大分の山を行く(1)   挾間 
はじめに
 杵築の豊嶺会という山岳会が、「国東半島の山に登ろう」と一般に広く呼びかけ、毎年3月に登山会を開催するようになって確か5回目を数える。国東半島の山々は登路もはっきりしないし、良い機会だから是非とも参加したいところだが、毎年実現せずじまいに終わっている。ローカルな山の会が、そのローカル色を生かし、郷土の名も無き山々の良さを再発見しようとして始められたこの種の試みは評価に値する。我が会も基本的には山岳会という位置づけのなか、会員の多くは大分100山をはじめ名も無き低山をも登山の対象として地道ながらも活動を続けているわけである。

 こと大分の山に関しては古くは加藤数功氏、最近では梅木氏などの多くの研究業績があり、とくに梅木氏の場合、職業的な利点をめいっぱい利用することによって、数多くの調査資料を蓄積されているようてある。氏によると、この大分県には名前の冠せられた山で、すでに氏の研究でリストアップされたものが800座はあり、今後の調査が進めばおそらく1000座を超えるであろうという(「登高第17号」および「JAC東九州支部創立20周年記念誌」による)。

 ちなみに筆者が国士地理院発行の2万5千分の1地図大分県関係分100余枚を丹念に調べ上げた結果では、名称のある山は341座しか見当たらなかったことからして、氏の研究の如何に年月と足とを費やしたかを垣間見る思いである。梅木氏によると多くの山々について歴史・伝説など調査研究済みであるという。これらの秘蔵の研究成果を本人のみのものとせず早く何らかの形で活字にでもしてもらいたいものと熱望する人は少なくあるまい。

 このような先人を前にしては我々が山についての歴史・伝説など記そうとしてもすべて受け売りの感があり面映ゆいが、山に登りそこで自分の目で、耳で知り得た諸々の事柄を、我々の「自分史」として素直に記そうではないか。そのような訳でこれまでに登った山について、時に紀行文的にまた時に回想文的に気まぐれではあるが記録としてとどめようと思う。以下は記録及び回想である。

国東半島の山(その1)
 私と国東の山々との出会いは1冊の本に始まる。数年前大分市内の古本屋で手に入れた昭和10・11年に発行された「九州山岳」1号・2号の中に国東半島の山々の記録が記載されているのに驚きを感じたものてある。そのころ既に国東独特の雰囲気を十分理解し、不便ななか地域研究的な山登りを、地元ではなくむしろ福岡などから精力的に出掛けてくる熱心な人々がいたようてある。今でこそ「仏の里くにさき」としてブームを呼んでいるが、当時は全く不便な陸の孤島で、しかもその頃はいわゆる「登山」(スポーツ)としての行為は極限られた階層の人々のものであったろうに。九重や祖母など、九州登山界の草分け的存在の人にとって踏査研究の余地の数多く残されている山々を差しおいて、このような辺ぴな国東の低い薮山に足を踏み入れようとするからには余程の何か言い知れぬ魅力が有るに違いない。・‥大分100山が選定されたのをきっかけに、郷土大分の山再発見を登高会以後の新たな自分の山登りのスタイルと定めて、機会有るごとにこの国東の山を訪れるよう努めている。

両子山           
           左より千灯岳、来の浦富士、文殊山、両子山

 国東半島中央部にあり、どこからみてもお腕を伏せたような山が半島の最高峰両子山(721m、写真右端)である。昭和57年の初秋女房と4才と2才の息子の一家4人で出かけた。登山口の両子寺より山頂までは立派な車道が通じているが一般の車の乗り入れは出来ない。当り前に拝観料100円を払ったが登山が目的の場合は寺に届ければ拝観料を払う必要はないようである。

 登山道は、車道とは言えかなりの急勾配の曲がりくねった道で、ダダをこねる2才の次男をアメとムチで引っ張りながら1時間余で山頂着。一等三角点がある。防災無線のアンテナなど中継所の諸施設がたくさんあり雑然とした山頂であるが、さすがlこ半島の最高峰だけあって眺望は良い。南側の眼下に田原山、その向こうに遠く由布・鶴見の連山がある。由布岳は大きなコブ二つ、一名をこの地方でらくだ山という由縁はこの辺にありそう。西方に雲ケ岳・御許山、宇佐平野、北方に半島北部の山々。樹々の間から姫島矢筈岳が望まれる。子供達は暖かい陽射しのなかついには裸になってはしゃぎ回る。私はホエーブスを点火しぜんざいをつくる。火事の心配がないから、簡単な料理をつくるのもなかなか乙なものだ。紅葉には早過ぎたが、快晴のなか家族団らんのピクニックを楽しむことが出来た。

 両子山には多くの登路が古い地図には記されているがいずれも荒れ果てており、このような登路は、国東の山々に郷愁を感じ薮漕ぎをも辞さない一部のオールドファンを除いては利用する人もいない。この山は今では車道を利用し家族でピクニックで登るには格好の山である。(昭和57年10月17日の山行)

