王子の浮かれ奮闘記3

 ベルフェゴールが振り返れば、シャワー室から遠慮がちにこちらを見ているがいて、その目は気遣わしそうに瞬きを繰り返していた。
「あの、どうしたの? 大きな声聞こえたけど」
「なんでもないから、はもうちょっとそこにいて」
 ベルフェゴールはとっさに上手い言い訳が思いつかず、とりあえずにスクアーロを見せないようにを引っ込めようとするが、そんな一言で引っ込む人間は少ない。の視線はベルフェゴールの体へと向けられ、そのままベルフェゴールが対峙しているスクアーロへと移動した。
 素早くを抱えて視界を覆っても良いのだが、ベルフェゴールがそれを思いついたときにはすでに、とスクアーロの視線が絡んでしまっていた。
 あ、と小さく口を開けてがスクアーロの存在に気づくのと、怪訝そうにを見定めていたスクアーロの目が軽く見開かれるのは同時で、それを悟ったベルフェゴールは素早くスクアーロに足払いを駆けると、それを避けて飛び上がったスクアーロには目もくれずにを掻き抱く。
「っ」
「見なくていい」
 そしてそのまましっかりと片腕での頭をベルフェゴール自身の胸に押し付け、もう片腕ではが逃げ出さないように腰に回して、しっかりと抱きしめ身動きを封じる。
 こんな風に体を使って誰かを止めることなどなかったベルフェゴールは、あっさりとの抵抗と視界を封じられたことに安堵の息を吐き、驚きの為か固まっているの上でしばしスクアーロの存在を忘れた。
 一方、突然の出来事に声を上げようとしただったが、ベルフェゴールの声が思っていた以上に落ち着きを持っていたことと、抱きしめてくるその体から特にもろもろ含めての危ない雰囲気を感じなかったため、素人判断ながら大人しく動きを止める。
 反射的に持ち上がった両腕はどうしようかと、ベルフェゴールの背中に回すべきか、それとも離してと言って暴れたほうがいいのかしばし迷ったが、ベルフェゴールが腕を放す気がなさよう様子に、ぶらりと大人しく下げられた。
 そして置いてけぼりのスクアーロは、先ほどまでのベルフェゴールの態度に怒りを続行させて良いものか、それとも目の前の女のことに言及すればよいのか、さらには現在二人が抱き合っていることをつつけばよいのか判断に迷い、出す言葉を選んで沈黙となっていた。
 しばし誰も口を利かない時間が流れたが、多少居心地の悪い空気にが思い切って声を上げる。
「あの」
「おい」
 けれど同じ気持ちだったのか、同じタイミングで上げられた声には驚きで口の動きを止め、声が同調したスクアーロもそのタイミングに多少眉をしかめ、を抱きしめていたベルフェゴールは苛立ちもあらわに、首だけでスクアーロを振り返った。
「なんでお前とハモってんだよ。空気読めよ!」
「好きでハモったんじゃねぇ! ……さっきからなにイラついてんだ」
 噛み付くようにベルフェゴールが怒鳴りつけ、反射的といっていいほど素早くスクアーロは言い返すが、ベルフェゴールが振り返ったことにより見えたの視線に、髪をかき上げて頭をがりがり掻きながら気を落ち着ける素振りを見せる。そして多少乱暴な口調ながら、ベルフェゴールの苛々具合を怪訝そうに指摘した。
 正直面倒くさいとスクアーロの顔には書かれていたが、それを読めたのは実は一番落ち着いているだろうだけだったらしく、ベルフェゴールはを抱きしめる腕を強くしてスクアーロをあしらった。
「べっつにー? お前がいなくなりゃ、なんの問題もないんだけど?」
「……ベルフェゴールくん」
 咎める口調でがベルフェゴールを軽く睨むと、ベルフェゴールはふてくされた様に顔をゆがめてを見下ろす。
 抱きしめた腕の力をほんの少し抜いて、の顔を覗き込みながらぶつぶつと不満をあらわにした。
「だってあいつが悪い」
「ベルフェゴールくんは、態度も口も悪い」
 そんな風に言っちゃ駄目でしょうが。
 遠慮なく片手でベルフェゴールの鼻をつまむと、はうりうりと言いながら鼻を揺らす。嫌がってベルフェゴールはの手を掴んで止めさせるが、本気で怒っていない分拗ねた口調で唇を尖らせた。
