別院ルート図
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 添付のルート図は、大分登高会会報「登高」第83号(1973年12月)に加藤さん(現日本山岳会東九州支部長)がガリ版鉄筆にて作成したものです。
             高崎山別院岩場 再訪


                  別院岩場カンテルート最下部を登攀する高瀬

 「昨年夏の笠ガ岳のアクシデント以来、自律神経失調症、パニック症状、腰椎椎間板症等に悩まされ続けてきたのですが、ここにきてようやく開き直ることができつつあります。編集長にはいろいろ揶揄されるが、来年夏には永年の念願である、前穂北尾根に行きます。還暦を過ぎ残された岳人人生もあと数年ではないかと思った次第で、その後には長次郎谷からの剣、八峰、さらに黒部源流赤木沢遡行と夢だけは持ち続けています。みなさんも来年夏に涸沢集合いたしませんか!! 」(当HP掲示板2011年11月19日(土)11時09分43秒書き込み )ということで、長い間の沈黙を破ってやっとこさ高瀬が動き出した。どうやら大鋸、小鋸ですっかり自信を取り戻したらしい。いや、それよりも編集長こと私の、長い辛抱と言おうか気の短さと言おうか、何かとウエブ上で‘揶揄’と称する諸々が功を奏したと言えようか。

 来年の前穂北尾根を目指してまずは手始めにこのところの懸案事項でもある高崎山別院岩場。もちろん、自分のバランス感覚や岩登り技術の再確認のためではあるが、それよりももっと大きいのは二人とも絶えて久しく別院から遠ざかり、大袈裟にいえば「喪われた岩壁 大分登高会の青春群像」を求めての「高崎山別院再訪」でもある。

 11月27日 約束の午前9時少し前に田の浦ビーチ駐車場に着くと、既に30分ほど前からお待ちかねの高瀬の笑顔がそこにあった。「昨夜からいつになく気持ちが高ぶりましてね。早めに来てしまいました。」・・・無理もない。足繁く通っていたのはもう30年以上も前のことだ。我々の岩登りの原点は別院にあるのだから。

高崎山自然動物園のゲートで‘登山’である旨事情を話し、係員から示された登山届用紙にその場で記入・提出して岩場を目指す。

 この付近は数年前(もっと前かも)の豪雨の際土石流が発生し国道にまで達したため、その事故をきっかけに砂防堤ができており、そうでなくても、かつて頻繁に通ったとはいえ30年以上も前のこと、岩壁へのアプローチに記憶が定かでない部分も多々ある。

ゲートすぐ横の沢を登って行くとすぐに大きな砂防堤にぶつかる。これを右に捲きいったん沢に下るも急なせり上がりになっており、「どうも違う」。別な沢・・・サル寄せ場の方に移動してみると上部に別の大きな砂防堤がある。見上げると大きな谷のここが基部と容易に判別され、かつての記憶が少し甦ってくる。以前通い詰めていたころは沢伝いに左岸(向かって右側)の踏み分けを登り詰めたはずだが、結構大きな堰堤は左側(右岸)が藪こぎが少なく楽そうに見える。藪こぎや足場の悪いゴーロに苦戦しつつ結局、大小5つの砂防堤の左側を高捲きし6つ目の砂防堤の上に立った時初めて目指す壁の一角が現れた。大部分は雑木林に覆われ、昔もそうであったように今でもこの岩場の全体像はカメラに収めることはできない。結局、岩壁基部までゲートから50分ほどもかかってしまった。

            
                      別院岩場までの行く手に立ちはだかるゴーロや堰堤

 壁は想像していた以上に青ゴケに覆われ草付きの中にわずかに岩壁(いわかべ)がモザイク状に見られるといった様子。つい数ヶ月前本匠の明るい岩壁を観てきただけに、何とも陰湿な、青ゴケや草付きを差っぴいたにしても、こんな壁によくもまあ足繁く通ったものだとの気持ちと、30数年ぶりの懐かしさが入り混じった複雑な思いが込み上げてきた。かつてくつろいだりしていた基部の広場は、右俣の上部からの土石流の影響であろうか、大小の岩石や砂利により1メートルほど嵩上げ状態。気になる残置ハーケン、ボルトは既にリングが錆びて失せているものなどもあるが、思った以上にしっかりしたものも見受けられる。我々世代の岳人たちが去った後に打たれたものかもしれないが、それでもかなり錆びており、このところ人の立ち入った気配はまったく感じられない。