猪群山

 猪群山への登山路は道中の真玉温泉センターで尋ねたところ、北麓の飯牟礼神社が唯一つということで、猪群山の東側をぐるっと回りこんで横山集落より登山開始。地元の人々の話を総合すると薮漕ぎが予想されるため、女房と二人の息子を登山口に残し単独登山となる。

 飯牟礼社の鳥居をくぐり神社の傍らを通り過ぎると大鳥居があり、近くに183mの標高点がある。この地点より458.2mの山頂まで標高差275mのアルバイトだ。この付近は臼野方面からの林道により登山道が寸断されている。ちょっと寄り道になるが、この林道を左に5分程で上宮に着く。欝蒼とした杉木立に囲まれた神社の中に牛が祭られている。

 しばし、感慨にふけったあと林道をさき程の大鳥居まで戻り寸断された登山道の上部を注意深く探る。頂上への道は山腹中央部の右筋の急登20分で防火帯の稜線に出る。荒れてカヤが生い茂り防火帯の役を為さないが、左に取ればストーンサークルのあるピーク、右が三角点のある山頂、いずれも10分程度の歩程である。背丈ほど生い茂るカヤを避け稜線に治って歩き易い杉林の中を少し登ると山頂である。小さな広場に二等三角点があり櫓の材料となった材木が無造作に置かれている。眺望は殆どきかず、落ち着かない。頂上を後にして気になるもう一つのピークヘ向かうことにする。(なお、その数年後JACを案内して2度目に訪れたときなどは頂上はカヤに覆われてうっかり通りすぎてしまう程であった。)

 こちらの方は数メートルの大小様々の石が露出し、特徴的な配列から信仰の対象として崇められたものらしいことが、中央の大きな石に飾られたしめなわに感じることが出来る。その石の上に立つと豊前海から国東半島中央部の視界が開けてくる。眼前に見える尻付山は名前こそあまり品がないが山容は申し分なく、別名「大岩屋富士」が如何にもピッタリする感じである。大分100山の選者にクレームの一つもつけたくなるのはこんな時である。「あの山に登らねばならぬ」と新たな登高意欲を感じながら足早に下山した。帰路、六郷満山の古刹・応暦寺に立ち寄り真玉温泉に入湯。

 国東の山はそれほど時間もかからないので少し余裕をみて寺巡りも面白い。真玉温泉については稿を改めて紹介することにしよう。(昭和57年10月30日の山行)
  
姫島 矢筈岳と達磨山
 晩秋の休日、午前11時定刻に伊美港を出港した姫島村営フェリーの中に盛夏の賑わいは無い。静かな船内で僅か数十分とはいえ初めての船旅を経験する息子達は大はしゃぎである。11時25分姫島港着。港からは、僅か2百メートル余りの矢筈岳が意外な程の高さに迫る。

 矢筈とは弓を引く時に弦をかける弓矢の溝の部分のことで、大体二つのピークを持つ山にこの名が多い。姫島の矢筈岳の場合、国東半島からみると急な三角形の山容であるが姫島に近ずくにつれてピークが2つに見えてくる。手前にある片方のピークが少し低いが、姫島の町から眺めると程良い双頭に見え納得した次第である。登山道は雑木林のなかしばらく荒れた小道を登って行く。子供にはこのブッシュはシンドそうなので途中までで妻子をUターンさせ、独り黙々と登り登山口より35分で山頂着。

        
              達磨山より矢筈岳を望む

 お社がありその傍らに一等三角点がある。噂に聞いていた荒れ果てた展望台の上に立つと南に国東半島の山々が手にとる様に眺められた。下りは往路とは別の大海集落の方面への道をとり、一旦港に戻った後、矢筈岳と姫島の町並みの展望が良いと聞いた達磨山(105m)を目指して海岸どおりを西浦集落へ。達磨山の山頂は雑木林のなか、お目当ての三角点も見当たらなかったが、山腹よりの眺めは素晴らしく平和な付のたたずまいが一望できなんとなく安らぎを感じることができた。女房子供達にはまたしても不満足であったことであろうが島のほぼ半分を踏破し満足げに港を後にした。(昭和57年11月3日の山行)

・・・・姫島矢筈岳へはその後、拍子水温泉の営業を聞き及び、昨年の1月再び登る機会を得た。この時は栗秋君、荒きんちゃんと3人駆け足の登山・入湯とあわただしい山行であった。
 
