大崩山系
(県境尾根〜夏木山〜瀬戸口谷、モチダ谷〜大崩山〜涌塚尾根)

期日:2015年10月17〜18日
参加者:10月17日; 挾間、三代、松井(18日朝まで)、梅木、足立、幡手、10月18日;挾間、三代、梅木、足立、幡手、二宮(17日夜から)

コースタイム
10月17日 大分市戸次5:00⇒上祝子登山口6:53→大崩山荘7:23-35→喜平越谷出合8:22-33→喜平越9:10-18→要山11:03→夏木山11:10-33→瀬戸口谷12:10→三里河原13:30→吐野13:44→喜平越谷14:18→大崩山荘15:00(泊)
10月18日 大崩山荘6:06→喜平越谷6:52→吐野7:38-48→モチダ谷出合8:18→航空機遭難追悼碑10:07→稜線(モチダ谷分岐)10:28-34→大崩山頂10:52→石塚10:55-11:33→祝子川渡渉点14:18→大崩山荘15:00→上祝子登山口15:28→大分市戸次17:??


(概略)
 所属する大分緑山岳会の平成27年度10月の定例山行は大崩山系に決まり、筆者と三代さんがその担当になった。山域の提案者がそのまま担当者になるわけではなく、コースは担当になった者が考える、というのがこれまでの緑山岳会の慣例ということだ。山域を提案した人の意向を汲むようなシステムにはなっていないから、そもそもどういうコースを提案者が希望していたのか気になるところだった。まあそれはともかく、懐の奥深いこの山だからと、幡手さんや佐藤君に事前の下見も一部は付き合ってもらった。だけれども、今回のコースの大部分は一応過去に足跡を残していたとはいえ、何しろもう20年以上も前のことだから、半分はぶっつけ本番のような気持ちでもあった。

 今回の参加者の多くの関心事は、未踏査の宮崎大分県境の尾根道と瀬戸口谷やモチダ谷にあったろうと思う。幸いなことには、ここのところ10日以上も続く好天が山行の初日2日目まで持続されていたことだろう。お陰で特にアクシデントもなくほぼ計画通りに山行を終えることができた。

 この時期の大崩山だから当然期待された紅葉は、見頃は三里河原付近から六、七合目付近までで、稜線はそろそろ冬枯れの時期に入ろうというところだったが、それなりに堪能できた。それよりも圧巻は稜線や各ピーク、とりわけ大崩山山頂すぐ近くの石塚からの360度の大パノラマだったろう。

 もう一つ。この山系を代表するものといえば渓流だ。祝子川源流の深い谷は、折からの好天によりその水量が激減し、今回、この山系の尾根歩きと沢の登下降が、両日ともに実動8時間以上ということになったが、皆さん体力的にはまったく問題なかったこともあり(担当の筆者が皆さんに一番心配していただいた…^^; 反省)、心配された渡渉などで難儀することはまったくなかった。水量が少なく物足りなかった部分もあるが、大崩山の魅力を減じるものではなく、三里河原などを緊張感なくのんびり歩けたのも、ある意味千載一遇のことであったと言えよう。

 最後に、同じ釜の飯を食べ、鍋をつつき、杯を交わし、共に語らう…山の魅力でこれ以上のものはない。筆者にとって、酒宴の途中で前後不覚に陥ったとはいえ、参加した皆さんとの一体感はますます醸成されたような気がする。他の皆さんもきっと同じ気持ちだろう。これからも幕営なども含め、このような山行に努めたい。印象深い大崩山荘の一夜であった。

 以下に、印象深いいくつかに絞って今山行を振り返ってみた。

喜平越〜要山〜夏木山(県境への想い)
 喜平越へは喜平越谷に沿って溯るが、途中、水量が少なくゴロタ石で歩きづらくなる頃から左の支尾根にルートをとった。この支尾根も、喜平越から先、県境の長い尾根筋も、ツガ、五葉松、ブナなどの巨木やヒメシャラなどが、程よい間隔で尾根を覆い、以前は稜線を覆っていたであろう背丈ほどのスズタケは跡かたもなく消えているため見通しが利いた。樹々の間を通る乾いた微風が汗ばんだ肌に心地良く、小さなアップダウンは多かったが、ただただ尾根を忠実に辿ればよかった。そんな快適な県境の尾根歩きのため、皆の足取りは軽く、その分女性たちの楽しそうな甲高い声が山系一帯に響き渡りましたね。

