
佐田の名所
反射炉跡
幕末、佐田神社境内には民間実業家賀来惟熊により反射炉が建設されました。
安政2年(1855)から慶応2年(1866)までの間、佐田神社境内で稼働していた反射炉がいったいどこにあったのか。
その正確な位置が特定されたのは、2011年1月のことでした。地中レーダー探査の結果、神楽殿周辺、反射炉の記念碑南側に東西15メートル、南北10メートルにわたって埋設物が確認さています。
幕府の資金援助や技術供与を受けることも無く、民間で初めて建造された反射炉は、炉の完成から2年あまりの間に6ポンド砲4門、12ポンド砲2門、18ポンド砲2門の鋳造を成し遂げたと言われています。
また佐田で鋳造された大砲は、島原藩のみならず佐伯藩や日出藩にも配備され、賀来家の大砲鋳造技術は遠く鳥取藩まで伝えられました。
しかし慶応2年(1866)、惟熊は、佐田の反射炉を取り壊します。佐田に残されていた大砲もすべて鋳つぶしました。反射炉の耐火煉瓦は塀の材に転用され、現存の「耐火煉瓦塀」となりました。
第2次長州出兵など豊前地方全域が政情不安な時期であったため、政局争いに巻き込まれないために反射炉を取り壊す決断をしたと考えられています。
一実業家の情熱によって、諸藩に先駆けて築き上げられた「佐田の反射炉」。現在その遺構は、佐田神社の境内の地中深くに眠っています。
安政2年(1855)から慶応2年(1866)までの間、佐田神社境内で稼働していた反射炉がいったいどこにあったのか。
その正確な位置が特定されたのは、2011年1月のことでした。地中レーダー探査の結果、神楽殿周辺、反射炉の記念碑南側に東西15メートル、南北10メートルにわたって埋設物が確認さています。
幕府の資金援助や技術供与を受けることも無く、民間で初めて建造された反射炉は、炉の完成から2年あまりの間に6ポンド砲4門、12ポンド砲2門、18ポンド砲2門の鋳造を成し遂げたと言われています。
また佐田で鋳造された大砲は、島原藩のみならず佐伯藩や日出藩にも配備され、賀来家の大砲鋳造技術は遠く鳥取藩まで伝えられました。
しかし慶応2年(1866)、惟熊は、佐田の反射炉を取り壊します。佐田に残されていた大砲もすべて鋳つぶしました。反射炉の耐火煉瓦は塀の材に転用され、現存の「耐火煉瓦塀」となりました。
第2次長州出兵など豊前地方全域が政情不安な時期であったため、政局争いに巻き込まれないために反射炉を取り壊す決断をしたと考えられています。
一実業家の情熱によって、諸藩に先駆けて築き上げられた「佐田の反射炉」。現在その遺構は、佐田神社の境内の地中深くに眠っています。
- [参考文献]大分県立歴史博物館(2009)『おおいた発!幕末文化維新-賀来家・華麗なる一族-』
- [参考文献]安心院町身心すこやか事業推進委員会(1988)『ふるさと佐田』
反射炉碑
反射炉があったとされる境内