08.想定範囲内の偶然
部屋にもどってきたを待っていたのは、放心状態から復活した政宗。ではなく。
「おかえりなさい、」
「っ」
明るい声に、小十郎は息を呑む。信じられないと目を見開き、目の前の人物を凝視する。
けれど、反対にはきょとんと丸くしたはずの目を、疑問符を浮かべたはずの目を、徐々に喜び色へと輝かせていった。
まるで何か塗り替えられていくかのごとく、の感情は喜びを笑顔と言う形へと昇華させた。
「喜多姉ちゃん、え、嘘、どうしたの?!」
瞬きを繰り返して戸惑いをあらわにしているが、小十郎の着物を握りそれを揺らす動作は、まるで童のようで幼い。小十郎に興奮と催促を伝えるその仕種に、早くおろせと急かされているのが伝わる。小十郎の顔を見もしないで、喜多の顔ばかり笑顔で見ているは、小十郎が渋い顔をしていることに気づかない。喜多はそんな小十郎の態度に反応すら返さず、へ余所行きの笑みを浮かべて見せていた。
喜多はしっかりと布団の傍らにて正座をし、背筋を伸ばしてと小十郎に視線を向けている。凛々しく、それで居て美しいそれは小十郎からしてみれば威嚇も威嚇。小娘なんぞ捻り潰してくれるわと、言外に宣戦布告されているようなもの。
「小十郎さん、降ろしてください」
ひとしきり興奮したのか、は揺れるのをやめて小十郎を見上げていた。嬉しいと目を見ても顔を見ても分かる喜びように、小十郎はため息を吐いて抱きかかえたままを布団の上へと降ろしてやった。
よろめきながらもしっかりと布団の上に座ろうとするに、喜多は寝ていなさいと優しく声をかける。
童のように笑っていたは、首を横に振って背筋を正して正座をした。喜多に真正面から向かい合い、もう一度喜多がたしなめようと口を開くと同時に笑った。
「喜多姉ちゃんがそんな風に怒ってるのに、寝ていられないよ」
「っ」
「……」
小十郎が浅く息を呑む、喜多がその目を細める。
そんな二人にもは悪戯っぽく笑うだけで、体調不良のためかいつの間にか震える手足は治まらないが、その背はしっかり伸びたまま。
先ほどまで小十郎の前で、厠へ連れて行けと騒いだ童はここには居らず。
先ほどまで小十郎の腕の中、喜多の登場に目を輝かせていた女童はどこにも居らず。
「私が原因だよね。喜多姉ちゃん」
堂々と発言し、甘んじて喜多の言葉を受けるつもりなのだろう静かな様子に、小十郎は瞬きをする。
目が覚めてからのは、小十郎を驚かせてばかりだ。
そんな小十郎を尻目に、喜多は細めた目でを見極めようと観察をする。
寝ていたときの腑抜けた表情とは違い、しっかりとした意識を持って喜多を見つめるその目は、喜多の弟や主君の口にしていた【伊達家が長女、】と名乗る女の目。
人に世話されることを常としながらも、喜多たちの世界とは違う常識の中で生きてきた者の目。
本人が意識しているのかはさて置いても、喜多を見る目は【自らの姉】と慕っていながらも、【主家と仕える者】との線引きをしっかりと認識していた。されど、己がその者になにか失態を叱られるのだと言う認識も持ち合わせており、それを受け止める準備をしているのだとその目は語っていた。
仕える者と、それの上に立つもの。だからこその線引きと立ち向かわなければならない責任、さらに同性であることで指摘される些細なことすら意識しているその目。
「……気づいて、いただけているのですね」
自然と喜多は言葉を口にしていた。はしっかりと喜多の目を受け止めて、ぐらつく頭をこらえるかのように浅く頷く。その表情は揺るがず笑顔。
喜多も自然と笑んでいた。
小十郎が再度、息を呑む。
「それはようございました。……ならば、私が次に言う言葉も分かっていますね?」
