Jannu expedition '81

1981年秋の記録)

(第13回)
          
                       吉賀信市
 10.西

10月1日 晴れ  起床:5時

今日からいよいよジャヌーへの挑戦がはじまる。同行を嫌がるシェルパを残してBCを6時に出発する。計画の時からなるべくシェルパには頼らずに、3人でジャヌーを登ることを目的としていたので、ルート工作にはシェルパをあてにはしていない。しかし、氷瀑帯上部のプラトーまでの荷上げには必要である。

 やがて、昇って来た朝陽がジャヌーを照らす。自然のスポットライトを浴びせられたジャヌーはそれ自体が一個の発光体のようにきらめき立った。

3人でアイス・フォール帯へとヤマタリ氷河本流のモレーンを遡行し始める。

しばらく歩くと岩、石ころのころがったモレーンはなくなり、いわゆる氷河(氷)となる。アイゼンを装着して氷河を登高する。南西稜の傍を通りアイス・フォール帯の取り付きまでBCから約1時間半を要した。

          
                ヤマタリ氷河本流の氷瀑帯

取り付きから見たヤマタリ氷河本流のアイス・フォール帯は大きな氷瀑が階段状となり見える限り上部へと続いている。中に踏み込んで見ると今にも崩れそうなセラックが乱立している。

セラック帯の中をクレバスにも注意しながら右に左にと蛇行しながら氷塔の間を縫って進む。氷河の中は照りつける太陽の直射日光と氷など周りからの反射熱で暑くてたまらない。おまけに風もまったく吹かない。

あっちこっちには崩壊したセラックの残骸がトルコ石のような色(ブルーアイス)をして転がっている。そこを抜けるとまたおなじような氷瀑がいく手を阻む。

陽光を浴びて美しい輝を放つ蒼白い氷壁は高さが10m前後もあり容易には登れない。氷は硬くピッケルで軽く叩いたくらいでは傷も付かないほどである。氷瀑の切れ目を探して右に左にと動き廻るが弱点を見出せない。想像していた状態よりもはるかに悪い。

          
                     氷瀑帯を行く(1)

 初日でもあり14時過ぎに今日の行動を打ち切りBCへと引き返し始める。気温の上昇により先日の雪がやわらかくなりアイゼンにダンゴとなって付着し靴が重くて歩きにくい。日本の春山の雪よりも始末が悪いほどである。時折、アイゼンの『ダンゴ』をピッケルで叩き落としながら氷河を下る。篠原と森口は靴擦れで足が痛むようでしかめっ面で歩いている。『チョロ、チョロ』と水の流れる音がする。強い太陽熱により日当たりの良い箇所の雪と氷が解けて氷河の上を小さな流れとなって水音を立てている。喉がカラカラに渇いておりその流れに顔を直接突っ込んで腹いっぱい飲む。高度が下がるに連れて「ジィリ、ジィリ」と頭を締め付けるような痛がしはじめる。休憩後、歩きはじめてしばらくの間がひどいようである。それを何度か繰り返しながら下り16時すぎにBCに帰着した。

お茶を飲み一息ついたところで今後のことを検討する。西綾のプラトーまでは、そんなに問題なく行けるものと考えていた(その資料はない)が、実際に氷河の中に入って見ると状態は非常に厳しいのもであった。しかし、このまま引き下がることはできない。明日からはアイス・フォール帯を突破するように全力を尽くす。そのためにチェコスロバキア隊(1981年・春)に参加しているシェルパ(アンテンバー)を途中まで連れて行き氷河の状態を見せることにする。

 

10月2日 晴れ 起床:5時

アンテンバーを伴って6時に昨日のトレールを追い氷河を登高する。1時間あまりで南西綾の基部近くアイス・フォール帯の入り口付近に達した。氷河の状態を見たアンテンバーは「チェコの時はもっとイージーだった。危険だ。荷上げはノーだ」という。

          
                    氷瀑帯を行く(2)

アンテンバーをBCに帰らせ、我々3人は昨日の到達地点に向かう。崩壊したセラックの大きな氷塊が昨日よりも多く転がっている。「こんな塊にやられたならば即死だろう」などと思いながらセラックの間を縫って登る。昨日の地点に着き、森口がトップとなり得意のダブル・アックスで氷壁に取り付く。ピッケルとアルパイン・ハンマーを両手に握り、それを交互に硬い氷に打ち込み、アイゼンの出っ歯を蹴り込みながらきわどいバランスで10mほどもあるアイス・ビルディングのような氷壁を越えて行った。後続の篠原、吉賀はユマール登攀で続く。

          
                      氷瀑の登攀

上に着いて上部を見るとやはり同じようなセラックと氷瀑帯である。氷壁を数ヶ所乗り越して5300m付近に達したが状況に変化はない。上部を見ても氷瀑帯は、まだ幾つもの階段状になって続いている。これでは仮に西綾のプラトーまで到達しても荷上げが困難である。

シェルパは「危険だ」とアイス・フォール帯に入ることを拒否している。それでは我々3人でプラトーまで荷上げをしなければならない。「冗談じゃない」そんな事をしていたならば体力、精神的にも西綾に取り付く前に終わってしまう。それに不安定なセラックがいつ崩壊するか分からない。

この状態では何時かはセラックの崩壊に遭遇することであろう。いつまでもこの中に居るのは危険である。どうするか。決断は早い方が良い。長居は無用である。13時ごろ西綾ルートの断念を決断し下降に移る。

          
                       断念・下降

何ヶ所かの氷瀑を懸垂下降し、セラック帯を通り抜け氷河を下り16時すぎBCに帰着する。

登山計画の西綾ルートの放棄は残念である。しかし、あのような状態のアイス・フォール帯を登山ルートには出来ない。命がいくつあっても足りないであろう。さて、どうしよう。どうするか。計画のルートがダメだからといってこれですべてが終わりではない。

BCに帰り着くとすぐに南綾(フランス・ルート)への転進をリエゾン・オフィサーに申請する。フランス・ルートを詳しく検討したことはないが、西稜ルートに比べるとジャヌーに登頂できる確率が高くなったと言えよう。南綾の資料としてはフランス隊の遠征記に載っていたルート略図のコピーを持って来ている。さっそく開いて見ると目の前にあるジャヌーの姿と略図のコピーはかなり違っているようだ。略図には下部が描かれてない。

見た場所がこのBCの位置ではないようだ。それにその年によって気象の影響で地形(雪、氷)は変化して多少変わる。略図はあくまでも参考として自分たちのルート・ファイデングで登攀すれば良い。

明日を1日準備にあてることにして、明後日(10月4日)より南稜ルートからの頂上を目指すことにする。(つづく

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