空に陽光を浴びて青白く輝いている。頂上までの道はまだ遠いがジャヌーの懐の中に入り込んだ気がする。 ジャヌーをチュンゼルマ峠から間近に、ヨーロッパ人として最初に眺めたイギリスの植物学者J.D.フーカーは次のように記している。 「ジャヌーの円錐頂が雪の肩から霧雲をたな引かせた姿は、これまで見たこともないほどの本当にすばらしい、雄大な光景だった」と。私たちは今その雄大は光景の中に入り込んでいる。 天気は今日も快晴無風。ジャヌーの頂稜もまったく雪煙を上げていない。C3の付近では微風も吹いていない。陽が西に沈み始めると青白く輝いていたジャヌーの周辺は、残照を受けて上部から少しずつ紅色に染りはじめる。 頂稜から左の南西稜、右の南稜、レースの山稜、最後に王座氷河の源頭部という順に変化をする。南西稜の黒い影が徐々に大きくなり王座氷河の源頭部の一部を黒く覆う。この影とうす紅に染まった山肌の対照が神秘的な雰囲気を醸し出す。目の前で大自然による千変万化の色彩のドラマが音もなく静かに繰り広げられていく。 荷上げを兼ねたルート工作へ6時すぎにC3を発つ。辺りはまだ薄暗くやわらかな雪面に足をとられながら真っ白い扇状をしてヒマラヤ襞を付けた‘レースの山稜’の基部へと向かう。 足の運びは歩数を数えながら20歩進んでは立ち止まり大きく息を吸い荒い呼吸を整えるといったペースである。 酸素が薄いとは何と苦しいことかと身にしみて感じる。 ‘レースの山稜’基部付近にてルートファイディングを行う。その結果、C3から観察したように‘小刀の頭’を経由せずに‘レースの頭’付近へ山稜の側壁を直登することにする。 傾斜が幾分緩やかになった箇所を探し山稜への登攀を開始する。暖傾斜とは言え部分的には垂直に近い雪壁を攀じて‘レースの山稜’に達する。 山稜に立つと視界が開け右奥に氷河が広がっているのが見渡せる。ヤルン氷河である。 その上部にはカンチェンジュンガ(8598m)が聳え立っていた。 遠くグルジャガウンの丘から遠望した時には迫力を感じなかったが、ここからは息を呑むような迫力に圧倒される。 後方に目を転じると遠方にマカルーがはっきりと良く望める。 白い雪の‘レースの山稜’を幾つかの小ピークを越しながら登高すると、最後の乗り越し(レースの頭)にかかる。傾斜のきつい2ピッチの氷壁を森口が得意のダブル・アックスで越えて行った。後続はユマール登攀で続く。 ルートには古い固定ロープが氷の中に埋もれているのが割れ目からのぞいていた。どこの隊が残した物であろうか。 ‘レースの頭’に立って前方を見ると、C3からは大きな落差があるように見えたのに高低差はまったくない。あれは目の錯覚であったのだろうか。 ‘レースの頭’からは氷河が一旦ゆるやかに下降している。そしてこんどはゆるやかな登りとなり氷河の中ほどまではきれいな雪原となって続いている。 その上部からは傾斜のある登りとなる。その状態が頂稜直下まで続きそしてところどころに氷河の大きな断層があるように見える。 距離はC3から見た感じよりもはるかに長いものになっている。風紋のあるこのきれいな雪原は見る限りにおいては、ヒドン・クレバスの危険は少ないと判断してノーザイルで雪原に踏み込む。 歩き始めてまもなく先頭を行く森口の身体が急に沈んだ。ヒドン・クレバスだ。 幸い、人がいきなり『ストーン』と落ち込むほどの大きな裂け目ではなく事なきを得た。 そのような箇所は少し雪面が下がっておりよく見るとその違いが分かる。充分に気を付けなければならない。 雪は思っていたよりも柔く足首まで場所によっては膝下までも足がもぐる所もある。 ゆるやかな登りになると急に足が動かなくなり10歩ほど進んでは乱れた呼吸を整えるという遅い進み具合である。 後ろを振り返って見ると足元から‘レースの頭’まで傾斜のゆるやかな雪原が我々の足跡を残して続いている。こんな簡単な雪原を歩くのが「どうしてこんなにも苦しいのだろうか」と思う。 次第に傾斜がきつくなってくると雪面が締まって来た。高度が上がってくると遠くからは垂直に近い急傾斜に見えていたジャヌーの頂稜や右の南稜が斜めになって見えるようになった。 目に入る光景の変わり具合が平地の場合とは異なるように感じられ地上を歩いているのではなくどこか別世界にいるように思える。 14時過ぎに6500m付近に達した。そこから先は足元から大きな裂け目が氷河の右端から左端まで横断して行く手を阻まれる。二手に分かれてクレバスの淵を両端まで歩いて渡れそうな所を探す。 しかし、大きな裂け目はほぼ平行に走っており狭まって渡れそうな箇所は見つからない。 さて、困った万事給すか?。 