望岳雑感
                  挾間 渉
大崩山荘の一夜
 もうかなり前の秋、大崩山(1643.3m)に登った時の話(※)。我々一行6名は前日の夜から大崩山荘に入り、いつものように鍋などを囲みお酒も入り、当然のように山の話に盛り上がっていた。メンバーの数人は昭和電工大分石油化学コンビナート(大分市三佐)に勤務しており、その夜の話題の一つに、工場のある大野川の河口付近の埋め立て地から大崩山の頂が視認できるや否や、というものがあった。

 古い話でその仔細は定かでないが、メンバーの一人・Aさんが、山頂が見えることを頑なに主張したが周囲は半信半疑、それ以上深まることなく別な話題へと移っていったように記憶している。だが、当時の私は、大分市の自宅付近からどの範囲のところまで自分の‘気になる山’が遠望できるのか、可視範囲やその理論的なことに興味があった時期であり、自分の眼でこのことを是非とも確認しておきたいと、脳裏に深く刻まれたものだ。

『望岳都東京』
 ところで、自宅付近から見える山々を根気よく観察し続けた人といえば、木暮理太郎(1874〜1944)が著名だ。その彼の著「山の憶ひ出」の中に『望岳都東京』がある。以下にその一部を紹介してみよう。

 ・「東京から見える山を総括して申しますと、三千米以上の山が富士山を加えて九つあります。それから二千五百米以上三千米以下が十三。・・・・合わせて七十二座あります。東京市中から、これ程多くの山が見えるといふことは、大抵の人が恐らく意外とする所であろうと思います・・・・」(講演速記)

 ・「道灌が江戸城を築いた頃は、月の入るべき隈もなしと歌われた通り、武蔵野は一望広漠たる茅原か又は雑木林で、展望をさえぎる高い建物や、石炭の煙などは皆無であったから、静勝軒からは居ながらにして、いつも(恐らく)山を望むことができたであろう。しかし、今の東京となってからは、そうはゆかなくなった。ことに彼の煤煙は最も邪魔物であるから、少なくとも東京から望む山には、空気が乾燥して透明である冬季の晴れた日という一般的条件のほかに、強い風が吹くという条件を伴う必要が生じてきた。その風も北西の風でないと好適とはいえないのである。もしこれらの条件が一つでも欠けていれば、雪嶺天を界する壮観はとうてい望まれないものと思って誤りはない。」


 摩天楼の林立する今となっては、木暮が都内の様々な場所から望んだ関東周辺の山々の克明な記録は貴重である。

大崩山遠望
 話を元に戻そう。 国土地理院5万分の1地図を取り出し、大分鶴崎臨海工業地帯・昭和電工埋め立て地と大崩山の山頂の間に定規を当ててみた。その直線距離約60kmの間に多くの山々があるが、いずれも低くさしたる障害になりそうには思えない。地球の円味を考慮しても、なるほど、過日の大崩山荘でのAさんの話は頷ける。が、この眼で確かめないことには得心が行かない。

 木暮は東京から南アルプスを遠望するのに好適な条件としては冬の晴れた日の、特に風が吹いた直後だという。大崩山登山を終えたその年の初冬、脳裏から消えない‘そのこと’を払拭する意味もあって、良く晴れた日を見計らって昭和電工のある大分市三佐に出かけた。

 工場敷地内には入れないので、見通しの効く場所を求めて乙津川の堤防に立ち、遙かな県境の山々を遠望した。最初に眼に入ったのは、形状、輪郭に明確な見覚えのある傾山(1603m)、その東側の連なりにいくつかの鈍頂が見える。

 5万分の1地図の等高線と方角を読みとりながら、大分市鶴崎方面から視認可能とした場合の大崩山付近の連嶺の輪郭をイメージしてみたが、想像力の乏しさ故か頭に明確な像を形作れないが、地図と方角、山の輪郭など繰り返し見比べるうちに、どうやらそれらしい頂を特定できた。なるほど、確かに大崩はみえる。Aさんの話は本当だった。

遙かなり石鎚山
 話は変わるが、かなり以前の冬、鶴見岳北谷をつめ、鶴見岳山頂(1375m)に立ったとき、山頂のパノラマ板には北東方向に四国の雄峰・石鎚山(1982m)が描かれていた。この日は前々日来の降雪・悪天候が明け、快晴に近い空模様であったにもかかわらず、パノラマ板の指し示す方角をいくら凝視しても、四国方面の最奥部は薄ぼんやりと靄に包まれ、石鎚山を確認することはできなかった。

 鶴見岳山頂から石鎚山は本当に見えるのだろうか。前述した大分市三佐からの大崩山は、その水平距離約60km、一方、鶴見岳と石鎚山とは160km以上にもなり、大分市と大崩山の距離の比ではない。しかも、その間に1000〜1600m級の四国南部〜中部の連嶺が幾重にもたちはだかっている。