「今日のために、あれこれ手回ししてたんだぜ」
 子供っぽいその言葉と言い方に思わずは吹き出しそうになるが堪え、拗ねただけではなくどこか落ち込んだように俯いたその顔に、柔らかい口調で口を開いた。
「ありがとう」
 その気持ちは本当に嬉しいのだと伝わるように、は前髪で覆われたベルフェゴールの目を見上げる。
 けれどそれくらいではベルフェゴールの機嫌が直るはずもなく、ベルフェゴールから近づいた額が軽い音を立てて合わさる。至近距離で多少は慌てたが、そのまま子供のような態度で拗ねるベルフェゴールに苦笑を浮かべた。
「スクアーロの馬鹿の所為で台無しだ」
「お疲れ様」
 それは何か違うんじゃないかと思うのだが、下準備に対してねぎらっておく。
 だが名前を出された本人はやはり納得が出来ないらしく、が耳を塞ぐ前に大声が響いてきた。
「責任転換してんじゃねぇぞぉ゛ぉ゛お゛お゛お゛!!」
 怒りをあらわにしていると言うより、この状況に苛立っていることの方が要因のような、どこか切ない怒鳴り声にはベルフェゴール越しにスクアーロを見る。ベルフェゴールは額が離れたことにより顔をしかめたが、それなりに機嫌が直ってきているのか文句は言わず、と同じようにスクアーロを振り返った。
 怒髪天を突くとはこのことかと、どこか長い髪の毛が静電気を帯びたように揺らいでいるように見えるスクアーロの表情は、まさしくメンチを切っているだとかガン飛ばしだとか言うもので、細められた目と歪んだ表情に思わずは動きを止めた。
 素人には心臓に悪い怒り顔で、美形な分さらにの恐怖を煽った。
「……?」
 だが、はたとは気づいて恐怖を忘れた。
 良く考えなくても、今聞いた言葉尻と目の前の顔に見覚えがあると気づき、思わずスクアーロとベルフェゴールの顔を交互に見る。交わされた会話も多少なりとも思い起こしてみて、それと同時にすぐに気づかなかったことに衝撃を受けた。
 どこをどう見ても聞いても、漫画に載っていたスクアーロそのものではないか。
 ベルフェゴールに引き続き、ザンザスっぽい方の前にスクアーロとはなんのフラグが立ってんだおい、などと内心は遠い目をしながら突っ込みを入れていたが、それまでの百面相はしっかりとスクアーロにもベルフェゴールにも目撃されていた。
「……」
「……」
 ベルフェゴールは気づいてしまったらしいの様子に、スクアーロをどうしてくれようかと怒りを改めてたぎらせ始めるが、スクアーロはベルフェゴールの腕の中で人の顔を改めて見た途端百面相を始めた女に、どう反応していいか分からなかった。
 間に入れそうなベルフェゴールは、さきほどからスクアーロを睨みつけるばかりで役に立たない。
 とりあえず何も理由なく部屋にいるわけではないスクアーロは、そちらを優先させようと疑問やらなんやらを一時保留とした。
 そのまま視線をからベルフェゴールへとスライドさせ、睨みつけられているのも無視して口を開く。
「ボスが任務だとよ。さっさと行ったほうがいいぜぇ?」
 一瞬きょとんとばかりに幼い動作で動きを止めたベルフェゴールは、次の瞬間憎々しげに口の端をゆがめ、耳障りな人を馬鹿にしきった声を上げた。
「はぁ? なにそれ、ゆーきゅー許可されたはずなんだけど?」
 お前の聞き間違いなんじゃねーのとばかりに肩をすくめたベルフェゴールは、スクアーロを無視しての肩を揺らして正気に戻そうとし始める。
「ええー……」
 けれど揺すられているは、スクアーロとベルフェゴールの顔を交互に見続け引きつった笑みを浮かべ、中々正気に返らない。
 それに慣れているのかなんなのか、スクアーロには区別が付かないがベルフェゴールは根気良くの名前を呼び、肩を揺らし続ける。その動きは乱暴ではないが、常人ならば酔いが出始める程度には回数が多い。
「……ボスにどやされてもしらねぇぞぉ」
 とりあえずなにか言わなければとスクアーロがベルフェゴールを急かせば、ようやく正気に戻ったが勢い良くベルフェゴールへと視線を向けた。
