佐田の名所

耐火煉瓦塀


 キーワード: 史跡, 幕末
 幕末、佐田神社境内には民間実業家の賀来惟熊により反射炉が建設されました。
 その反射炉に使われていた「耐火煉瓦」でできた塀が、佐田神社本殿裏に築かれています。

 嘉永6年(1853)、島原藩から大砲鋳造に取り組む許可を得た惟熊の前にまず立ちはだかったのは、「耐火煉瓦の製造」でした。
 島原藩は惟熊に対し、大砲鋳造に取り組む許可こそ与えていましたが、資金援助や技術供与は一切行っていませんでした。そこで惟熊は、賀来一族の財力知力を結集し、大砲鋳造に取り組みます。

 金属を溶かす熱を生み出すため欠かすことができない耐火煉瓦は、苦心の末、佐田村の字中村で得られた陶土に、砂と石灰を混ぜた三和土を焼成して造られました。
 そして安政2年(1855)、この耐火煉瓦を用いて、ようやく1基(1炉)の反射炉が完成。第28代薩摩藩主島津斉彬が薩摩藩初の反射炉を完成させたのが、2年後の安政4年(1857)のことでした。

 慶応2年(1866)、佐田神社境内の反射炉が取り壊されます。耐火煉瓦は塀の材に転用され、現存の「耐火煉瓦塀」となりました。
 この耐火煉瓦の表面は溶けており、かなりの高温にさらされていたことがうかがえます。
 また、佐田神社境内で採取された鉄滓の一部は、安心院文化会館入口でも見ることができます。  


  • [参考文献]大分県立歴史博物館(2009)『おおいた発!幕末文化維新-賀来家・華麗なる一族-』
  • [参考文献]安心院町身心すこやか事業推進委員会(1988)『ふるさと佐田』
  •  先人の労苦を積み上げた耐火煉瓦塀 
  •  反射炉の底の鉱滓(安心院文化会館)