07.視線さえ

「……政宗」
「……ん」
「いや、んじゃなくて。そろそろ離してマジで」
 抱き締めあったまましばらく体温をわけあっていた二人だったが、の尻がもぞりもぞりと動きだす。
 少し焦っているような口調に片眉を上げながらも、政宗もお返しとばかりに自分の両足を揺らす。
 すぐには背をびくつかせて反応するが、政宗へと寄こす視線はなさけなく垂れ下がった眉とは別に、焦りと困惑を映していた。
「姉上?」
 自分のなにがをこんな表情にしたのか分からない政宗は、嫌われたかと恐る恐る呼ぶ。
 抱き合っていたつい先ほどまでは、足を揺らしてもお互いの体を抱きしめたりくすぐったりしても、お互い笑ってやり返すばかりだった。まぁ、この歳の姉弟のやる事かと言われれば言い訳の仕様もないのだが、たかが乗っている足をゆすった程度でが政宗を嫌うとは思えぬ程度のじゃれ愛……じゃれ合いだったのだが。
 どうして? なんで? と見捨てられた子犬のように小首を傾げ、を見つめてくる政宗の視線に、は頭の中で「どうする〜ア○フル〜♪」懐かしいチワワに見つめられる消費者金融のCMを思い返していた。
 駄目だよ政宗、お姉ちゃんは借金する余裕がない。……って違う!
「もう! 可愛いけど駄目! 離しなさい!」
 そこそこ真面目に声を上げると、が突っ張った二本の腕の力もあったのか、政宗は渋々といった体で俯きながらもその腕を放した。
 多少ふらつきながらも立ち上がったが、足を踏みしめた衝撃に息を詰めながらも、俯きながら上目遣いで悲しそうに見つめてくる政宗に首を横に振る。
「姉上」
「駄目」
 そして何も言わずに背を向け、部屋の外へと歩き出す。
 ふらふらと頼りない足取りは、すぐに砕けてしゃがみこむ。
 そこは政宗が手早く危なげなく抱きとめたのだが、政宗が抱きしめなおそうとするとはしっかりと政宗を睨みつけてくる。
「政宗、駄目」
「なら、俺が連れてく。どこに行きたいんだ?」
「政宗は駄目、ハウス」
「ハウスはここだぜ? My home. 」
「無駄に発音いいよな、お前」
 舌打ちの真似をするに、政宗がぎょっと目を丸くする。
 その顔に気づいたは、一度首を傾げるが「あら、ごめんあそばせ」と芝居がかった仕種で笑みを浮かべる。
「ったく、政宗たちの所為だからね。言葉遣い直んないったらありゃしない」
「……俺たちのせいなのか?」
「一時期、同じような言葉遣いじゃないと、あんたもシゲちゃんも言うこと聞かなかったじゃんか」
 忌々しそうなそぶりでは唇を尖らすが、その声が笑っていた。目は優しく眇められ、抱き留めたままの政宗の手の甲を優しく叩く。
 その体温に、政宗は小さく震えた。手の甲から伝わる体温は、抱き留めている体から伝わる熱より格段に少ないものだというのに、その気安さから愛情を感じ取ってしまった。
 大丈夫と、それほど政宗たちを愛しているのだと、それほど身近に居るのだと。
 生活の一部を変えるほど、政宗たちと共に居たのだというの愛情が、手に取るように分かってしまった。
 その『まさむね』が、政宗でないことなど百も承知。
 けれど、悪戯っぽく振り向いてくるその眼差しは、今は抱きとめている政宗に向けられている。
「なんて顔してんの。大丈夫、今更そんくらいで嫌いになるわけないでしょーが」
 いい歳して可愛いんだから、うちの子は。
 囁いて、政宗の後頭部に回された手に力がこもる。
 逆らわずに前のめりになると、瞼を伏せたの顔が至極間近に迫っていた。
 あ、と思う間もなく触れる唇は、少し伸び上がったの笑みと共に政宗の頬に触れていた。
 軽い音を立てて、二度、三度と頬を慰撫するその触れ合いは、色事の匂い等微塵も感じさせずに政宗の中に落ちていく。
 の慣れた動作は、明らかに政宗の機嫌を直そうという行動で、引き寄せた手も寄せられる唇にも迷いがない。このやり取りで、政宗の機嫌が直るだろうというのが分かっている動きだった。
 そしてこのやり取りを、も楽しんでいるというのが、寄せられる空気で知れていた。
「ん。不安なくなった?」
