09.答える前に問い返す


 貴方が目を覚ましてよかったと、言ったら笑ってくれますか。
 何を言えばいいか分からず、どうすればよいかも思いつかないその思考の中で、たった一つだけ思い浮かぶその行動に、その先のの反応を思い浮かべて、幸村は笑みをこぼしながら政宗と肩と並べて走り続けた。

 走り出した足は止まらず、二人とも目指す場所はただひとつ。
 普段は気配を殺して、周囲を警戒してたどり着くその先へ。どちらも音や気配のことなど欠片も慮らず、二人の部下たちが必死で周りを警戒し誤魔化しに走ることに目もくれず、ただただ聴いた言葉が事実かどうか確かめるためだけにひた走った。
 埃ひとつ落ちていない廊下だというのに、音がしない程度に磨かれた廊下だというのに、自分たちの体重を存分に掛けたその踏み止まりによって、強い空気と板張り廊下の強く揺れ軋む音がでてしまった。
 政宗、幸村の両者ともひとつの障子の前で息荒く駆けるのをやめ、けれど肩で荒く息をつきながらもそれを開けることが出来ない。
 室内に気配は三つ。と、小十郎と、佐助と。
 かすかに聞こえてくる声から察するに、また眠ってしまったらしいだが、政宗と幸村の騒音で目を覚ましたらしい。
 小十郎と佐助の疲れたような声音、弱弱しいが楽しそうに笑う女人の声が政宗と幸村の耳に届く。誰の声かは、気配が三つしかないのだから言われなくとも推察できる上に、寝言では散々聞いている。分からいでか。
 けれど寝言ではなく、小十郎の声に応え佐助の声に応え笑うその楽しそうな様子に、障子の前の二人は動けない。
 政宗の視線が幸村に向く。
(お前、開けろ)
 どこか戸惑いと強制を含んだ視線に、幸村は反射的に首を横に振っていた。
(政宗殿、城主は貴殿でありましょう!)
(ばっか野郎! 一番駆け譲ってやるって言ってんだ!)
(某はただの客、それこそ辞退申し上げる!)
(ええい、んな時ばっか遠慮してんじゃねぇよ!)
 視線のみで無言の攻防を繰り広げる二人に、室内から重なるため息と忍び笑いがこぼれる。
 二人が障子に視線を戻したときには、呆れ顔の佐助がそれを開け放っていた。
「なーにしてんの、二人して」
 放たれた言葉も呆れそのもの。政宗と幸村の顔を見て、佐助は再びため息を吐いた。
 反射的に小十郎の顔色も伺ってしまった二人だが、小十郎は小十郎であきらめの表情で首を振り、その傍では一人だけ横になり忍び笑いの収まらない女人が寝ていた。
 起きている、呆れ顔の小十郎を、佐助を、呆然としている政宗を、幸村を見ている、
 ひっそりと、忍び笑うことで揺れる体に眉をしかめながら、口元を手で隠してこちらを見ている
 その目が政宗と幸村を見ていて、その口が開かれる。
「まさむねも、ゆきくんも、なにしてんの」
 呆れと言うニュアンスを含んでいながらも、口にした二人の事を可愛いと思っていることが丸分かりの優しい視線と声音。馴れ馴れしさを飛び越して、意味が分からないほど気軽な口調。
 動きを止めてしまった政宗と、逆にその事実に身震いをしてしまった幸村。
 反応のない政宗に瞬きをしながらも、の視線は大きな反応を見せた幸村へと移動する。
「……ゆき、くん……?」
 ぼんやりした声と視線は、完全に開ききっていない。その声も朧、すぐさま霧散し耳に届かぬかと危惧されるほどささやかな声音。
 けれど幸村の耳には確かに届き、それはが幸村を認識したことに他ならない。
 やはりの言う「ゆきむら」と「幸村」は同じだったかと思う前に、から「幸村が目の前にいる」ことをひっそりと「喜んで」いることが強く伝わってきた。
 それは呼ばれた当人である幸村にとっても同じであった。
 あれほど眠り続けていた
 何を言っても何をしても目覚めなかったが、体調を崩しているとは言えその瞼を開いて幸村を瞳に映し、しっかりと意識を起こして幸村の存在を確認している。
 恐怖なのか、歓喜なのか、畏怖なのか、僥倖なのか。
 幸村は自分の身体は震えていることにすら気づかず、絶句し立ち竦んでいる政宗にも気づかぬまま、一歩室へと足を踏み入れた。
「ゆきくん……?」
 くたりと力の抜けていたの身体が、ほんの少しだけこわばる。返答のない幸村を見上げ、不思議そうな視線を向けてくる。
 幸村はなんといえばいいか分からず、けれども何か言わなければいけないと言うのは分かっていた。
 確実に近づくその足に、は首をかしげて小十郎と佐助を見上げる。けれどその二人も軽く首を傾げるだけで、幸村の行動の真意はつかめない。
 幸村の足は止まることなく前へと進み、かすかな音を立てての顔の真横に腰を下ろしていた。
 体を揺らしてが視線を上げれば、振ってくる幸村の視線の色は安堵と歓喜。
 柔らかく緩められて、光をにじませたその瞳には薄い水分の膜が張られていた。
 口元は戦慄いているが、確かな笑みをにじませている。
「……しんぱい、かけちゃったね」
 その反応にほっと肩の力を抜いたは、まるでいつもそうしているかのように片手をあげて見せる。
 幸村の頬へと伸ばされたような角度に、佐助と小十郎が素人には分からない程度に身じろいだ。
 が、瞳に薄い水分の膜を張ったままの幸村は、ためらいもせずにその身を屈め、が触れやすいよう微笑んだまま顔を寄せていた。
 幸村の頬に、熱でほんのり熱いの白くなった手が触れる。柔らかく幸村の頬を包み込んで撫ぜ、優しく愛撫する。込められた愛情と、一目で分かる慣れた動作には何の違和感も抱かせないほどの、積み重ねられた感情を伝えてきた。
 幸村の表情が、より一層嬉しげに緩んでいく。
 つられた様に笑みを深くするが小さな声で笑った。
「ゆきくん、しんぱいしてくれて、ありがとう」
「……当然のこと、ゆえ」
 けれど当然と言葉にしつつも、幸村の返答はたどたどしいものとなっていた。
 はそれを照れからのものと推測し笑うが、二人の従にとってはハラハラと心配せざるを得ない。
 幸村はそんな二人の挙動に気づいていながらも、自分の頬に触れているの手をやんわりと己の手で包み、その手に頬を摺り寄せる。
 時と場所が許すなら、そして相手を考慮しないのならば、佐助は泣いてその行動に拍手のひとつでもしたかもしれない。感動の鼻を啜る音のひとつでも鳴らしたかもしれない。
 けれど時も場所も相手も悪ければ、お互い認識している関係がすれ違いまくっているという最悪の状況。どちらが正気づいても悪い結果しか想像できないという、ものの見事な袋小路。
 さらに言えば、幸村の後ろで微動だにしない政宗の存在。
 絶句をしたまま瞬きひとつしやしない存在に、佐助も小十郎もどう対応したものか考えあぐねていた。
 そんな従の二人の心境を察したのかどうなのか、するりするりと幸村の頬を撫で、幸村からのふれあいも享受していたが、動いた。
 幸村の頬から手を流れるように離して、その頭を撫でて手を離したが、今度は政宗に視線を向けたのだ。
「まさ、どうしたの」
 問いかけ。
 何の深い意味もなく、ぽんと放り出された言葉一つ。
 けれども明確に政宗より上だと言うような物言いで、寝ていたときは姉上なんぞと言っていた政宗ではあるが、起きた女に対してどのような対応をとるのか、その場の誰一人として結論は出ていなかった。
 自分の城の中とはいえ、政宗は力のある武人だ。
 そこそこ血気盛んな面もある。よって、女の対応が間違っていれば城の中で流血沙汰が起こっても、まぁ不思議はない。
 現に女は眠っていたが、初対面である場面で首を絞めて本当に殺せるほどの力を向けていた。
 けれど現在の政宗は、絆された実感のある従の二人から見ても、自分たちよりよっぽどゆるゆるのぐだぐだなほだされっぷりだった。
 が、起きたに対して、それが発揮されるかは未知数だ。
 さらに言えば殿様。生まれたときから、順当にいけば約束されたような地位に生まれ育った人間だ。まぁ、その人生は波乱万丈だが。
 ごくりと誰かの唾を嚥下する音が響く。
 そしてぱしぱしと、弱弱しいが手のひらで畳を叩く音も響いた。
「まさ、ここおいで」
 頭痛がしてしまうほど、当たり前のように白い手で政宗を手招いている、が発する音だった。

