天狗岳を目指した二度の敗退記録   厳冬期石鎚山への憧憬  
その1.『天狗岳は遥か』  挾間 渉

  期間:平成3年12月27〜30日
  パーティ:挾間 渉・三浦猛夫

 頂上を目的とした私のこれまでの山行の中で、計画どおり目的の山の頂に立てなかったことが一体幾つあっただろうか。最近頓に心細くなって来た記憶回路を辿ってみると、積雪期の剣・立山連峰登頂を目指した昭和47年の春、それに厳冬期の北壁から剣ヶ峰を目指した50年2月の伯耆大山くらいのものだ。前者は内田さんと2人、未熟、荷が重すぎた、雨にたたられた等の理由から、後者は同じく内田さんと私の登攀隊それにサポート栗秋の3人、25歳、体力、気力ともに、果敢な登攀において最も充実した時期、前年雪が来る直前に来るべき日のためにわざわざ無雪期に北壁にトレースをつけるなどの周到な準備にもかかわらず、豪雪の前になすすべもなかった大山北壁・・・・・・予定どおりにいかなかったのは、この二つくらいのものだ。

 平成3年の暮れ、私達は厳冬の石鎚山天狗岳に初めて挑んだ。四国の山に厳冬期があるか・・・・については、厳冬期天狗岳の初登攀者の一人西岡一雄の登山記録の中の「石鎚山、こんな山が、といふ考へは真冬においてのみ妥当ではない。これは誠に登るべき山、好箇の試練場たることを失はない」という結びの言葉が、この山の厳しさ、困難さを如実に物語っている。

 僕の冬の石鎚に対する積年の想いは、おゆぴにすと第2号に詳述した。今も想いはあの時と少しも変わらない。いや、むしろ齢を重ねた分だけ増幅されているかも知れない。数か月前、このところ九重や祖母にときどき同行させてもらっている仕事仲間の宮崎県農業試験場の三浦猛夫氏に石鎚の話を持ちかけ、この計画となった。三浦さんは学生時代はワンダーフォーゲル部に籍を置き、南アルプスや冬の八ケ岳にも登っている。結婚し、しばらく山を離れていたが、最近「‘再び山へ'症候群」となった一人である。

 12月27日 別府発23時55分のフェリーに乗り、八幡浜〜松山を経て登山口の面河に着いたのが10時30分。山はどんよりとした雲に覆われ、先程までの雨はみぞれから雪に変わり、風も出て荒れ模様、まさに厳冬の石鎚にふさわしい出迎えとなった。冬の九重などと違って、ここら辺りの里人にとって冬の石鎚は侵すべからざるものとの意識が強い。バスの運転手の「気をつけて」との心配そうな言葉を背に、ウインドパーカー兼用の雨具上下を着込んで、勇躍、冬の石鎚登頂に向けて一歩を踏みだす。

              

 亀腹など付近の渓谷美を、石鎚は初めての三浦さんに自慢気に語りながら、約1時間程で登山口に着く。ここからは面河山頂1500m付近までは急登の連続。30分の登りと5分の休憩、雪はしだいに深くなり面河山の稜線付近で20〜25cm、愛大小屋へ続く面河尾根の北東斜面では30cm、深いところでは50cmであり、晴れていれば航空母艦の様な山頂が見られるはずであるが、あいにくの悪天候で視界は余り良くない。小沢のトラバースでは、登路の桟道が雪に埋まってしまい慎重を要す箇所や雪の重みで倒れかけたスズタケに思いのほか難渋しながら、それでも登山口から4時間余りで夕暮の愛大小屋に着いた。

   

 愛大小屋は学生時代に石鎚〜堂ヶ森を単独行で縦走したとき以来20数年ぶりだ。愛媛大学山岳部専用の母屋と、使用は自由だが少々荒れた離れの小屋からなるのは昔とちっとも変わっていない。母屋の戸には錠がかかっていたが、幸い出窓が開き、そこから侵入する。早速宴会の準備となり、今夜のメニューはすき焼き、二人で酒4合、ビール2缶、ウイスキー300cc、少し重くてもリッチな気分になれるほうがいいと、食料、燃料はケチらなかった。明日の果敢な登攀(?)を前に少し飲みすぎたが、話がはずみつい飲りすぎてしまった。20時過ぎ就寝。気温は室内で−7℃、一晩中雪が降る。(コースタイム 関門10:55→登山口11:48→愛大小屋16:15)