「……」
 言われたとおり、政宗から不安というか恐れというかそのようなものは消えうせていたが、見透かされたというのは癪に障るし、『まさむね』が今までこのような恩恵を受けていたと考えるだけで、己の眉間に皺がよっていくのを感じていた。
 それを見て、は隠さず吹き出した。
「はいはい、お子様扱いごめんなさい。でもいい加減離れるよ、あ、キャッチサンキュ。やっぱり具合の悪さが足にもきてんね」
「……そんな体調で、どこに行くんだよ」
 軽い口調で片手を振り、しかも政宗の足に手をついて立ち上がろうとする。その気安さに喜べばいいのか、そこまで分かっているのに自分の言うことを聞かないことを怒ればいいのか、しかめ面したまま政宗は低い声で聞いてみた。
「ん? しっこ」
「…………は?」
 平然とした顔では立ち上がるが、呆然と座ったままの政宗はその背中を見るしか出来ない。
 予想外の言葉に、阿呆のように口を広げた政宗だったが、振り返りもしないの視界には入っていない。
「だーかーら! お姉ちゃん膀胱限界なんですよ! おしっこ漏らしたらどうしてくれんの! もう!」
 恥じらいもなく言葉を続けるは、ふらつく足を何度か足踏みで確かめ、両手を腰に当てるとぶるりと身震いをする。
「……んで、おトイレどこよ」
「といれ?」
「お手洗い、お便所、厠、はばかり、手水、ご不浄、お花摘み!」
 どうだ! とばかりに強い口調で言い切ったは、またもやぽかんと口を閉じることの出来なくなった政宗を見て、眉間に皺を寄せて体を震わせた。
「いや、ぽかーんとか可愛い顔してないで。ここで漏らしたら私は憤死するぞよ!」
「そりゃ、困るな」
「でしょ! ああもう来た! 神きた! こじゅろ、おトイレどこ!」
 思わぬ話題に思考が停止している政宗そっちのけで、苦笑を隠そうともしない小十郎が姿を現す。
 開けられた障子から差し込む光が、小十郎の背から輝いて室内に降り注ぐその光景に、は感激したように両手を合わせた。
「マジ、漏れる! ヘルプ!」
「ああ、分かったから騒ぐな。運んでやるから」
「揺すらないでね、ダーリン! ほんと一刻を争うから!」
「……慎みはどこへ行った」
「え? 漏らせって?」
「…………分かった。もう口を開くな」
 立て板に水とばかりに喋くるには、さすがの小十郎もどう対応してよいのか分からない。の世界の内情も確実には掴めておらず、何がどう作用してに疑念を持たれるか分からない。
 ……それにしても、切羽詰ってるとはいえ慎みがねぇ。
 息を止めるがごとき切羽詰ったどんぐり眼で口を閉ざし、小十郎に両腕を広げて体を差し出してくるに、一瞬警戒心の有無を説きたい葛藤が生まれるが、の中で小十郎は身内も身内なのだと、改めて認識する。
 抱き上げながら政宗へと視線をやるが、本当に呆けたようにを見つめているその眼差しに、今は何を言っても駄目だなと小十郎は首を振る。指示を仰ぐ云々ではない。思わず黒脛巾に視線を向け、政宗へと注意を払うよう念押しをしておく。
 その時、かすかに振ってきた笑い声をしかりつける元気すら、すでに小十郎から失せていた。
 笑われても仕方のないやり取り、そして現在の有様なのだ。政宗様は。
「こ、こじゅうううろうううう」
「唸るな。連れて行く」
 小十郎の胸元で抱き上げられたは、目いっぱい小十郎の襟を掴んでどこか一点を睨みつけている。脂汗らしきものも浮かんでおり、さすがにかわいそうになってきた。
 出来るだけ振動なく急いでやるか。
 女一人くらいわけもなく、小十郎は所望の地へと急いだ。


「……おまるとは恐れ入った」
 一室の真ん中に穴を開け、そこに木製のおまるを設置。おまるの底から排泄物を取り出し、捨てる前に要人の健康管理に役立てる。ガチで城に相応しいトイレを作るとは、誰だこの城作ったのは。ニュースで見たおっちゃんの城は、水洗トイレじゃなかったっけか。
 は遠い目をしながら、ほのかに良い香の香り漂う場所で涙を拭った。うわーい、お城の殿様のおトイレみたいに清潔なおまるすごーいって、よろこべるかぁああ!!