 もし地球が単純な平面であるなら、地図上に正確に線を結び、その間にある山々の標高を考慮すれば、数学に弱い私でも理論上の可視範囲は判断できよう。けれども、それに地球の円味を勘案しなければならないとなると、もう手に負えない。鶴見岳山頂から石鎚が視認可能かどうかの疑問を解決できずに、長く心にひっかかったままになっていた。

カシミール3Dとの出会い
 その数年来の心のひっかかりに、カシミール3Dが答えてくれた。
 カシミール3Dとは一言でいえば三次元の地図ソフトである。しかし、レリーフ表現された地図上で様々な風景を‘写真’に撮ったり、展望図、断面図、可視マップなど豊富かつ高精度な機能を備えるなど、単なる地図ソフトでは割り切れないほどの多機能を有する。

 大分市三佐付近の乙津川堤防からみた大崩山は、見通しの良く効く天候下であったが、大野川上中流〜大分県南部県境の山々越しに、薄ぼんやりとした鈍頂を見せていたように思う。写真にこそ収めていないが、私がこの眼にしっかり焼き付けたその時の像は、カシミール3Dの300mm望遠レンズが捉えた、昭和電工の工場敷地内からのイメージ画像をもって紹介にかえたい。山の輪郭はほぼ的確に表現されているとみてよかろう。
  
              昭和電工の工場敷地内(大分市三佐)からは大崩山がこんな風に遠望できる


   
              昭和電工工場敷地内と大崩山頂との可視判定結果

 一方、鶴見岳山頂からの石鎚山はその後も何度か天気の良い日に足を運んだにもかかわらず、未だにその雄姿を垣間見ることさえできないでいる。見えるとすればどんな風な輪郭を現してくれるのだろうか。5万分の1地図はもとより、20万分の1図でさえも遠すぎて、定規を上手に当てられず、堂ヶ森(1680m)や二ノ森(1929m)など前衛の山々との微妙な重なり具合が気になる。カシミール3Dの撮影距離を200kmにまで拡げて設定(※※)し500mmの望遠レンズで撮影してみた。CPU2.0GHz、メモリー512MBと性能的には比較的演算能力の高い(?)私のパソコンでも像を結ぶのに少々時間はかかったが、果たして、石鎚山天狗岳が右手に二ノ森を従えて雄姿を現した。カメラが見事に山頂を捉えた瞬間だった。思いがけずも、笹ヶ峰(1896m)や東赤石山(1707m)が左手後方に垣間見えた。

   
           鶴見岳山頂から500o望遠レンズが捉えた石鎚山とその衛峰


   
               鶴見岳山頂と石鎚山山頂との可視判定結果

 日本最高峰の富士山(3776m)の可視範囲は相当広範囲に及び、南は和歌山県辺りになるという。しかし、大切なことは理論上よりも、また、バーチャルな世界よりも、実際に自分の眼で視認することだろう。それにしても、自分の‘気になる山’が、自宅周辺のどこからなら見えるのか、その裏付けを得る手段として、カシミール3Dは満足すべきものである。‘50mメッシュ標高’という粗さが多少気にならないものでもないが、近い将来‘10mメッシュ標高’が利用可能となれば、精度がさらにアップしきめ細かいものになっていくだろう。

 大気汚染の進んだこの日本で、鶴見岳山頂から石鎚山頂を可視する幸運は、やはり自分の足で、余程足繁く鶴見岳に通い詰めないと得られぬであろう。かつて戦時下の東京都内を双眼鏡片手に小高い丘の上に立っては南アルプス、奥秩父の山々を、時に憲兵に不審人物と間違われながらも、黙々と‘望岳’した木暮理太郎の境地は、多少なりとも理解できる。そんな歳に近づいたと言うことだろうか。ただ戦時下で山登りが思うに任せず、山への募る想いに駆られ‘望岳’のため東京都内を徘徊した木暮とは対照的に、平和と繁栄を享受し、当時の岳人から見ればほんの少し何かを犠牲にしさえすれば山に行ける我が身としては、カシミール3Dの机上登山に甘んじるのは、いかにも早すぎる。(2003年9月26日記)
 
 ・「登山者は老ゆるにしたがって、現実の山登りよりはなれて浪漫的におのれが所有する山登りの回想のたのしみを、そのおのおのの山のふもとにおいて求めようとする。おそらく幸福なる彼らはその想い出深き峰のすがたの前に静かに座して彼らの最後の夕栄までを楽しむだろう。」(いまグリンデルワルトの谷に老後の余生をおくっているクーリッジを思って)

 ・「山に行け!君がその憂鬱のすべてをばルックザックに入れて」

                             (いずれも大島亮吉)。
紅葉を求めて大崩山に遊ぶ(栗秋和彦、1993)
※※カシミール3Dでは撮影距離を長距離に設定すると、そこまでの地形のデータ量が膨大になるため、撮影に長時間を要するとともに、パソコンの性能によってはフリーズしてしまうことがある。 

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