王子のいない間
「ええ……と」
口火を切ったのは。けれど何を言えばいいのか分からずに口ごもり、じっと見詰め合っていたスクアーロの顔色を窺うが、その顔色から特に悪意や嫌悪などが見つからないと結論付けると、軽く頭を下げた。
「ベルフェゴールくんの友人の、と言います。一週間、ベルフェゴールくんのこの部屋で宿泊させていただく予定になっています。……どうぞよろしくお願いします」
ちらりと一度スクアーロの顔を見て、よろしくお願いますで改めて深々と頭を下げる。
最初の会話での印象って大事だよねと、は背筋を伸ばして自分が一番綺麗だと思うフォームで挨拶を完遂した。再び顔を上げて目を合わせたスクアーロの顔は、口を軽くあけて目も見開かれていて、まさに呆気に取られている間抜け顔。
美形は間抜けと言われる表情でも可愛いから、なんかずるいわぁとおばさんくさい感想を持ちながら、はにっこりと心して笑顔を浮かべる。
友人の友人に、それも初対面の人間に大半の人間は嫌われたくないものだ。
しかも、それが愛読書のひとつである漫画の登場人物にそっくりな人間であるならば、なおさら。
……すでに本人だと断定したほうが素直だと自身分かってはいるのだが、とりあえず目の前の長髪男性を漫画の某鮫と認識することは放棄した。認めない。ただの規格外の美形男性だと強く自分自身に念じる。
それはそれで驚きだろうと言うのも頭の隅で分かっていながら、は軽く首をかしげた。
「先ほどはばたばたと申し訳ありませんでした。ここはベルフェゴールくんの部屋ですけど、お時間有りましたら少し休まれていきますか?」
にこやかにと心がけ、は社交辞令のような本心のような誘い文句を口にする。口にした後で、初対面の人間が言うとなんだか逆ナンパっぽいよねと気づいたが、そこはあえて流してみる。
スクアーロは呆然とした表情のまま、の顔を凝視している。
慣れないことはするもんじゃないと、が痛感する数秒の間。
不意に流れる空気が優しくなり、スクアーロの表情が柔らかくくつろぐ。笑みと言うよりは、どこか脱力した表情だったが、としては肩の力が抜けるほど穏やかな表情だった。
「……変な女だなぁ」
ぽつりと漏らしてしまった心情だと、初対面のでも分かる砕けた口調。思わずぽかんとばかりに口を開きそうになり、慌てて表情を笑みの形に引き締める。
けれどそれも不自然なものだったらしく、スクアーロが軽く吹き出した。
「……人の顔を見て、吹き出すのはどうかと思うのですが」
少々ぎこちなく指摘するが、の内心は美形の吹き出し笑顔ゲットと思わず握りこぶしを掲げていた。最近美形づいている、多分一週間後には死んでいるかもしれないなと悟った気持ちながらも、喜びの気持ちは高まった。
スクアーロはしばし笑っていたが、口元を手の甲で押さえながらをまっすぐ見る。
目元が柔らかく笑みの形になっていた所為で、油断していたは一瞬胸の高鳴りを覚えた。が、すぐに美形の微笑ゲットと内心叫んでしまう。けれど、またすぐに生きていて良かった美形の笑顔マジ癒しなどと根本的な喜びを湧かせて、もうなにがなにやら分からなくなりそうだった。
ベルフェゴールくんは目元が見えないから、美形のこんな笑顔は本当に貴重だ。
そう思うと視線がスクアーロから離せず、スクアーロも微笑のままから視線をそらさない。
「……あいつの友人、なぁ?」
どこかからかうような、面白がるような響きを持ったその言葉は、を馬鹿にすることなく楽しそうに空中で霧散した。
スクアーロの脳裏には、衝撃ですっぽりと忘れていたシーンが甦っていた。
部屋を出て行く前に行われた、ベルフェゴールとの一部始終。
ベルフェゴールが誰かの頬に口付けるだなんて、なにか重い病気に掛かったと思いたいものだが、実際目の前でキスをされたはきょとんとばかりに目を丸くしている程度で、ベルフェゴールを心配している素振りもない。
多少動揺している様子からは恋人の雰囲気もなかったが、ベルフェゴールのあの様子から友人以上であることは確かだろう。しかもスクアーロに見せ付ける意図もあったような気がして、スクアーロは笑い出したいような頭を抱えたいような、とにかく己の不運具合を呪った。ザンザスに物を投げつけられた部分も痛い。
「あ、ちょっと失礼します」
つらつら考えていたスクアーロが、自身の後頭部を思わず押さえて数秒。
は何を思い出したのか、少し焦ったような声音でスクアーロの目の前から姿を消した。
と言っても、スクアーロが少し視線を向ければ見えるような位置で、何かを探す素振りを見せている。
「……」
スクアーロは大人しくその様子を観察する。
何かを隠しているような素振りもなければ、スクアーロと出し抜こうと油断を誘う動作でもない。
記憶を掘り返して首をかしげて、そして何かを探しているようなその動作からは、俊敏などという言葉は欠片たりとも連想できない。
「あ、あった」
そのうち、嬉しそうな声が上がる。
落としていたジャケットらしきそれは、スクアーロにとって見覚えのあるもので、ベルフェゴールのそれだとすぐに見当が付いた。借りていたのかなんなのか、そういえば目があったときに取り落としていたかと、スクアーロも思い返してみる。
はそんなスクアーロの視線に気づかないまま、ベルフェゴールに無理やり巻きつけられていた上着を軽く揺らす。埃一つ見えない部屋なので汚れたりはしないだろうが、一応。
