名山探訪 第2回 我が心の山・石鎚山
             挾間 渉
 
 面河山より眺めた石鎚山の偉容を、私は忘れることができない。初めてその雄姿に接したのは、もう随分前、18才の夏のことである。それは友人と2人、松山より長い時間をかけて登山口の奇岩、景勝で名高い面河渓に着き、そこより登ったときのことである。面河渓より石鎚山頂への登路は渓流沿いに歩くコースと、いきなり石鎚山の衛峰ともいえる面河山より派生した尾根を急登するコースとの2つがある。後者を選んだ私達は、まだ山らしい山をろくすっぼ登ったことのない不安定かつペース配分のない足どりで、急な登路を疲労困ぱいしながら、昼なお薄暗い原生林をぬけ、やっとの思いで面河山頂に登りついたとき、眼前に、眼もくらむようなまぶしさの中で樹間より垣間見たのが、石鎚山の偉容であった。そして、そこまでの苦労した行程が、まだ石鎚山項までのほんの一部であると知ったとき、九州しか知らない私にとって、九州より狭い四国の中で、これほどの奥深い山―― 石鎚山のふところの大きさに驚かされたものである。

 ふつう、初めて登る山は常に新鮮で、困難で感動の連続であるものだ。しかし、より以上の山々にグレードアップしてゆくとき、最初偉容を誇ったように思えたような山でも、所詮は井の中の蛙の自分だからこその感慨であったことを思い知らされるものであるが、こと石鎚山に関する限り、多くの山々に足跡を残し、山に経験を積んだつもり(と言い切れるかどうかは疑問であるが)の今日の自分でさえ、九重や祖母に対する変らぬ愛着とは全く異質の一種の畏敬の念をもって思い、眺めるのである。

 それは、石鎚(あえて「山」を省略する)に対して初期の印象が余りにも強烈すぎた結果に他ならない。前述したように、初めて登った時の山の大きさ故であり、それに加えて石鎚の困難なことを思い知らされることが多すぎたこと故にである。夏に石鎚を登った翌年の早春、当時四国の山岳界としてはエポック・メーキングなことであるが、松山商科大学がアラスカ遠征隊を組織し、そのトレーニングの総仕上げとして石鎚山系初芽成(ういがなる)谷で氷瀑訓練中、雪崩に遭遇し、遠征隊員の大半を失うというアクシデントが発生した。そんな痛ましい遭難だけでなく、私自身四国の山ではたかだか1000m程度の山で、思いもかけぬラッセルを余儀なくされたり、また4月の低山で雪渓を滑落し、木にひっかかって危うく難を逃れたりなど、まして主峰の石鎚山の冬期登山など非力な当時としては思いも寄らぬことであったからである。

 そして、考えてみれば、その己の非力さが結局、冬の石鎚に登りたい、あの峻険な天狗岳北壁をいつの日か征服したいという願望と相まって、さらに山への思慕は山仲間への思慕となりパートナーを求め、山岳会入会のきっかけとなったわけである.郷里大分へ帰ってからの山登りは、常に岩や雪を対象とし、高崎山・別院の岩場にはじまり、大山、穂高、剣岳と志向せざるを得なかったが、私の頭の中には、常にあの氷雪をまとった冬の石鎚が、天狗岳の北壁が立ちはだかって離れなかった。冬の石鎚をやらなければ、また天狗岳の北壁をやらなければ……。私の心の中では穂高や剣までのステップとして大山と同等以上に石鎚が重くのしかかっていた。

 己の登山への志向を育んできたのは、あの愛すべき由布でも久住でも祖母、傾でもない。他ならぬ石鎚なのだ。冬の石鎚を、天狗岳の北壁をやらずして何が穂高だ、剣だ、ヒマラヤだ・・・そんなふうに石鎚に思われているようで、いつも見て見ぬふりをして素通りするような心境のまま長い登山人生の折り返しに差しかかってしまった気がする。だから、久住、祖母、傾に接する時と同様の変らぬ愛着ばかりでなく、崇高なもの、困難なもの、気高いもの‥…などに誰しもがもつ畏敬の念が、むしろ穂高や剣など以上に、石鎚に対して大きいのである。

 日本の山で10指を選ぶとすれば……と聞かれたら、私は迷うことなくそのうちのひとつに石鎚を挙げるであろう。石鎚には名山としての風格がある。歴史がある。個性がある。石鎚が西日本の最高峰であること、役の小角の開山によること、信仰登山として多くの歴史をもつ山であることなど私などが詳しく書いても所詮は受け売りにすぎない。要は名山としての具備すべき条件が全て満たされていると言いたいのである。富士を「偉大なる通俗」と称した人がいたが、それは余りにも単調で周囲の添景に欠ける嫌いがあるからであろうが、およそ名山とは、前述したが如く、多くの添景(面河渓谷や瓶ケ森の白骨林など)との調和において、優れているものなのである。