「はい。……布団にまずは横になります」
「よろしい。小十郎、ぼうっとしていないで、手伝いなさい」
が弱ったように笑いながらも身体を傾けると、喜多がすかさず小十郎にきつめの口調で言葉を飛ばす。何度目かの衝撃に呆然としていた小十郎は、姉のきつい言葉と視線に顔をしかめながらもの身体を即座に抱え、布団の上にゆっくりと寝かしてやる。
ありがとうとまたふにゃりと力の抜ける顔で笑いかけるに、苦虫を噛み潰した顔で思わず睨んでしまった小十郎だが、喜多が間髪入れず弟の後頭部を叩いた。
「っ!?」
「病人になんて顔を向けるんですか、この愚弟は。……、何か欲しいものはありませんか?」
「あははっ、喜多姉ちゃんひっどい容赦ないよねぇ。んー……」
寝るのはもう、飽きたくらいかなぁ。
ふにゃふにゃの顔を少しだけ困ったように変化させるが、は小十郎と喜多を嬉しそうに見つめて囁いた。
そんなの顔を見つめる姉弟は、こんなやり取りを別世界の小十郎や喜多もしていたのだと思うと、ほっとしたような苦いものを噛んでしまったかのような、なんとも複雑な心中。けれど、が最初から最後まで信頼し安堵し続けているのは、精神衛生上好ましいので突っ込みたいが突っ込めない。
寝飽きたという言葉は、本人が言う以上に納得してしまうし。本人は数ヶ月以上も眠っていただなんて、きっと知らないからこその言葉だろうと分かる雰囲気は、ただ寝込んで症状が軽くなった病人がよく言う言葉でしかなかった。
「でも、寝ていないと治らないわよ」
「はーい、大人しくしておきます」
「……政宗様が、また日暮れ前には顔を見に来られると思うから」
「あ、政宗忙しかったんだ? やっぱり?」
喜多が政宗をどう呼ぼうか逡巡しながらも、喜多の通常通り呼べばはそれに引っかかることもなく、納得顔で喜多に言葉を返す。
どういうことだと目で問えば、は困った顔をしながらも愛しい気持ちを隠さない声音で言葉を紡ぐ。
「私を抱き上げて抱きしめて放さなかったし、なんか不安なんだろうなーやなことでもあるのかなーって思ってたの。本当は忙しいのに、久々に意識手放すほどの体調不良になった私に、なんか言いたかったんだろうねぇ、本当は」
結局、特に何かを言われたわけじゃないけど、可愛い弟だよねぇ。
またふにゃりと笑みでほわほわふわふわな雰囲気を出したは、小十郎が掛ける布団から指先だけを出して布団の端を掴む。小十郎と目が合い、動揺しまいと強張る小十郎に、小さく笑い声をこぼしながら、喜多へと視線を向けなおした。
「喜多姉ちゃん、私、そんなに悪いのかな?」
その目は笑っていた。なんでもない言葉。けれど、その声に滲むものに気づかぬほど、喜多や小十郎は愚鈍ではなかった。
は、己の命数が残り少なくても笑っているのだろう目で、喜多へと笑いかけていた。
ぞくりと、喜多と小十郎の背筋が揃って粟立つ。
「何を言っているの。ただ長く意識が戻らなかった分、政宗様が心配されただけよ」
「なんだ。原因はなに?」
「それをこれから調べます。大人しくしてなさいな」
「はーい」
小十郎が怒鳴るより先に、喜多がまくし立てた言葉には笑った。ほっと安堵の息を吐いて、布団から出た指先はすばやく布団の中にもぐりこんだ。青白くしなびたその指先が、やはりどうしても震えているのを小十郎は視界の真ん中で見ていた。
「小十郎、貴方はについていなさい。政宗様から許可は頂いています」
「……分かりました」
喜多は何か思うところがあるのか、小十郎にそういいつけると億劫そうに瞬きをするの頭を撫でた。瞼を伏せて抵抗なく受け入れ、嬉しそうに頬を緩めるは全身の力を抜いて喜多の愛情を一心に受け止めようとしていた。小さな子供のようで、喜多は最初にを細めた目でみたときとは全く違う心境で、同じように目を細めてのその顔を見つめた。
