大分の山を行く(2)  国東半島の山(その2)   
                            挾間 渉

鷲の巣岳
 志を同じくする山の仲間といっても微妙な部分では案外と噛み合わぬものである。ましてや30歳代も後半になると、仕事や家庭や色々なことが舞いこんできて、以前と同様に仲間同士あうんの呼吸で即登山とはなかなかいかない。自分自身の山への考えを表現するには、他人をあてにしてばかりもいられず、そこで結局は単独行となる。

 しかし、夏の薮漕ぎには閉口するし、初秋はマムシが恐いし、晩秋は巣分かれのスズメバチが恐いし、そして何よりも薮の中から予期しないときにヌーっと顔を出す人間が一番恐い。ましてそれがイノシシ用の猟銃など持っていようものなら、戦慄さえ走ることがある。がしかし、低い薮山からヒマラヤまで、幅の広いかつ奥の深い登山をライフワークと考える以上、恐がってばかりもいられない。今日もまた宇佐の我が家を独り国東の山へと出かけた。
      

 この山への登路は本来西方寺の中部落からの登山道が二万五千分の一地図に書かれている。しかし、土地の人は西方寺の最奥の上部落から道があるという。そこで聞いたとおりに、中の谷不動尊入り口と標識のあるところから鷲の巣岳の頂上を目指すことにする。

 鷲の巣岳は屋山と同様メーサの山である。海岸線の竹田津と伊美との両方から南に向けて広い台地が高度を増し標高436.5mのこの山の頂上で扇のかなめとなり、それより南は草付きの断崖となっている。西方寺や伊美谷のどこから見ても周囲は断崖に囲まれ、「鷲の巣」の名前も納得できる。

 最近は土地の人の話も余り信用しない方が良いことがある。鷲の巣岳の山頂へは、伝え聞いたこの道を通っては行けなかった。最初に中の谷不動尊入り口とあるのを見たとき、早くそのことに気づくべきだった。この道は千灯の部落を経由して不動山までお参りするための最短距離として開かれた参道なのだ。次第に遠ざかる山頂に業を煮やし途中から参道をはずれ、鷲の巣岳の頂上直下の岩壁基部まで薮漕ぎする。落差約50mの草付きの岩壁が頂上付近を取り囲んでいるが、さほどの困難はなさそうである。

 そう思ったとき、俄然登攀意欲が頭をもたげてきた。草付きの泥壁を木の根っ子を頼りに腕力で(もちろん慎重に)登り、頂稜に出る。久しぶりにグレード1〜2級の岩登りをした。すぐに山頂である。 頂上は雑然としており、風天社と書かれた石祠や地蔵様や鳥居や役の行者などの文字が読み取れる石像物などがあり、雑木や枯草に埋もれた様は栄枯盛衰を感じてうらさびしい気持ちになる。二等三角点を確認したのち、南北にのびる踏み跡と木の枝にまかれた赤いテープを頼りに下山。

 この尾根はどんどん行けば海岸線まで辿りつくことになるが登山道は途中の中部落へとそれる。周囲は断崖なので下山路を見失うと大変である。中部落を眼下に見下ろす付近より桧林伝いに西側の斜面を下ると前述の正式な登山道に合流する。途中の畑に鈴なりの甘柿を見つけ、越冬のための鳥たちの餌にするにしては十分すぎてもったいないし、あるじもなかろうと勝手に解釈して空腹のあまり少し失敬。柿をかじりながら火の見やぐらのある家の近くの橋のたもとにでて、再び上部落まで戻る。

 独りの山はいつの時もそうであるが、余程見晴らしの良い落ち着ける場所でもないかぎり、山中では弁当をゆっくり開く気にはなかなかなれない。登山口に戻りついた、のちすっかり冷えきったハンバーグ弁当を開けた。(コースタイム 上部落不動尊入り口12:05−山頂13:07−中部落の登山口14:36−不動尊入り口14:50 昭和59年12月15日の山日記より)

千燈岳      
 千燈岳は本来一人で登ってはいけない山であったはずだ。というのも、一昨年暮れこの付近のいで湯行の際、赤根の溪泉から見た夕映えの千燈岳があまりにも印象的であり、また、昨年の正月明けに姫島矢筈岳と拍子水温泉を訪れた際、稲積灯台からみた国東半島の象徴とも言うべき千燈岳の雄姿が忘れられず、いずれも同行者は栗秋であり、彼と二人、近いうちに必ず登ろうと堅い?約束をしたものだからである。しかし、登りたいという気持ちは如何ともしがたく、出し抜くのは彼に悪いとは思いながらも、急に思い立って出かけた。