    
                高崎山別院岩場・・・壁に向かって左から右に連続写真

 さて、まずは小手調べとばかり、高瀬がカンテルートを試登すべく取りつく。このルートは、昔はここを訪れる者は皆、ウォーミングアップをかねて岩場到着後最初に取り付いていたし、新人が最初に登らされることからも、難易度が低い。中間より少し上にハーケンが1本あったと記憶しているが、実質ノーザイルに近く、それでも三点支持やホールド、スタンスを確認しつつ、20歳代半ばであった当時は難なく登っていた。30数年ぶりの今日、あらためてルートを観察するに、かつての記憶ほどには、そうたやすくはなさそうというのが岩場を見上げての実感。

しかし、ここを最初に登る高瀬はわりと軽やかに5メートル上のテラスに抜けた(冒頭の写真参照)。さて、お次は私の番。もちろんザイルを上から垂らしてもらう。クラックに足を入れながら身体を左に振られ気味に、ずり上がるように登る。その姿たるや何ともぎこちないであろうことは自分でも分る。「狭間さん、その足の置き方はないでしょ!昔クライマーの片鱗が登り方にまったく感じられないなあ、もう」と手厳しい高瀬。

 このカンテルートの下部わずか5メートルを繰り返し試登しルートファインディングの眼を慣らし勘を取り戻し身体を温めたうえで、いよいよカンテルートの核心部にまず高瀬が取り付く。ところが上に一歩も進めない。小さなホールドやスタンスがあるが、やや湿った感じの岩肌の感触、それに青ゴケなどもあり、「どうも靴底がスタンスや壁面にしっかりグリップしたという感触がない」と高瀬は言う。「ではでは、どれどれ」と交替してみるがこれはポーズだけの私。

 他のルートに転戦といっても、カンテルートが登れなければ、凹角ルートは言わずもがな。左側のジェードルも意外に手強く、前夜神経の高ぶりを覚え、勇んでやってきた高瀬としてはこのままではまったくの消化不良、不完全燃焼だ。一方の私はと言えば「高崎山別院の岩場再訪」そのものが目的であり、この岩壁の前に立ち「かつての大分登高会の青春群像」に想いを馳せることで、所期の目的は果たしたという気持ちが強い。手も足も出ないからといって、悔しさは高瀬ほどにはない。

 冒頭のメールにある‘来年の前穂北尾根’に向けての景気づけの意味合いもなくはなかったのだが、「別院が登れなかったからといって北尾根が登れないわけではない」、「どこかもっと明るく快適な、かつ比較的やさしい岩場はないものか、来春までの課題ですね」と意気軒高な高瀬。

                 
                          30数年ぶりの再訪

 どう考えても、お世辞にも、見た目、どこにも誇れる‘我がホームゲレンデ’と自慢できるほどではない、この岩場、かつて青年期土曜日の午後、何十回となく通い詰めたこの岩場、もう少し難易度が高ければもっと岩登りが上手になったかもしれないのにと思うこの岩場、それでもここには青春時代の思い出の多くが凝縮されていることには間違いない。再訪してもう一度だけでも岩に触れてみたいと、気がかりになっていたその気持ちはここにきて払っきれた感じだ。「あの凹角のところは、その基部を右側から回り込んでよく利いたハーケンを頼りに吊上げ気味に身体持ち上げ、左の枝に手をかけてどうにか抜けられる・・・」、「その横のハングは安東さんがアブミ使わんでカラビナのかけ替えだけで登ってたな」などと往時を忍びつつ、かつての仲間たちを思い起こしつつ、しばしの時を過ごした。(2011.11.28,狭間記)

【後記】「高崎山別院岩場 再訪」の記事に対して、また、それに関連して後日トップページにアップした、盛況を極めた当時の写真に対して、多くの反響・感想が寄せられましたので、以下に紹介します(2012.1.5)。


別院岩場再訪を読んで

 投稿者:やっせんぼ  投稿日:2011年12月29日(木)17時02分2秒
  高瀬、狭間両氏の高崎山別院岩場再訪を読んで若かりし頃を思い出された。
確かに当時は暇さえあれば誰かが別院にいましたね、山渓「山岳会紹介」で
別院の岩場で全員集合の写真と会の紹介記事が掲載され、24さんが第二次RCCの
メンバーからお宅の会の女性は美人揃いと言われた事を聞かされた事が記憶の片隅にありました。誰か当時の記事をお持ちであればスキャンして掲載して欲しいものです。
当時が大分登高会の全盛期だったのでは今思えば懐かしくなります。
でも記事を読めば最近は全く練習ゲレンデとして登る人がいないのでしょうね。
さて記事に啓発され我が故郷薩摩のゲレンデはその後どうなったのか思いちょいと覗いて
みようと痛む脚腰を騙し騙し足を運んだ(幸いにも母の入院先の病院と目と鼻の先)
竜ガ水駅の手前を廃校となった竜ヶ水小学校の跡地に立ったが、周辺は8・6水害で発生した
大土石流で岩場の跡形も無い、列車が土石流に巻き込まれ死者数名を出した忌まわしい災害で
自分が岩登りと称する世界に入るきっかけとなった岩場は過去のものになってしまった。
別院と違い南向きの明るい岩場だったのに。