 数年前の夏、石鎚山を再訪する機会に恵まれた。石鎚山頂への登路としては、北の西条側からの表参道と、前述の面河渓よりの裏参道が最も著名なコースである。あとは石鎚主稜を東西から縦走するのも私達の頃は一般的であった。台風一過の晴天の中、私達は、阿波の名峰剣山を終えた後、車を走らせ、平家落人伝説で名高い祖谷川を下り、四国三郎の名で知られる吉野川の果てしない流域を遡り、夕闇の中、吉野川と西条市にそそぐ加茂川との分水嶺となる石鎚主稜、シラザ峠にたどり着いた。そして翌日土小屋を経て例の3の鎖、2の鎖、1の鎖に小躍りしながら約10年ぶりで石鎚山頂(弥山、天狗岳、1982m)に立つことができた。その日は朝から好運にも快晴に恵まれ西方の道後平野のむこうに、懐かしい松山市街が、眼を下にやれば面河山が‥…、支尾根の陰で見えないが、独り晩秋の夜を過ごした愛大小屋はあのあたりであろう、瀬戸の眺めは言うに及ばず、東に転ずれば無数の山並が続いて、その果てに昨日こそ登ったばかりの阿波剣山の連嶺が望まれた。

 しかし、喜び懐かしんでばかりも居られなかった。四国で最も素晴らしい縦走路といわれた石鎚〜瓶ケ森間の大半は尾板づたいに車道が走り、縦走路はずたずた、かつて石鎚主稜初縦走(大正12年)を成した松高(現愛媛大学)山岳部をして「土小屋の水は四国一だ」と言わしめた、あの土小屋はもう後かたもなく、大きなホテルと駐車場が過日の様相を一変してしまっていた。帰路は土小屋よりスカイラインを通ったが、10数年前の苦い思いが再び脳裏をよぎった。それは、「開発か、貧困か両刃の剣」として論議された昭和43〜44年当時、面河渓〜土小屋までのスカイライン建設に当って経費節減のため、本来運搬すべき土砂などを全て面河渓谷に落し、四国一、いや西日本一の渓谷美を誇る、かの渓谷を埋めつくしてしまったのだ。何が苦い思いかというと、これほどの自然破壊に対し、当時ただ傍観するばかりであった自分がであり、そのスカイラインをうらめしく思いつつも、その至便さにより、今、ここにこうしてそのスカイラインを利用して時を稼ぎ夕刻には大分に着こうと、何と虫の良い自分に対してである。

 時代が変り、どんなに石鎚が変貌しようとも、石鎚に対する評価‥‥それは、受け入れる側の心の問題であり、石鎚のもつ本質には、昔も今もまた未来にも何の変化もない。石鎚が名山であることには少しの変りはないのである。

 石鎚を頭に思い浮かべるとき苦々しく思うことは他にもある。学生の頃より私の山歩きが次第にエスカレートして行くのを口やかましく言う両親に対し、機会あるごとに山の素晴らしさとりわけ、石鎚の素晴らしさを説くあまり、私の言葉に感化された両親は四国88ケ所巡りを思い立ち、その途次に、石鎚登山を入れたわけであるが、市街地の生活が長くなった両親にとって、私は決して年老いたとは思っていなかったのだが、峻険な石鎚は少し荷が重かったようである。父はともかく、母は登りこそ何とか山頂まで辿り着いたものの下りは、それはもう大変であったらしく、ほうほうのていで成就社に辿りついたのである。

 母は今でも、その時に患らったひざの故障がわざわいして、時折足をひきずっているのを見かける。それを見るにつけ互いにかばいながら手に手をとって下ったであろう父母のお遍路姿が思われ心がいたむ。私の母は今でもあの時のことを思い出すたびに霊山石鎚に信仰登山をしておきながら、足は痛むは、息子は山から落ちるはで、ちっともご利益のなかったことをよくこばす。しかし考えてみれば、母の足もそれほど大事には至らなかったし、私の山での遭難も随分色んな人に迷惑をかけたが、今ではこうして父母や、妻子に心配をかけることなく山を続けられること(そのような山の登り方を見つけたこと)からみると、あの年(昭和50年)の石鎚信仰登山は、まんざらご利益がない訳でもなかったのかも知れないなどと思うこの頃である。

 ともあれ、石鎚に対して私は大きな宿題を2つ残したままになってしまっている。その1つは、天狗岳北壁の登攣であり、もう1つは、厳冬期(あえてそう呼ばしてもらう)の石鎚主稜縦走である。天狗岳北壁は私にはもう登れないだろう。わずか3〜4ピッチの垂壁であるが、私の中にそんなエネルギー(闘志)の湧き出ずる源がないから…。しかし厳冬期の石鎚は何時の日か必ず登らねばならないと思う。それは私の登山を、登山のある人生を育んでくれた石鎚に対するせめてもの感謝の気持ちとしてである。 (昭和59年11月稿、編集部註、ふるさとの山、こころの山は今回は名山探訪の中に含めました。)

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