 国東半島の最高峰が両子山であることはいうまでもないが、古刹を訪ねながら半島を旅し、方々から半島奥部の山々を眺めたとき、少しでも山に興味を持つ人なら千燈岳の山容が目にとまるはずである。とくにその場所が半島から灘一里離れた姫島の矢筈岳中腹であったなら、また、千燈岳の衛峰とも言うべき不動山の岩場であったなら、印象を更に強くすることであろう。この場合両子山は脇役にすぎないと強く感じる。ことほど左様に千燈岳は僕の心を魅了して止まない。

 春の陽気が、世俗の忙事にかまけて冬篭もりしていた僕の本能を呼び起こしたのか、目覚めて好天を確認した朝、急に千燈岳登山を思い立つ。早朝一人家族の安眠に気遣いながら、宇佐の我が家を抜け出す。最近では県北の山のときは専らアプローチは、ロードレーサーである。宇佐から高田〜天念寺〜地蔵トンネル経由で赤根までは最短距離をとる。

 赤根の部落で千燈岳の登路を訊ねると、地元の古老は「畑の部落から道がある。そこの民宿の人が詳しい。不動山からじゃあ時間がかかりすぎる」という。他の一人は「一の瀬ダムの林道を登り、道が切れた所から谷川を渡り杉林の中を頂上を目指せば良い」と教えてくれる。判断に迷うが、九州山岳(昭和11年)にも後者の登路について記録があったように思い、結局「国東の山はどこからでも、要するに頂上を目指せば良い」の教えに従うことにする。

 前述の林道のわきに愛車(富士オリンピックロードレーサー)を乗り捨て、教えられたとおりに忠実に辿り南西の斜面を登る。この山はなだらかな山の多い国東半島にあって尻付山とともに数少ない急峻な山であるが、ブッシュも少なく、明るくて思いの外登り易い山だ。林道から45分で南西の頂稜に出、そこから北東に尾根伝いに踏みあとに導かれること15分で山頂に着いた。

      

 案外と広い頂上にまず驚き、石祠や遺跡の多い半島の山にあって深いカヤトに覆われた三等三角点以外に何も見当らないのに更に驚く。三角点にしてもカヤトを分け、注意深く探してやっと探し当てたくらいだ。陽当たりの良い静寂な山頂。風の音のみ。時間はたっぷりある。早朝よりのアルバイトに軽い睡魔を覚えるが単独行ではどこか落ち着かず早々の下山となる。

 国東半島の山はどの山も山頂からの眺望はそれ程良くはないが、手ごろな木に登ってみると木々の間から瀬戸内海や半島の山々が見通せる。どこからでも、気の向くままに真っすぐ頂上を目指せば良い。この山も例外ではない。

 頂上のみに心を奪われ目にとまらなかったが、復路では一の瀬ダムを挟んで対岸の黒木山がひときわ印象的で「次はあの山を・・・」と低山徘徊欲は止まることを知らない。帰路は古い歴史を持ち半島では数少ない山のいで湯と目される赤根温泉(この温泉については項を改めて紹介したい。)に浸り、再びロードレーサーで家路を急いだ。(コースタイム 宇佐7:20−一の瀬ダム林道入り口9:15−南西の頂稜10:00−山頂10:15〜35−一の瀬ダム林道入り口11:26 昭和61年4月12日の山日記より)

赤根温泉今昔

 「夜更けて戸を叩いた、赤根の宿は木の香も新しい小綺麗な家だった。薄暗い石段を下りて湯に入る。足を伸ばして、湯の中に寝そべると幽かなせせらぎが聞こえてくる。泌々と山の湯を楽しむ」・・・・これは昭和13年(1938)年に発行された九州山岳第2号(朋文堂)の中の米田國夫氏の一文である。当時の旅館が今どうなっているのか、赤根の湯のことが気になり、千灯岳を終えたのち赤根の部落を訊ね歩いた。

 そして渓流沿いにいかにもそれらしい民家を訊ね当てた。居合わせた古老によると宿はもうやっていないが、湯は以前と変わらぬままにあると、家の中の地階に案内された。薄暗い、当時のままの浴槽にはちょろちょろと湯が湧きだし、かすかに硫黄の香りが漂う。手を浸してみるとわずかな温もりが伝わってくる。数年前、付近の河原で護岸工事が始まり川の流れや水量が変化したためか、泉温が下がり湯量も減ったという。50年の時節の移ろいをひしひしと感じる。この温泉は今では、国見町研修センター「渓泉」としてよみがえり町内外者に広く利用されている。

      
                  旧赤根の宿

      
          護岸工事が始まる前は湯が出ていたが・・・

      
                赤根温泉(渓泉)


西叡山〜華ヶ岳
 かって平安の昔、京の比叡山を凌ぐ勢力を誇り、それがため妬んだ比叡山の僧により焼き討ちにあったと伝えられる西叡山高山寺が約700年ぶりに再興されたと聞き、初詣をかねて家族で訪れた。