ご要望にお応えして

 投稿者:こだわり編集長  投稿日:2011年12月30日(金)18時09分46秒
  高崎山別院再訪の記事に反応があまりないことに、少しさみしい思いをしてました。やっせんぼさんありがとうございました。

大事な秘蔵写真なので、とりあえずトップページにひと足先にアップしました。

実は写真撮影の時は、会が一時的に停滞していたころでして、山岳雑誌「山と渓谷」用の写真を撮るということで、このころ普段あまりお顔を拝見したことのない人まで集まってきたという感じですね。

入会数カ月のこだわり編集長は「おまえはザイルでも肩から下げておけ」ということで、後方でくそまじめに構えてます。その後もこの写真をときどき見ますが、それっきり結婚や仕事・家庭の責任などにより遠ざかってしまったりで、かかわりを持てずじまいの人も何人か写ってます。

もしこの写真をみたら反応してほしいですねえ。

左側の戦国自衛隊みたいな人とか、T並さんの下に居る往年の映画スターみたいな人とか、その下の二人など、今どうしてるんでしょうねえ。「第二次RCCのメンバーからお宅の会の女性は美人揃いと言われた」当時の4人娘は今、それに最古参の嶽道さんはお元気?


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団塊の世代の青春群像ですね!

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2011年12月31日(土)10時23分43秒
編集済
   やっせんぼさんの反応に編集長が応えましたが、(当事者ではないけれど)その後が続かないと思い、筆を執りました。なるほど動員がかかった?とは言え、足元の悪い別院岩場によく集まりましたね。私自身は73年11月の入会なので、こんな撮影会を催したなんて、知る由もありませんでしたが、拝見すると懐かしいお顔が散見されます。

 もちろん戦国自衛隊さんとか、T並さん(どうしていますかねぇ?)の下の方とか断定はできませんね(うすうすは分かりますが・・・)。嶽道さんは仕事の面で共通項があったので、いろいろ話をした記憶があります。しかししかしそれも遠い夢の彼方の出来事のような気もします。24さん、梅木さんも若いですねぇ。

 撮影当時、私は地元で学生の身、よく仲間と尾根歩きばかりやってましたが、当時会員だった学友のI君から会の活動状況等を仔細漏れなく聞いていた青年(私)にとって、大分登高会は憧れの的でした。機会が適えば入会して先鋭的な山登りがしたい、とトレーニングは怠りなく(ランニングだけでしたが)、護国神社の石段上りに精を出したものでした。

 そんなこんなでおよそ2年後に入会を果たしましたが、想像していたとおり皆が夢に向かって邁進している様子に、我が意を得たりの心境だったと記憶しています。その頃から数年間が会の第二次 ? 隆盛期だったと思いますが、思い返せばその変遷期に貴重な経験ができ、もっと言えば青春群像の真っ只中、いろんな葛藤や欲望、諦念などか行き交い、そして昇華した一時期だったのです。その意味で私自身、貴重な歴史の証人となり得た訳ですし、青春の多感な時期の財産だったと言えます。ちょっと格好つけ過ぎのきらい有りですかねぇ(分かっていますとも)。

 さて編集長が添付した写真の上部に会の概要と会報「登高」67号(71年10月発行)のトップページが記されています。関係の皆さんにはこの夏にお配りしましたが、この紙ベースの会報「登高」のPDF化作業を春先に思い立ち、個人的に行いました。手元にある分だけしかPDF化できなかったので、第1号(65年10?月)〜第123号(78年2月・・・これが最終号だったと思うが定かではない)まで全123巻のうち欠号が1.4.7.9.20.38.41.42.47.48.58.64.70〜72.77号と都合16巻にのぼります。

 もちろん完全無欠を目指したいのは山々でしたが、現時点の結果であります。もし読者の中で欠号をいくらかでもお持ちの方がいましたら、是非声をかけて下さい。CDに取り込みましてお配りすることを約束します。昭和の高度成長期時代、一社会人山岳会の記録ではありますが、ひたむきに生きた青春群像の一断面を後世に伝える義務が有り、電子化することで少しでも普遍化に近づくものと思っています。そしてあわよくば世界記憶遺産登録を目指して! (笑)
皆さん、よいお年をお迎え下さい。