    
     重い荷を背負って大崩山荘に到着                 いざ!県境尾根目指して

 県境を進むほどに、樹々の合間からは、左に大崩山から鹿納山、五葉岳に至る山並みが、右には傾山〜新百姓山、すぐ真下に天神原山、遠くに由布・鶴見が見え隠れし、移りゆく風景が常に新鮮で飽きることがない。松井さんはこの近辺の山に精通しているのだろう、次々と現れるピークを言い当てる。

    
          県境尾根から鹿納岳を望む                尾根の右手は新百姓山方面

 当初予定では要山までとしていたが、指呼の間にある夏木山までピストンすることにした。個人的にはこれによって木山内岳〜祖母山に至る県境尾根が繋がったことになる。以前所属していた山岳会で創立10年の記念事業として大分と福岡・熊本・宮崎の県境踏査が実施された。昭和51年のことだが、当時はTVニュースでも流れ、ちょっとした特番も組まれた。筆者は当時、負傷入院中であったためその当事者になれず、病院のベッドでTVを観た。この歳になって、いつか機会があったら県境踏破をやってみたいと真面目に思っている。

    
        紅葉を思わず見上げる              宮崎大分県三尾根の要衝・要山山頂にて

瀬戸口谷下降(ほろ苦い思い出とともに)
 夏木から要山経由で喜平越にわずかに引き返したところに瀬戸口谷への下降点があることに“大崩山・五葉岳・夏木山 登山案内道案内図”(北川町役場ほか編)ではなっている。以前はスズタケのトンネルに導かれて下れたのだろうが、今はGPSのピンポイントの位置確認でも下降点付近に明確な踏み跡が見いだせない。実際には、この辺りどこを下っても大した危険もなく瀬戸口谷に下りることができる。

 案ずることもなく、すぐに瀬戸口谷本流に出た。このところの好天により、谷の水量は少なく、岩肌は乾燥しているため歩きやすく、途中、黒岩滝というちょっとした滝の下降や、いくつかの渡渉もあったが、山慣れた皆さんにとっては快適な渓流下降だったろう。

            
                     瀬戸口谷の下降

 水量が激減したせいか川床が到る所で浅く、先ほどの下降点から、三里河原の本流との中間くらいまで下りてきた辺りで、梅木さんが目ざとくヤマメを見つけ叫ぶ。声の方を振り向けば20cmほどのヤマメ数匹が本流を逸れた水溜りに“陸封”されているではないか。それを大の大人が大騒ぎしながら皆で追っかけまわすも・・・、ヤマメはさすがに俊敏だ。メンバーそれぞれの幼少期、農村の小川にアブラメを、海辺の波打ち際にドンコを追っかけた過ぎ去りし日々…童心に帰った束の間のひとときであった。

 ついでながら、瀬戸口谷には苦い思い出がある。26年前、県外からの仕事仲間を案内し新百姓山と夏木山に登った。夏木山からは往路とは別の、要山を経由して藤河内に下りようとした。途中で瀬戸口谷を示す標識が眼に入ったが、その瀬戸口谷をその時は大分県側の谷と思いこんでおり、そのまま下れば藤河内渓谷に出ると信じ込んだため、大変なミスをやらかしてしまった。結局、そのまま三里河原に出て、語りつくせぬ色んなことがあった。そして“長い登山人生の中の痛恨事”となった。ただ手前みその独り合点かもしれないが、そのことが、その時の山行を、より印象深いものにし、その時の仲間の皆さんとのきづなをいっそう深めることになった。今でもずーっと長いお付き合いをし、思い出しては互いに苦笑する昨今でもある。(「新百姓山〜夏木山、県南の秘境」:おゆぴにすと第6号P96、1989年)

              
                吐野〜喜平越谷間の大スラブのトラバース

大崩山荘の夜
 ほぼ予定の時刻にこの日の行程を終えた。所要約8時間。午後3時…宴会にはまだ早い。食糧担当の三代さん、梅木さんが用意した今宵のメニューは鍋物だが、肝心の肉係の二宮さんの到着はまだ先。同宿のパーティのこれから先の予定などを確認したのち早めに宴会に入った。明日のモチダ谷は結構長い。今日の行程もそう“やわ”ではなかったはずだ。メンバーに一人でも元気がなさそうな人が居れば、コース変更も視野に入れていたのだが、皆の表情にくたびれた様子は微塵も感じられない。いくらかは周囲に気を遣いつつも老老男女の楽しい、万年青年のような語らいの声が午後9時頃まで響いた様子。残念ながら筆者は途中、肉係・二宮さんの到着を見届け、明日の予定通りの行動を確認したのち、返す返すも残念ながら、人生において最も貴重な、楽しい語らいのひとときに、不覚にも一足先に深い眠りに陥ってしまった。