幼い表情に被るのは、ただ一人。
立ち上がり退室しようとする喜多に、は礼をこぼした。喜多は一言でそれを受け取ると、小十郎へと目配せをする。
「、少し小十郎を連れて行きますが、すぐに戻します。小十郎がいれば寂しくありませんね?」
「んふふー、喜多姉ちゃん分かってるー。うん、小十郎さんが居ればさみしくないよ」
一瞬目を丸くしたは、もぞもぞ布団の中で身動ぎながら嬉しさに顔を緩める。ふにゃふにゃなその顔を、小十郎は何度見ただろうかと、やはり今回も目を奪われる。喜多はそんなを見て、小十郎を見て静かに退室をする。小十郎もに大人しく寝ておけと声を掛けて、慌てて退室していった。
ふふ、と小さく愉快そうに笑いこぼすの笑い声を背に受けながら、けれど小十郎は悪い気はしていなかった。
は、目を覚ましたときから本当に小十郎に絶対の信を置いている。
政宗たちには病を移したくないからと退室を促すくせに、小十郎には残って欲しいと言う。
小十郎の顔を見ると嬉しそうに表情を変える。
ためらいなく首に腕を回し、小十郎の腕の中で己の落ち着く場所を危なげなく探す。
幼い子供のように「こじゅろ」「こじゅう」と呼び、「小十郎さん」と笑いかける。
喜多の言葉に、小十郎が居れば寂しくないとてらいなく答える。
恥ずかしいほどまっすぐに見つめてきて、笑う女。
にとって『こじゅうろう』はそうして当たり前の立場の人間だと、小十郎も頭では分かっている。けれど慣れぬ人間からの慣れぬ態度に、どうしても戸惑う。それと同時に湧き上がる温かい気持ちも、否定できないでいる。
己が絆されてどうすると、自分を叱っても無意味なほど次々湧き上がる温かいそれ。
まるで煩悩を振り払うかのごとく小十郎が頭を振れば、いつの間にか歩き出した足の先で、喜多がすでに足を止めて振り返っていた。
「何をしているんです」
「いえ」
鋭い視線は、視線以上に声音から呆れを滲ませていた。
己の心中すら見透かされているのだと、小十郎は恥じる。喜多はそんな弟のうっすら染まった耳朶にため息を吐き、けれどゆるりと眉をしかめて弟を見た。
「あの女は、黒脛巾の報告では異世界の人間なのですね?」
「はい」
ざわりと、周囲に身を潜めている黒脛巾の者たちが空気を揺らす。
たとえ城内の奥まった廊下、さらに言えば忍びを常に配置し、通る人間すら厳選している場所とはいえ、外で話すことではない。その忠告と警戒の意味でわざと彼らがざわりと空気を揺らしたと、分かった小十郎は慌てた。自らの姉へ苦言をと口を開こうとした。
それを分かっていながら、喜多は言葉を続ける。
「あの者、政宗様の姉として存在するならば、それ以上に厄介ですよ」
「……は?」
呆けた小十郎の言葉に何を返すわけでもなく、喜多は続ける。
伸ばされた背筋は凛としていて、研ぎ澄まされた空気が周囲へと放たれていた。
「現在、政宗様にご正室様はいません。城の奥深くに匿い、行動を制限すれば一時は凌げるでしょう」
「姉上?」
「けれどいずれ政宗様もお世継ぎのため、婚姻を結ぶでしょう。その前段階で城を探られるのは必至。……さらに言えば、政宗様のあのご様子。……しばしあの者を手放さないでしょう」
「姉上」
「あの優しさは毒。政宗様はすでにその毒が回っています。本来ならばお前があの者の首を」
「姉上ッ!」
さきほどまでを優しくなだめ、頭を撫でていた女性と同一人物とは思えないほど、冷静にそのような言葉をつむぐ。
小十郎は頭では分かっていながらも、阿呆のように言葉を繰り返し、あまつさえ怒声を上げてしまっていた。