 小田原の部落には西叡山高山寺入り口であることを示す立派な案内板があり、そこより未舗装の林道を路肩に注意しながら約4kmほど車で登ったところ、八合目付近に高山寺(たかやま)がある。この山はかなりの部分が伐採され、また寺の周囲は大規模に整地されているので、風当たりが強いが、国東半島の山々や豊前海を一望できるほど眺望は抜群である。正月ということで麓の部落から長老格の古老が数人つめており、高山寺の謂れなど説明して戴いた後、資料まで戴いた。

 西叡山の山頂までは、この寺のそばからしっかりした踏み跡があり、それに導かれて雑木林の小道を15分ほどで簡単に登れる。山頂は雑木林に囲まれているが、アマチュア無線の同好者のクラブハウスと思われるパイプハウスがある。三等三角点はその傍らにあり、三角点の計測に使われたまだ新しい櫓が建っている。その櫓の上に登り何とか木々の間から華ヶ岳を探すことができた。丸太と縄で作ったブランコがあり、子供達は二人ともそれにぶらさがって僕は三角点をなで傍らに家内を侍らせて4人で記念撮影。(昭和60年1月3日の山日記より)
                         
      
 
 西叡山から華ヶ岳の縦走については「九州山岳」(昭和11年)の縦走記を読んだ記憶があり華ヶ岳を登る時は、できれば西叡山からの薮漕ぎ縦走をと前々から考えていた。郷土史に造詣の深い職場の中島さんに、西叡山高山寺再興のことや華ヶ岳縦走のことを話したところ是非にとのことで、国東の大分100山のなかで最も手強い華ヶ岳の強力な助けっ人ととなった。

 昭和62年の1月25日、中島さんと急遽飛び入り参加の栗秋それにサポーター役の家内の4人の乗った車を高山寺まで走らせる。中島さんとの山行はこれが初めて。この中島さんには我々とは全く別の目的がある。すなわち、大分県昆虫同好会の会長であり(仕事のほうでは農業昆虫学35年のベテランであることはもちろんであるが)、とくに甲虫類(学問的にいえば鞘翅目に属する昆虫の俗称であり、一般的にはカブトムシやタマムシやカミキリムシなどの類い)の大分県の種類と分布を永く調査中である彼にとって、華ヶ岳山系は残された部分であり、甲虫の採集は冬場が好都合ときている。右手に鎌、身体に昆虫の採集道具をさげ「足でまといですが・・・」と恐縮しながら栗秋への自己紹介の弁。ともに郷里は天領日田とあっては要らざる気遣いは無用。

 高山寺から前述のコースを辿って西叡山の山頂を経由して、いよいよ処女コースとなる。山に関してはベテランのつもりで、しかも一番若い栗秋は初老の中島さんを気遣うが、要らざる気遣いというもの。昭和一桁は逞しいのだ。彼(中島さん)は鎌を振ってイバラの道をどんどん真っ先に切り開いていく。それもそのはず、「祖母嶽に於ける昆虫目録」(安松京三博士:前九大農学部教授)の追録版ともいうべき数多くの実態調査のために祖母山系には150回以上も足を踏み入れており、本人自ら「ほとんどビョーキ」というくらいのものだからである。

 さて、西叡山の頂から華ヶ岳に向けて南西にのびる雑木の尾根を正確なルートファインディングをしながら下りコルに辿り着く。ここまでは薮漕ぎといってもそれ程でもない。このコルには池があると前述の九州山岳の記録にもあった。雑木林の中を探すと確かにあったあった。北西の麓の空木部落のほうの水源となる小池は、おそらく50年前と大した変化もなく相変わらずの静寂さを漂わせている。池畔でしばし憩っていると、中島さんは傍らの朽ちた倒木を見つけ何やら始め出した。倒木をナイフで削っている。どうやら独特の嗅覚で越冬中の甲虫類の幼虫を発見したらしい。 人間が生物(いきもの)であり、一定の生物学上の法則(ヒトが食物連鎖の頂点ではなく単に鎖の一つであるということ)にそってしか生きられないなどという事など思いも寄らぬ栗秋とって、この中島氏の行為は奇行にさえ映るらしい。

 数分後、中島氏は何やらカミキリムシの幼虫らしきもの数頭(昆虫学の世界では決して何匹などとはいわない)を大事そうに捕虫瓶に収めた(大の大人が・・・、などと決して思ってはいけない。ファーブルの昆虫記を読んでいなくともドクトルマンボウ昆虫記を読めばこの辺の心理は自ずと察っせられよう)。彼の頭の中には既に日本昆虫学会での「本邦におけるカミキリムシ属の一新種の発見と命名について」なる発表論文の構想が練られ始めているかもしれない。時代の先端・バイオテクノロジーもこのような虫ケラ一匹に、えてして貴重な素材が宿るものなのだよ、栗秋君! 