     
      まだ陽は高いが酒宴の準備が始まる             大崩山荘にて、今回の総員7名勢揃い

三里河原〜モチダ谷
 明けて10月18日。午後4時過ぎ、同宿の山口県パーティより少し遅れて起床し、雑炊の朝食を済ませ、東の空が白み始めた午前6時過ぎ、朝のうちに下山する松井さんの見送りを受け山荘を出発。足元はヘッドランプが頼りだが、樹々の合間から仰ぎ見る小積ダキの大岩壁はモルゲンロートの赤焼けに染まっている。シャッターチャンスだが、樹々が邪魔をする。格好の撮影ポイントまで足早に歩を進めたものの、もうその時には空も、岩肌の色も白んでしまっていた。鮮やかな赤焼けはほんの一瞬の出来事だったのだ。

 歩を進めて吐野着。昨日午後の陽ざしの中に観た三里河原より、早朝の谷と紅葉は、少し盛りを過ぎたとはいえ、より色鮮やかだ。三里河原から先は22年ぶりになるので少々不安がなくはなかった。そんな時、足元の岩肌に咲くダイモンジソウが緊張をほぐしてくれる。水量の少ない三里河原を、斥候役の幡手さんは本隊とつかず離れず右岸、左岸をどんどん進む。他は思い思いに歩を進める。

     
    大崩山のシンボル・モルゲンロートに輝く小積ダキ    吐野への難所・大スラブのトラバース…慎重に

     
 三里河原に花咲く乙女ら三人(左写真)   斥候?それとも隠密?…本隊と付かず離れずのサポート役・幡手さん(右写真の左側)

      
渡渉…女性隊員のために足場を作ってやろうとしている心優しい男性隊員二人 へつり…落ちたら冷たいぞ〜・・・

 三里河原からモチダ谷への進入路は、沢伝いに忠実に入渓した方が、きっと感動が深かったに違いない。二宮さんはそう言いたかったのだろう。幡手さんにつられてとっくにモチダ谷に入っしまった本隊より後方で、しきりに出合(吐合)付近を気にする。実際には右岸を高捲いたかっこうになり、出合での本流にモチダ谷の水流が注ぎ込む迫力は、樹間に垣間見たのみで先行する本隊を追っかけた。

 この谷はとにかく長い。登山道はあまり明確ではないが、谷の本流を忠実に遡行すればよいのだ。実際には支尾根に上がったり谷に下りたりで高度を次第に上げていった。そして、水流が果て、苔むしたゴロタ石の中を高度を上げて行くうちに、赤茶色に錆びた大きな金属片を“発見”。次に同じく錆びたハンドル状の鉄パイプ、最後にバラバラとなった金属片を寄せ集めたその傍らにある“航空機遭難追悼碑”が眼に飛び込んできた。「昭和32年大和航空云々…」とある。思わずひざまずく人、手を合わせる人あり(合掌)。その地点から、枯れたスズタケの生い茂る急斜面を登り切ること約20分で稜線=登山道に出た。

            
                  大和航空昭和32年の航空機事故の追悼碑に祈りを捧げる

石塚〜湧塚尾根
 昨日に続き、今日も快晴だ。天気が崩れるような気配は微塵もない。大崩山頂に足跡を残したのち、より眺望の利く石塚で大休止とする。ここの岩に立つと日南海岸〜国見岳などの脊梁の山々、宇土内谷、昨年の定例山行で登った日隠山、祖母傾、黒煙をたなびかせる阿蘇、九重、由布鶴見…360度の大パノラマが展開した。ここに来てなお、元気で食欲旺盛な皆さん…いやはや恐れ入りました、って感じだ。一方の筆者は、酒の飲み過ぎからか、二日酔いに加えて胃痛のため吐き気を催し食欲はまったくなし。戦後の食糧難の時代を生き抜いてきたわりには、皆さんに比べ、何とやわな体であることよ。で、湧塚尾根の下降は、当初余裕があれば上湧塚、中湧塚、下湧塚の各岩峰群の頭に立つことにしていたが、略すことになった。

            
                 石塚にて…二日酔いでさえぬ顔の一人を除き、タフな皆さんと


                大崩山山頂付近にある石塚からの大パノラマ(二宮さん撮影)

            
             水量少ない祝子川の渡渉を終えて山行もほぼ終了、遠目にも安堵の表情が

参考1: 「紅葉を求めて大崩山に遊ぶ」(栗秋和彦、1993年)
参考2: 「望岳雑感」(挾間 渉、2003年)