喜多の声は変わらず落ち着いていて、その面に揺らぎひとつも見られない。
「……小十郎、それほどを守ることは難しいのです。あの子が伊達の名を冠する限り、貴方たちは余計な荷物を背負うのです」
「余計な荷物などではございません! 政宗様のお心のためにも、今ひと時だけならば」
「小十郎」
「姉上も見られたはず。あの者自体は害となりませ」
「小十郎」
「……っ」
言い募ろうとする小十郎に、喜多が表情を崩して言葉柔らかく弟の名前を呼ぶ。
小十郎は自分の言葉の滑稽さに、姉の落ち着きなだめる声に唇を噛み締めた。
喜多はそんな弟を見つめながら、静かに言葉を口にしだした。
「私は、あの子を今すぐ排除せよとは言いません」
「けれどあの子の存在を許すとなると、貴方も政宗様も無用な苦労を背負い込むのは必至」
「そのうち記憶との齟齬にも気づかれ、貴方たちに不信感を覚えるかもしれません」
「第一、細かい生活の違いがあるのでしょう? 募っていくものですよ、違和感と言うものは」
喜多の言う事はもっともだ。
小十郎の冷静な思考は賛同の意を挙げている。
だがもう一方で、けれど、けれどと言い募る思考も存在していた。
ここ数年久しく見られなかった、子供のように駄々を捏ねる様相の小十郎に、喜多は隠さずにため息を吐き出した。
「少しして満足したなら、城から出しなさい。最初にしていたように、黒脛巾の元にいるのが一番お互いにとって安全でしょう」
小十郎の冷静な思考は、喜多の言葉にやはり賛同の意を挙げた。
何もなかったかのように元通りになるだけだと。
けれど言い募っていた思考部分が、箍が外れたかのように冷静な思考を押しのけた。
上げられた顔は喜多をしっかりと見据え、喜多は小十郎の表情にもう一度ため息を吐き出す。
「小十郎」
「政宗様をお諌めするのはこの小十郎の役目なれど、あの者に関しては今現在、何をお止めするのか解りかねます」
「解っていてその言葉を口にするのですね」
「姉上、政宗様の無邪気な希望です。さして害もない、子供のような我侭です」
「その我侭が何人の命を巻き込み、今後に影響するかも理解しているのでしょう」
「具合の思わしくない姉と、共に過ごしたい。無邪気な願いではありませんか」
「とぼけて……」
まるで普段と変わりないかのような、小十郎の穏やかな口調と言葉のないように、喜多は片手でそっと自分の額を押さえる。痛みをこらえるように眉間に皺を寄せるが、小十郎はそれを視界に入れながらも首を傾げ、あまつさえ笑って見せた。
「政宗様はまだお若い。普段のやんちゃに比べれば、この程度、どうにでもできる」
では、の傍に戻ります。
小十郎は先ほどまでの子供な自分と入れ替わり、喜多の呆れた視線すら笑って流すと彼女に背を向けて歩き出した。
喜多はその後姿を見ながら、しっかりと押さえた自分の額から痛みがにじみ出てくるような感覚を覚えていた。
寝言からでは判らなかったの一端を、喜多も確かに目にした。肌で感じた。
あれはこちらの世界に存在し得ない、伊達政宗の姉と言われても、多少なりとも喜多にとって理解できるものだった。
その覚悟の度合いまでは量れずとも、何かしら矢面に立つことも多かったのだろう態度は、その向こうに別世界の喜多の姿もうっすら透かして見せていた。
伊達の名に恥じぬ子供になるように、最低限の度量をと小言を言う自分の姿すら見えた喜多にとって、見せられた幼い表情から見えたのは主の姿。
主である、政宗様と同じ顔をするをみて、彼らは姉弟なのだと思わされてしまった。
「さて、どういたしましょうか」
憂いと共に吐き出された独り言に、見守り警護する黒脛巾も、返す言葉を持ち得なかった。