 ちょっと横道にそれてしまったが、これも最近当会とふれあいの機会が生じた中島氏の紹介をかねてのことで本題に戻るが、この小池から山頂までの薮尾根がたいそう手強く、ここで中島氏持参の鎌と未知の昆虫を求めて、如何なる薮漕ぎをも辞さない彼のバイタリティーが威力を発揮し、オユピニストが圧倒されることになる。「足でまといになりますが・・・」は、実はこちらのいうセリフであったのだ。

 約1時間の小雪混じりの横なぐりの季節風の吹き荒れるイバラの尾根との苦闘の末(「の」が連続するのは良い文章ではないと教えられたが敢えて)、華ヶ岳の山頂に到着。僕の山日記には「華ヶ岳山頂」の標を確認したかどうかの記録がないし、記憶もない。寒くて身体が冷えて昼食もそこそこにブランデーか何かをあおって足早に下山を開始した記憶があるだけである。かじかんだ僕の手がわずかに山日記に残した記録といえば「10:02西叡山 10:50コル 中島氏虫採集 11:44 華ヶ岳山頂 西叡山側の雑木と対照的に南側は杉の植林 三等三角点 明治二十三年 六社羅  平神社・・・判読能わず」である。

 南の急斜面を3人とも軽やかな足取りで下り、途中エビネ(ラン科植物、春にはカラフルな花を咲かせる。)を採取。麓の平原部落からは吹雪の中、車道を歩き地蔵温泉・ペンションにしきの傍らを過ぎ(ここは湯が沸いていないというので素通りとなる)、向野の国道に出て、再びサポーター役の世話になる。(コースタイム 上述のとおり 昭和62年1月25日の山日記より なお、西叡山には昭和60年1月12日に栗秋、荒金と3名の記録もあるが、割愛する。)

文殊山
 ただひたすら頂上を足早に極めるのは性に合わないと、これまで余り登山に意欲的ではなく、どちらかというとしぶしぶついてくる感じであった妻に、この所別な登山の楽しみ方を教わった。すなわち、四季の移ろいに感動するような余裕を心掛けたり、山菜狩りやキノコ狩りなど山の幸の採取の楽しみなどを取り入れたりの、そんな山登りなら妻が喜んでついてくることを、最近になって知った。そしてこの秋、妻は僕の良き登山のパートナーとなった。

 今日の目的の山は文殊山である。もちろん頂上征服だけでなく、道中のキノコをはじめヤマブドウやヤマグミ、銀杏などの採取のためビニール袋もしっかり用意した。このところ自我が芽生えてきたのか、山に無理矢理連れて行かれることへの拒否の意思表示をする子供達に対し、それならたまには親の有り難さが身にしみればよいと、子供を放って夫婦二人だけの登山となった。
 文殊山への登路は文殊仙寺が出発点である。この寺は、数多い国東半島の寺にあって屋山の長安寺とともに、いかにも国東的な素朴さの漂う、僕の好みの寺の一つである。苔むした石段を登りつめ、先ずは寺にお参り。少し戻った石段の途中に、柴竹観音や清滝観音を経由して山頂に至る旨の道標がある。

      

 薄暗い林の中で、朽ちた倒木にキクラゲを先ず発見。農耕民族と漁撈民族の混血である僕と純粋な農耕民族である妻はともに目が輝く。貪欲であるが、取り尽くさないところが憎い。農耕民族と漁撈民族たる由縁である。柴竹観音や清滝観音は登山道を少しそれた雑木林の中にあり、道草をしてお参りする。清滝観音を過ぎる辺りから路は険しさを増し、杉林のなか見上げるような急登が続く。杉の樹幹に巻かれた赤いテープに導かれてあえぎあえぎの登高ののち、山頂着(この急登での妻のぶざまな様子は、ちょっと記録しがたい)。キノコ図鑑まで用意したが、結局収穫はキクラゲだけ。 

 だだっ広く陽当たりの良い山頂からは、露岩の上に立つと瀬戸内海や豊後水道の展望がよく、珍しい?(四等三角点は花牟礼山が記憶にあるだけなので)四等三角点がひっそりとあるだけ。秋の静かな山で手ごろな石に腰掛けしばし瀬戸の海を遠望する。山頂にはヤマグミが沢山あり、この山での二つめの収穫物。もっとも期待していたヤマブドウはついに発見できず。家に残してきた子供のことが気になる妻にせかされるように下山した。  前号で国東の山は由緒ある古刹探訪とセットに楽しいと書いたが、とくにこの文殊山は是非ともお薦めしたい取りあわせだ。(コースタイム 文殊仙寺11:40−山頂13:00〜13:25−文殊仙寺14:10 昭和62年10月18日の山日記)(つづく)
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