ここを突破するにはクレバスに長い梯子を架けて渡るか、又はクレバスの中に降りてルートを求めるかのどちらかより手段はない。 梯子などあろうはずもなくクレバスの中に入り込むより他に道はない。 クレバスの深さは10m以上ありそうだ。そしてそれより下部の裂け目は狭くなっているように見える。なんとかなりそうだ、下るよりほかにルートはない。意を決してクレバスの中へと慎重に下降していく。 両側に切れ落ちた氷の裂け目は深くなるにつれて澄んだブルーアイスに変化しその美しくしさにしばしみとれる。 クレバスの内は上から見たように氷の割れ目が狭くなっており特に危険は感じない。 風も防げてビバーク地としてもよい所である(もし、雪崩があれば生き埋めとなるが)。 とりあえず荷物を安全と思える所にデポし、左側壁(クレバスの淵)を慎重に横断しながら出口を探す。 しばらく、進むと氷の切れ目がありそこから再び氷河の上に攀じ上がることができた。 本日はここまでとしC3へと引き返し始める。 傾斜のある下りでは足が前に出るがゆるやかな起伏が続く氷河の歩行になると急に足が重くなる。‘レースの頭’へと緩やかに続く登りは足に重りを付けて歩いているようであった。 歯をくいしばって歩いているのに遅々をして前に進まない。 ‘レースの山稜’を何度かの懸垂下降を交えて下り17時頃C3に帰着する。 今日は非常に疲れたがほぼ予定通りの行動に満足する。本日の結果を踏まえてアタックをこのC3からにするか、登頂をより確実なものにするために6700m付近を最終キャンプ(C4)とするかを検討する。 その結果C4を出すまでもなくここからアタックをしても大丈夫であるとの結論となる。 このC3(6200m)からラッシュ攻撃をかけることに決定する。 明日、17日は休養と準備にあてるとして、18日:6700m付近で1ビバーク目、19日:南稜の7300m付近で2ビバーク目、20日:登頂後6700m付近で3ビバーク目、21日にC3へ帰着する計画とした。 17時半頃BCに定時交信するが応答なし。どこかの山域でフランス語らしき言葉にて交信しているのが良く聞こえる。 10月17日 晴れ(風あり) 起床:10時 快晴無風であった天候は夜半から風が吹きはじめ天幕を揺らしていた。 目覚めるとすぐに外に出て天候を確かめる。雲ひとつない晴天である。 しかし、風がありジャヌーの頂上からもわずかに雪煙がたなびいている。 2週間以上も晴天が続いている急に大きく崩れるようなことはないであろうと楽観的に考え自分を納得させる。 天候に関しては天気予報がある訳でも無く何も頼るものはない。自分たちの勘より他には何もない。いわゆる観点望気以外は何もなく、それに頼るよりほかに手段はないのである。 しかし、それはほとんどあてにはならないと言えるであろう。 天候に関しては運を天に任せているのが少人数パーティの実情である。 いろいろなリスク(危険)考慮すれば少人数にて困難な高峰に挑むことはできない。 それを実践するからにはそれによる危険は甘受しなければならない。困難な高峰に少人数で挑む場合に安全な登山などあり得ない。登るに困難な山は危険である。それは登山史が物語っている。 念願していた登頂に成功した。しかし、生きて帰って来くることができなかったならば、それはそのクライマーの判断の誤りであった思う。無事に帰って来てこそ登頂したと言えるのではないだろうか。 この場所はジャヌーを観るには最高の所である。 何も考えずにマットに座ってお茶を飲むだけであれば、この高度(6200m)でも平地と同じく苦痛は感じない。 顔は強い直射日光と氷河の反射に焼かれて凄い形相になっている。特に唇は傷つき熱い飲み物は痛くて飲めない。 今日は朝起きるのが遅かったため1日が経つのは速い。今日も昨日、一昨日と同様、西に沈みゆく太陽の残照を受けて変化する目前のジャヌーの様子をカメラに収める。 シュラフに入る前に小用で外に出ると満天に星が光っている。すこし、風はあるが星はまばたきをしていない。 したがって雲は流れていないようだ。しかし、1973年ヒリシャンカ(アンデス)の頂上直下でのビバーク時に仰ぎ見た南米の星空よりもここから見る星は冷たく光っているように感じる。 いよいよ、明日からジャヌーとの真剣勝負がはじまる。あと3〜4日好天が続きこの身体が耐えてくれることを祈る。 17時の交信で18日からアタックする事をBCに伝えた。また、トランシーバーは常時開局しておくこと。 (脈拍:101〜102、呼吸:18〜20) (つづく)
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