 12月29日 6時45分起床。雪。室内気温−9℃。昨日、夕方は時折雪混じりの強風が吹き荒れ模様であったが、夜に入って風は止み、静かな冬山の第1夜となった。アルコールをたっぷり摂取したせいか、寝付きが良くまずまずの睡眠であったが、三浦さんは寝返りを頻繁に打ち、本人は何も言わなかったが彼にとっては厳しい寒さであったらしい。出窓の桟には雪が降り積もっている。生卵入りラーメンで手っ取り早く朝食を済ませ、荷物を離れの小屋にデポして、ヤッケ上下、アイゼン装着、軽テント、コンロ、非常食など詰め込んだアタックザックを背負うといった出で立ちで、8時35分に小屋を飛び出す。

 厳冬期の石鎚の登路は面河からの場合、愛大小屋以後は積雪量によって異なってくる。すなわち、雪が多い場合は西ノ冠岳と愛大尾根の頭(1866mの独立標高点)直下の沢が雪崩の危険があり、また稜線は季節風により雪庇が発達しこれが崩壊に伴う雪崩の危険が随所にあるため、愛大尾根に取り付き西ノ冠岳の稜線を経て面河乗越しに至る。これがいわゆる厳冬期石鎚の一般的コースである。一方、積雪量が少ないときは通常の夏道に従えば良い。

 さて、今冬の石鎚は数日来の寒波により、小屋付近で積雪30〜40cm程度、ラッセルを強いられそうだが夏道ははっきりしているため夏道コースを取ることにする。小屋から山頂まで3km弱、夏なら1時間40分の行程であるが、今日の積雪量を考慮しても3時間あれば十分と当初は思った。問題は、面河乗越しの稜線に出たのち、三の鎖までのトラバースと鎖場の捲き道、崖に取り付けられた桟道の通過にある。ここをヤバイと感じたら今石鎚行もそこまで、敢えて無理はしないと心の内に決め込む。
 一面の銀世界、雪も降り続き視界は今少しきかない中を、雪質が軽いのでラッセルはさほどにも苦にはならない。途中の崖の桟道部分は雪に埋まりトラバースでは神経を使い、時には腰までのラッセルに奮闘しながら、「この雪では三の鎖から山頂まではかなり問題だな」との思いがしだいに強くなる。

     

 10時20分、「頂上まで1,000m」の標識を通過。小屋からここまでの1km余りに1時間45分を要した。雪はなおも降り続き、ますます深く、森林限界を抜けたとはいえ視界はわずかにしかきかず、稜線まではかなりかかりそうである。この分だとこのまま頂上を目指せば、今夜は確実に愛大小屋泊まりとなる。三浦さんとは当初から30日中には家に帰るということで一致している。僕も三浦さんも妻子をかかえ、お互い妻の信頼があったればこそこうして冬山にも行かせてもらっているわけで、予定より遅い下山でたとえ一時でも家族に不安感を与える様なことがあってはいけない。愛大小屋泊では30日のうちに帰宅はおぼつかなくなる。それと昨夜の寒気は三浦さんには相当答えたらしく、とても小屋にもう一泊という気分にはなれなかったようである。寒さに関して二人の間にかなり開きがあったことは確かである(これは厳冬の八ケ岳でも使ったという三浦さんの寝袋に原因があるようで、いや、それよりも寒さをものともしない逞しい貧乏学生の当時と今との年齢のギャツプがもっと大きいということか、三浦さんはその後羽毛の寝袋を買い込んだと聞いた)。

 今年はこれまでが暖冬に経過し、石鎚の積雪量を占う伯耆大山の雪は少ないと聞いていたので、今回の日程は夏道で組んでみた。ところが、思わぬ寒波で本格的な冬山の様相となった。

     

 「山頂まで1,000m」の標識からしばらくは、棋士が投げ場を求めるような心境で、しばらくは無言でラッセルを続ける。10時30分、標高1,750m地点付近、頂上まであと950mを残し、今回はここまでとする。もう少し頑張ればとの気持ちがないでもないが、ここは引き際が肝腎。ここまで来て何となく双方が納得し、2人一緒に記念写真に納まり下山することにする。

 愛大小屋でぜんざいの昼食を済ませ、昨日よりさらに降り積もった雪道を面河登山口まで下山。面河のキャンプサイトでの最後の酒宴が、石鎚へぶつけ損ねたエネルギーにより再び盛り上がったのは言う迄もない。(コースタイム 愛大小屋8:35→頂上まで1,000mの標識10:20→愛大小屋11:40〜12:50→登山口16:10→キャンプ場16:30)

 かくして僕の初めての冬の石鎚行は、エネルギーを使い残したまま終わった。しかし、後悔のようなものは微塵もない。なぜなら、これは後にも先にもこれっきりなどというものではなく、挑戦の始まりだからである。九重や祖母に馴れ親しむのと同じような気持ちで、石鎚には今後も足繁く通い詰めたいと考えているからである。今回の山行で石鎚の懐の大きさにますますもって畏敬の念が強くなったことも事実である。石鎚の懐の中で数日を過ごせた歓びだけでも十分なのである。

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