 内心大絶叫ではあるのだが、体調不良は伊達ではない。衣掛に着物を引っ掛けつつ手を置き、わーいおまるーなどと遊んでみたい気もするが、なにが悲しゅうてこの歳でおまる。いや、うん、昔の要人はこうだったんですよね、分かります!
 トイレの歴史に明るくない人から見れば、子供用のタイヤ付き車のおもちゃ。……腰掛けて床で足を蹴って進んだり、後部にあるレバーで押して進めてもらうようなおもちゃの車に逆向きに乗っているようなスタイルは、滑稽以外の何者でもないだろう。生徒が椅子に逆向きに腰掛けているのと同じスタイルだが、意図が違う、意図が!
「なに、この罰ゲーム」
 すっきりしたけど、やるせないぜ。
 後処理もやるせないぜ!
 お付きの人っぽい人から渡されたもので拭いつつ、さらに遠い目になる伊達、今年でぴー歳。家族の誰の策略か分からない中、お嫁にいけるか不安です。
「……ふっ、この伊達。これしきのことで砕けるほど脆い矜持など持っておらんわ!」
 でも、今だけ泣かせて!
 熱も大分下がってはきているのだが、高熱続きの脳みそは煮えているかのようにテンションを上げていく。
 ふらふらその部屋からでたに、そっと差し出される水桶。感謝と共にそれで手を洗えば、無言で出てくる手巾。それにも感謝の言葉を伝えて受け取れば、そっと回収されていく手巾。
「送ろう」
 そしてどこにいたのか、音もなく姿を現す片倉小十郎。
「……小十郎さんは、いつ見ても男前だよねぇ……」
 遠い目をしつつふっと口からこぼしたの言葉に、小十郎は異変を感じて片眉を上げた。
 どこか煤けたようなその表情と雰囲気は、てっきり気分爽快とさっぱりとした顔でいると思った小十郎の予想とは外れていて、訝しげな視線を向けてしまう。
 その視線を顔の横で受けつつ、戸に手を付いたは空元気で笑う。
「あー、こういうトイレってなんていうんだっけ? ひどの? ひー……はこ? とにかく、ぼっとん便所以前の形態のものがあるとは思いもよらなかったよ。この城作った人、本気で凝ってるね。でもどうせなら、まだ田舎では見られるぼっどんの方が良かった……!」
 おまるはねぇよ……っ!
 最後の方は小声で呻くが、もちろん小十郎の耳はその音を拾っている。が、が言いたい事が分からない。政宗がに気を使い、従来の空き部屋から作り変えた上に風向きまで考慮して室にし、香まで備えた畳敷きのこの場所は、政宗さえも使わずにもちろん小十郎たちも使うことなく、まさしく専用に作られている。光も取り入れ明るく、風の通りも良く匂いもこもらない。
 何が不満なんだ、なにがと問い詰めたいところではあるが、やはり異世界の人間だからか形式が違うようだと小十郎は推察した。
 こういうものがどう変わるのかは想像すら出来ないが、あとで黒脛巾あたりに聞いてみようと、とりあえず自分の心を落ち着ける。
 ここまで政宗に気を使わせて何様だと思わないでもない小十郎だが、打ちひしがれている女に怒鳴るほど狭量でもない。
「樋殿、樋筥だ」
「ん? あ、ああ。ひどの、ひのはこ。そっか、そういう名前だったね」
 先ほど思い出せなかったおまるの正式名称に、は素直に頷いた。ありがとうと小十郎に笑いかけ、ではお願いしますとまたもや両腕を小十郎に広げ待つ。
「……」
 呆れるほど無防備で、疑いもなく小十郎をの知る『こじゅうろう』なのだと身を任せてくる。それは体調不良からくる不安ゆえか、それとも熱のために意識が混濁しているためか。
 小十郎はため息を飲み下し、無言でを抱き上げた。
「よろしくお願いします」
 気の抜けた笑みを向け、迷うことなく小十郎の首に両腕を回すは、居心地の良い場所を無意識だろう仕種で探し当てると、ふっと安堵の息を吐いた。
「……」
 起きてすぐの落ち着きあるを思い返してみると、やはり我慢が高熱とあいまっておかしな言動となっているのだろうと思える。
 からすれば、のしのしと擬音をつけたくなるほどしっかりした足取りで、小十郎はの態度の違いと政宗の態度について憂慮しつつ、その足を進めていった。
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