 その目はしっかりとベルフェゴールを見つめ、その表情は真剣みの溢れたものだった。
 驚き動きを止めたベルフェゴールに、は先ほどまでの呆け振りが嘘のようにはっきりとした声で告げる。
「ベルフェゴールくん、お仕事はしなきゃ。有給が潰れることなんて、悲しいかな良くあることだし、帰ってきたらマッサージでもしてあげるから。私ならこの部屋で待ってるから、心配しないで」
 早口で、けれどしっかりとその言葉を真正面から口にしたは、今度は自分から力強くベルフェゴールの肩を掴むと、本当に心底そう思っているのがその場の二人に伝わるほど、ゆっくりとした口調で諭した。
「仕事は、あるうちが華よ」
 仕事関係でなんかあったのか、お前。
 思わずスクアーロが突っ込みそうになるが、当のベルフェゴールは不満そうな声を上げながらも渋々頷いていた。
「すぐ終わらせてくるから、部屋から出んなよ」
「人様のおうちを勝手に探検するほど、私は無作法者じゃありません」
 ベルフェゴールの言い草にはどこか呆れながらその頭を撫でる。さらりとした髪の感触に笑みを浮かべ、いってらっしゃいと言葉でベルフェゴールの背中を押した。
 どこか釈然としたい雰囲気ながら歩き出そうとしたベルフェゴールは、忘れていたとばかりにスクアーロを振り返る。
 スクアーロがなんだとばかりに首を傾けると、先ほどとは違いいつものように唇の端を引き上げ、にんまりと笑うベルフェゴールの表情とぶつかった。
 そのままベルフェゴールはスクアーロへと歩いていき、服が擦れ合うほど近くまで寄ると、に聞こえないようにと分かるほど小さな囁く声で告げる。
に手ぇ出したら、切り刻むかんな」
 なんの話だとスクアーロが眉間に皺を寄せるのも構わず、ベルフェゴールはその一言を告げて気が済んだのか、軽い足取りでの傍まで戻ると、じっと二人を見つめていたその丸い目を見て笑う。
「んじゃ、しかたねぇから行ってくる」
 どこか気だるそうな言い方に、は励ますように笑みを浮かべて拳を握る。
「頑張ってね」
「ん」
 そしていつも別れるように、ベルフェゴールが背を向ける動作を見守ろうとしたは首をかしげた。
「……」
「……」
 ベルフェゴールはを見つめたまま、動かない。何か言いたいことでもあるのかとが見守っていると、ベルフェゴールは何を思いついたのか、先ほどスクアーロに見せたようなにんまり笑顔をに近づけてきた。
「へ?」
 が近づいてくるその顔を見つめ、きれいだなぁとのん気に呆然としていると、部屋に響いたのは軽いリップ音。
 そしてベルフェゴールの満足げな笑みがの視界いっぱいに広がり、その笑みのままベルフェゴールはに背を向けて扉へと歩いていった。
「え、あ、は?」
 混乱のままとりあえず感触のあった左頬をは押さえてみるが、手に何か伝わってくるでもなく混乱は収まらない。
 スクアーロは目を丸くして目の前の光景を見つめていたが、何か口にする言葉が出てくるわけも無かった。
 そんな二人を尻目に、ご機嫌になったベルフェゴールはドアをくぐりながら軽く振り返る。
、いってきます」
「……いって、らっしゃい……」
 呆然としたままがとりあえず返事をすると、ベルフェゴールはひらひらと片手を振ってドアの向こうに消えていく。
 ぱたんと、意外に大人しく閉められた扉を見つめながら、とスクアーロの心は初対面でありながら、見事にひとつとなっていた。
(今、何が起こった?)
 思わず背後にいるスクアーロを振り返ったと、その動きに気づいてを見たスクアーロの視線はすぐに交差し、互いの不可解さを目と目で通じ合わせる結果となった。
(あ、きっと同じこと考えてる)
(なんか似たようなこと考えてやがんな)
 その後、しばし心通じ目を合わせたはいいものの、身動きが取れなくなった二人が解凍されたのは、体感時間三十分、実質二分半後のことだった。
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