屋山
 家族で登る国東の山シリーズの第4弾は金剛山長安寺で有名な屋山である。屋山は標高534m、屋根の形をしていることからこの名がついた。別名を八面山ともいい三光村の八面山と同じくメーサの山である。長安寺にお参りをしたあと、集落の元気の良さそうな子供が教えてくれた登山道を忠実に辿る。林道を西面を捲くように歩いて行くと日当たりの良い南西側の稜線に出てここよりカヤの踏み跡を辿るとほどなく山頂である。長安寺より約1時間の行程。二等三角点のある山頂からは雑木の隙間より豊前海が眼下に眺められる。いわく因縁のありそうな石造物が雑然としており静かな良い山ではあるが、展望が今イチでもありあまりゆっくりとした気分になれず、早めに下山し天念寺の川中不動を訪ねた。この屋山付近一帯は岩峰と岩稜にとくに富んでおり国東耶馬渓(田染耶馬、天念寺耶馬などの総称)として風景美を増している。

        

 屋山では印象に残ったことが一つある。深いカヤをかきわけ頂上を目指している時、上部より「こんにちは−」と快活そうな女性の声・・・こんな名も無き薮山で、よもや人に会うはずはなかろうと思っていただけに(本当はこのような味わい深い山だからこそ地道に着実に登り続けている人々の居ることを知らなかっただけなのだが)びっくりさせられたが、聞けば、福岡市に在住されており福岡近辺のみならず各地の山といで湯を訪ね歩いている柴田ツネ子さんという御仁であった。

 古いいわくの有りそうな地図を片手に単独での名も無き低山歩き、もっぱら自分の足だけを頼りに精力的に山といで湯の旅を続けられている。これはまさしく女流版クマさん、いやおゆぴにすとだ(この時点では、山のいで湯愛好会のなかでもおゆぴにずむの思想的基盤が確立されてはいなかったわけだが)。私の家族と一諸に記念写真を撮ったのが縁で、それ以来のおつきあいとなっている。彼女はまた、我が会の機関誌「おゆぴにすと」の熱心な愛読者であり”おゆぴにずむ”の精神が通じる数少ない一人でもある。日本100名山を目指し、またこの大分の山にも足繁く出掛けられ既に大分100山の大半を登られたという。屋山以来もう3年、大分100山全山登頂の日も近いのではなかろうか。無事な山旅を願うばかりである。(昭和58年1月15日の山行)

田原山
 「昔は良かった」という言葉は必ずしも年寄りの言う言葉とは限らない。山に関していえば多少の不便さを除き何をやっても初登はんであった頃や、自然破壊の無いありのままの自然を満喫できた頃の時代の人々が羨ましくもある。国東の山に関しては昔と少しも変わらないのかと思ったらそうでもない。登高会の先輩三浦氏の次の一文に魅せられて田原山登山を思い立った。少し引用が長くなるが、

 「この山に登るには立石駅下車、駅前から田染経由高田行きのバスに乗るのが便利。その時が春であるならば、通り過ぎる民家の庭先にボケの花をみるであろうし、菜の花の黄色の美しさにひかれるであろう。もし秋ならば耶馬渓をおもわせる岩はだの紅葉に目をみはるであろう。平野停留所でバスをおりて熊野磨崖仏への道を行く。鳥居をくぐって集落を通り、そのはずれに今熊山胎蔵寺がある。ここに少し寄り道をしよう。そして寺宝の弥陀三尊仏を観よう。話好きの住職がこころよく観せてくれるだろう。・・・以下略」と、登高第5号”ふるさとの山・6”(昭和41年)で三浦氏は記述している。

        

 20年近くも前に書かれ、国東地方の素朴さがにじみ出たようなこの文章に引かれ、例によっての家族登山となった。

 登山口の熊野磨崖仏は「仏の里」ブームに乗って広い駐車場ができ観光客でざわついている。否応無く参観料を支払っての入山となる。そこにはもうあの話好きの住職などとても居そうにない。最後まで素朴さが残っていると信じていたこの国東地方も例外ではなかったのか・‥「昔(の人)は良かった」と、つくづく感じるのはこんな時だ。

 さて、鬼が一夜で築いたという急な石段を登ると左手の明るい岩肌にひときわ大きな磨崖仏、不動明王と大日如来が見えてきた。これより上は誰がつけたのか黄色い布切れに導かれるようにして、明るく展望の優れた小岩峰の上に出た。ここまでは胎蔵寺より約40分。これより先は若干の岩登りの箇所もあり、子供には無理。不安そうな3人を残していくつもの岩峰を直登したり捲いたりすること30分で「八方岳」と書かれたピークに着く。更にそこよりナイフエッジを注意深く歩き最後の岩峰となる。山香側は70−80m程切れ落ちている。国道10号線山香町広瀬付近より幾度となく眺めたあの“のこぎり山”、その象徴のような岩峰の頂にやっと立つことができた。最初の小岩峰に残してきた3人に大声で合図を交す。

 田原山はのこぎりの様な岩峰のその上を道が通っているので、のこぎりの刃を忠実に辿れば迷うことはない。登山口は豊後高田市熊野のほか、山香町妙善坊、柚之迫などがある。登路の大半が薮や雑木のなかという国東の山々にあって終始360度の展望を楽しみながらちょっぴり岩登りのスリルが味わえる山である。(昭和58年10月30日の山行) (つづく)
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