そして改めて上着をしげしげと見つめ、やっぱりどっかの切り裂き王子な上着だなぁと、本当にいまさらな感想を胸中で漏らす。現在はベルフェゴールの口から、彼の正式な職業を聴いてはいない。ので、一応切り裂き王子とは断定しないようにしているのだが、名前といい容姿といいしゃべり方といい……。
そこまで考えると、は何の気なしにスクアーロを振り返る。
お互いの視線が音を立てるほどしっかりぶつかり合うが、特に気まずさは生まれず。
「……」
「……」
片や平凡な一般人。
片や目つきも口調も悪い長身男性。
けれどお互い、やっぱり生まれない気まずさに同時に首を傾げてしまう。
「……」
「……」
気が合うなぁとお互いに思いつつ、見詰め合うこと数秒。
第三者がいれば突っ込みを入れられただろうその空間は、やっぱり気まずい空気など生まれず。
「……まぁ、どうぞ」
「……ん」
がソファを勧め、スクアーロが大人しく座ることでゆったりと時間が動き出した。
「……」
「……」
あれ、なんでこんなに息苦しくないんだろうと二人とも思いながらも、一言も口には出さず。
は緊張感が消えたことを不思議に思いつつ、ベルフェゴールの上着を軽くたたんで椅子に引っ掛けて置き、先ほど説明されたように飲み物を作りに動く。
スクアーロはの雰囲気が自分に近いところまで緩んでいることを肌で感じ、自身の緩みにはてと首を傾げた。
「あの」
「おい」
再び同時に口を開き、振り返ったと顔を上げたスクアーロの視線が交差する。
「……紅茶とコーヒー、もしくはミネラルウォーターのどれになさいますか?」
「……あ゛ー……、水でいいぞぉ」
「了解です」
冷蔵庫に見えないインテリアとして申し分のない冷蔵庫を開き、はラベルのイタリア語なんて読めねぇよと思いつつも、ミネラルウォーターを迷わず手に取る。未開封のそれを、もしかして自分の為に用意されたのではないかとふと気づく。
「……」
ベルフェゴールくん、可愛いじゃないか。
思いつつも呟いたらただの変態だと自覚はあったので、は声を出さず冷蔵庫を静かに閉めた。
適当にグラスとか借りようと視線をめぐらし、お上品な食器類がいくつか目に入りしばし悶絶しそうになるが、一番シンプルで飾りのないガラス製品へと手を伸ばす。
「……どれも新品に見えるのは、気のせいですか」
とうとう押さえきれずが呟くと、スクアーロの方から不思議そうな雰囲気を感じ取った。
が何に対して呟いたか、理由が判らないスクアーロは首を傾げるが、はスクアーロの反応より目に見えてお泊り準備を張り切っちゃったベルフェゴールの『行動の結果』を目の当たりにしてしまい、だからあそこまで拗ねていたのかと合点がいく。
頭を抱えて悶絶するほど可愛らしいベルフェゴールの行動に、は大人の理性をフル稼働させて笑みを浮かべるだけにとどめ、スクアーロの為にグラスを手に取る。
そういえば自分もなんだか喉が渇いた気がする、とふと自身の状態に気づいたは、ついでに自分の分のグラスも手に取った。
「ご相伴しても?」
「いいぞぉ」
グラスを二つ持って何の気なしに振り返ると、スクアーロも特に違和感など覚えず普通の返答をする。
「……」
「……」
なんでこんなに普通なのか、お互いがお互いの状態に首をかしげながらもはスクアーロの向かいのソファに腰掛け、スクアーロも拒絶する空気を一切出さず、テーブルに置かれたグラスを受け取った。
「あ、注ぎます」
「ん」
がグラスを受け取ろうと手を伸ばすが、スクアーロはグラスの口をに向けるだけで手を離さない。
なんだこいつ漫画で読んだときより親しみやすいじゃないか、いやいや漫画の登場人物に劇的に似ているだけで多分赤の他人だから、ただの美形のお兄さんだから落ち着けひっひっふーごめん格好良いですね。
正常な精神を再度乱され、は根性を入れて必死ににやけて崩れそうな表情を引き締め、ただの笑顔に見えるように苦心した。
ペットボトルから注いでいる間も、スクアーロは特に何をするでなくペットボトルとの手を見つめ、はときめきのあまりこぼさないようひたすらグラスに注ぐ配分に気を配っていた。
その空気が伝わらないスクアーロではなく、また緊張してきたのかとの顔を見るが、水を注ぎ終わったの表情はどこか安堵したものに変わっていて、スクアーロの視線に気づくと首をかしげながら自分のグラスにも水を注ぎだす。
「なんでしょう」
「……いや、なんでもねぇぞぉ」
その間が怖いんですけどぉぉおお! などとが内心絶叫し、気づかぬうちに水をはねさせたりしたのかと戦々恐々とし始めるが、スクアーロは再びゆれるの気配に単純な思考を読み取った。
ああ、今更怯えてんのか。
さほど間違っていない推測。けれどそれを口にはせず、スクアーロもも何を言うでもなくグラスの水を口にする。
「……」
「……」
今度の沈黙は重く、少し気まずい。
どちらともなくため息を吐き出すと、再び音がなるほど二人の視線がかち合う。
あ、同じことを考えているのだと何度目かのシンクロをした二人は、小さく吹き出して肩を揺らした。
「もっ、いまさら……っ」
「くっ、はははっ」
二人とも堪えきれない楽しさに笑う。
一瞬の脳裏には頭がパイナップル風味の少年の姿が浮かんだが、それがますます笑いをあおる。
クハハって! クハハって……!
は今更に緊張した自身がおかしくて、スクアーロもそれに勘付いたはいいが指摘できなかったスクアーロ自身がおかしくて。
二人ともしばし笑いの渦に落ち続けた。