厳冬期石鎚山への憧憬  
    その2.『天狗岳はさらに遠く』
  挾間 渉

  期間:平成6年2月10〜12日
  パーティ:挾間 渉・矢野誠治
  厳冬の石鎚への想い断ちがたく、再び石鎚行を計画した。どうせ誰に話を持ちかけても良い返事は返って来まいと、当初から単独行でのアタックを計画した。とはいえ、冬の石鎚のこと故、計画の概要は知っておいてもらわねばなるまいと、栗秋に計画書を送ったところ、意外にも前向きの返事が戻ってきた。しかもトライアスロン仲間の矢野君も是非にとのこと。出発の1週間前に愛媛大学山岳部と成就社に雪の状態を問い合せたところ、今年は雪が例年より多く、北面の成就社(標高1,400m地点)で約50cm、山頂直下の二の鎖元小屋では2mくらいとのこと。しかもその後数日来の寒波で新雪があり、さらに3連休は大荒れになりそうとの気象予報に、軽い興奮と若干の不安を抱きながらも、‘大いなる石鎚の山懐の中に我が身をおくことの歓び’を主目的に、無理せず、しかし‘あわよくば天狗岳の頂に’との気持ちを胸に2月10日深夜、別府港発のフェリーに乗り込む。結局、仕事でどうしても参加能わず、宮仕えの悲しさを嘆く栗秋を除き、矢野君と二人の山旅となった。

 2月11日 八幡浜から大洲、内子を経て早朝の雪道をマイカーで走り、8時過ぎに国民宿舎「面河」に着く。積雪15cm、高曇り。身仕度を整えたのち、人影のまったくない車道を、雪に覆われた面河渓谷の清流を眺めながら半とき程で、鳥居のある石鎚山登山口に到着。登山届入れの箱を除くと今冬は正月に3パーティが入山しただけで、それ以後では我々二人が初めてであることを知る。

 石鎚山頂への登路はいくつかあるうち、ロープウエィが出来、アプローチが至便となった西条側からの入山が大半となった今日、本来石鎚詣での裏参道であるこの面河道を、冬期に、それも2月の厳冬の時期にルートとして取る者など誰もいないと予想はしていた。前回2年前の冬もそうであったが、冬の面河はまったくと言っていい程人気がなく、再びの今石鎚行も我々だけの静かな歓びに浸ることができそうだ。

 石鎚へのルートは、この鳥居(標高780m)から、まず面河山(標高1525m)まで一気に急登し、その後は面河尾根の北東斜面を辿って愛大小屋(標高1600m)へと続く。この小屋から先は積雪量によって夏道ルートを取るか、冬道ルートをとるかの選択を迫られることになる。今日の予定は、愛大小屋までだが、夏なら4時間のこの行程、今冬の積雪量では予定どおり小屋まで達することができるかどうかがポイント。

 さて、オーバーズボン、ロングスパッツと再び身仕度を整え、約20kgの荷を背負って面河山への急登を開始。一面の銀世界だが低気圧が近づいているためか、意外に気温が高くすぐに汗ばむ。40〜50分のアルバイトと10分程の休憩を繰り返しながら登るほどに雪が深くなり、本格的冬山は初めての矢野君にトップを譲り「ラッセルで厳冬の石鎚を体感する歓びを譲りたくないだろ?」などとおだてて楽な後塵を拝するのも悪くない。矢野君は若いだけあって膝までの雪をものともせずどんどん進んで行くので、頼もしい限りだ。途中、一度だけトップを交替したことで深雪の苦労を思い知る。

 ラッセルと昨夏四国を直撃した台風による倒木とルートミスなどにより思いの外時間を取られ、面河尾根の稜線に昼すぎにやっと出る。木々の間から、石鎚山の南尖峰を中心とした南面が眼前を覆う。前回の石鎚行では天候不良のため頂稜の全貌を見ることがなかったので、冬の石鎚を間近に見るのはこれが初めてのことである。弥山(みせん)から天狗岳、南尖峰に至る頂稜の、雪に覆われ時折雪煙をあげる様に、軽い興奮を覚える。矢野君と交互にポーズをとってカメラに収まった直後、瞬く間にガスで視界が遮られ、結局天狗岳だけの頂稜を見たのはこれが最初で最後となった。