懐かしい。いい写真ですね。

 投稿者:にわぴにすと  投稿日:2011年12月31日(土)20時36分33秒
  写真を見渡しても にわぴニスと の姿が見当たりません。あれ、どうした事か?。
1972年。記録をひも解くと、この年 にわぴニスと は修行に出ていました。
その前年、一人別院を訪れ写真背景のルートをノーザイルで単独登ハン中にバランスを崩して墜落し意識不明に陥った。
ちょうどその時にその場所に到着した江藤氏の手配により、救急車にて病院に搬送され一命を取り留め、2カ月弱の入院加療。そのご東京に転勤となった。
この写真を見てこのようは古い昔の事を思い起こしました。
江藤さんのは大変お世話になりました。

当時の別院岩場は、

 投稿者:こだわり編集長  投稿日:2012年 1月 1日(日)12時18分43秒
  江藤さんは直接の面識はなかったのですが、一度だけ別院であったことがあります。一番人工色の強いルートを、寸分の無駄なくスピーディに登った人があり「あれば誰?」と思わず叫んだ記憶があります。その次に会ったのはヒンズークシ コー・イ・モンディ登頂記念の集い(2005.7.3)の時です。

「皆さんお久しぶりで懐かしい顔の方々ばかりで出会えて嬉しく思います。当時の隊の最年少だったのですが、いまだに最年少です。ヒンズークシの頃はまだ子供で、今でも子供みたいなものですけどね、みんなに迷惑のかけっぱなしでした。何にもわけわからなくってですね。でも、ヒンズークシをきっかけにその後‘病膏肓に入る’でいろんな山に登りましたが、しかし、その後登った山を飛び越えてヒンズークシは大きなものがあります。あの時お世話になった皆さん方にあらためてお礼を申し上げたい。どうも有り難うございました。(司会:江藤さんは今東京に居られて今回の行事のためにわざわざ駆けつけてもらいました。6人のうちの一人ですから当然お見えになるとは思っていましたけど、本当に有り難うございました。)・・・以上ヒンズークシ40周年記念の集い速記録より。

江藤さんは別府の山岳会が活動母体だったように記憶してます。あの頃は別府の山岳会や、分大山岳部、大分山岳会など、いろいろな岳人たちで別院の週末は結構にぎわってましたね。

だからこそ‘にわぴにすと’さんも一命を取り留めた。吉野の山の花咲か爺さんになるのも大変でしょうが、「裏山に始まり裏山に終わる」です。おっと、裏山とは吉野の山と言われそうだな、九重もゆめ忘れるなかれ。

あけましておめでとうございます。

 投稿者:シャンダルム  投稿日:2012年 1月 1日(日)21時03分57秒
  かつて高崎山で沢山のドラマが繰り広げられていたことを知り驚いています。
私は高所恐怖症なので今後岩登りをすることは無いと思います。
昨年の夏に燕→西穂高縦走をした時はもうダメだと思ったことが何度もありました。
登山は無事下山してなんぼのものだと思いますので、みなさんもあまり無理せず山登りを楽しみましょう!

いやー驚きました。

 投稿者:今日も快調より  投稿日:2012年 1月 4日(水)20時28分4秒
  2012年、年明けの表紙はどこかの初日の出と思って開いてみたらなんとセピア色の昔への懐かしい写真ではありませんか。
なんと22名もの当時の仲間の懐かしい顔、顔ではありませんか。
「高崎山の岩場再訪」という記事は見ていったのですがその第2報がこの写真とは、管理人もやるねえ、といったところでしょうか。それが証拠にこの写真の印象の書き込みが次々あったという事でしょう。

我が家のアルバムにもこの写真はありますがこうして見せられるとやはりなにか驚きというか貴重なものだといえましょう。
真ん中で写っているのが私ですがこの時着ていた山シャツがいまでも我が家の箪笥の中に捨てずに残っているというのもまた貴重なものでしょう。
この中で右下の嶽道さんはすでに故人となられていますが他の方はまだまだご健在でしょう。勿論美人4人衆もその消息はさだかではありませんがまだご健在でしょう。

それにしてもよく高崎山にかよていたものです。
岩登りのトレーニングであったこのゲレンデには数々の思い出がありますが
中でも私の中で強烈に印象に残って出来事が一つあります。
昭和40年の3月ヒンズークシに行くためのトレーニングを
24リーダー号令のもとHさんIさんとアイゼンをつけてこの岩場を経由して山頂まで登ってそして下っていった時なにか雰囲気がおかしかったのです。
その日金池小の先生に引率されてきた子供が1人落石に当たって命をおとしたという事故に遭遇したのでした。
その子をあの岩場を下ろした記憶はいまでも思い出します。
人一人の死に遭遇した強烈な体験でした。

あれやこれや、若かりしころの青春の1ページを思い出させる場所でした。
よくぞこの写真を載せてくれましたねということですね。

今年もよろしくお願いします。

会長より。

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