 面河尾根に入って雪はさらに深くなり、トップで奮闘していた矢野君のスピードがここに来て急にのろくなった。この後のルートは面河尾根の東面を取ることになるが、愛大山岳部の話では、夏道に雪が多いときは尾根筋を取るという。そこで尾根に転進しょうとするが、わずかでも夏道ルートをそれるとブッシュに覆いかぶさった雪のため胸までのラッセルを強いられ身動き出来ず、この試みは断念する。こんなに雪で苦労するのは釜トンから上高地を目指した昭和47年冬にドカ雪に降られて以来だ。ワカンは一応持参してはいたが、この雪と、わずか二人のアルバイトでは過去の経験から無駄な抵抗のように思えた。

 トップを交替したり、空身でラッセルしてみたりいろいろ試みながら面河山付近をのたうちまわるうちに時間だけがどんどん過ぎていく。気温は、標高1,400m地点にもかかわらず、−0.2℃とやけに高く低気圧の接近を示している。「このまま進み雪に降られたら退路を断たれるのでは?」と、矢野君も心配そうな面もちである。ここは何らかの決断をせねばなるまいと、いろいろ思案した挙げ句、幾つかの選択肢を矢野君のために用意した。すなわち、@このままとにかく進む、A尾根で幕営する、B下山する・・・・である。一応リーダー格の私が、矢野君に選択を委ねるのは責任がないように取れるかも知れないが、私の腹はこの時点で既に決まっていた。つまり、この雪では愛大小屋から先には行かないということ、言い換えれば、愛大小屋までについては矢野君の選択(好み)にまかせたということなのである。矢野君の選択はBであった。

 決断後の撤退はスピーディであった。標高1,400m付近の巨大な倒木に道を遮られた辺りを投了地点とし、以後往路を引き返し、足早に下山して面河第二キャンプ場に設営し、翌日の午前中まで、間に睡眠を挟んでエネルギーの吐け場を求めての残飯整理の宴会が続いた。(コースタイム 国民宿舎8:31→登山口9:03〜20→水場10:35→面河尾根12:20→標高1,400m付近の最高到達点14:15→登山口16:00)

【後記】 私たちが石鎚を目指した同時期、特に足早に撤退した直後、吾妻連峰の悲劇をはじめ全国で20人以上が遭難するなど、山は大荒れとなった。かなわぬまでも、あのままもう少し奮闘すべきではなかったかと、いともあっさりと下山したことに、若干のこだわりが残っている。

 厳冬期石鎚山は、昭和11年1月に松山中学の倉橋少佐らにより面河から、さらにこれより少しのち関西の藤木九三、西岡一雄らにより北面から、それぞれ初登頂された。これより前、毎年のように旧制松山高等学校山岳部が挑んでいるが、豪雪の前にいずれも敗退に終わったという経緯がある。当時四国の山岳界では、石鎚山の厳冬期登頂は一つの関心事であった。藤木らや倉橋ら、それに松高山岳部の記録が、厳冬期の石鎚山の登頂がそれほどたやすいものではないことを如実に物語っている。

 石鎚山の裏参道そのものは、50年前と現在とでは、特に面河尾根と山頂に山小屋が出来たことを除けば、何ら変わりはない。頂上直下の捲き道で崖に取り付けられた桟道が雪に埋まり、二の鎖、三の鎖の岩場にルートを取るべきか、捲き道を取るべきか、想像しただけでも、果たして今の私に行けるだろうか?との不安がよぎる。それでも何か内なる叫びのようなものが厳冬期登頂へと私を駆り立てる。出来れば単独行として成し遂げたいが、仇討ちの助っ人のような気持ちで私を男にしてやろうという仲間の申し入れを断るほどの孤高を保っている訳ではない。私は多分毎年のように石鎚を訪れることになるだろう。そしてその企ては皆に知らしめよう。登山は自己完結型のスポーツ+αと定義づける私の、山屋としての生き様を今後とも注視していてもらいたい。

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