 あ、これは死んだ。

 佐助と小十郎の常識的な思考が囁いた。
 が、即座に別の声も脳裏に聞こえてきた。

 いや、絶対殺されないだろ。なら。

 佐助と小十郎の本能的な部分が、小馬鹿にして肩をすくめる光景が脳裏をよぎっていた。
 二人とも自分自身に少し腹が立ったのは余談だ。
 画して予想通り、ふらふら招きよせられた政宗はに誘導されるがまま畳に腰を下ろし、しかも正座までしてきちんとに視線を向けるというオプションまでついた。
 その光景をぼんやり見つめる二対の目と、自然と横にずれる空気を読んだ幸村。嬉しそうに顔をほころばせる
「ありがとう、まさ」
 嬉しそうに寝転んだまま礼を言うに、呆然とした表情のまま政宗は何度も首を横に振る。
 はくはくと何度か空気を食んだ政宗は、躊躇う素振りを十二分に見せつけた後、かすれた声でに問いかけた。
 まるで幼子が寝ぼけ眼で問いかけるような、かすかな声で。
「…………あね、う、え」
「なぁに、まさむね」
 躊躇う素振りを一蹴するように、は慈しむように目を細めて笑う。
 その手を伸ばして、正座をした政宗に膝小僧に触れると、びくつく政宗にまた笑いをこぼしながらその膝をとんとんとリズム良く撫でる。一度眠ったままのにされたときのように、優しさしか感じられない手つきは、政宗を一瞬だけ身震いさせたが、それはにとってなんの障害にもならなかったらしい。
「おねーちゃんは、ここにいるから。だいじょうぶだから、まさ」
 ただただ蕩けた砂糖水のように、けれど確固たる確信があるかのようなしっかりとした言葉は、政宗の一つしかない瞳を確実に捕らえ、全身全霊で愛情を伝えてきた。
 いとしい、愛しい、いとしいと、貴方の不安ならばすべて拭い去れるよと言うかのような、穏やかで熱い愛情のこもった眼差しが、政宗の眼を捉えていた。
「あ、」
「すぐに、なおるから。また、すぐにげんきになるから」
 ね、と念を押すように、政宗が何か答える前にはその不安を拭っていこうとする。
 恐る恐る伸ばそうと動く政宗の手も、難なく捕まえて軽くゆすって。でも、政宗の眼からの視線は外れない。
「だから、安心しなさい」
 向けられる微笑みは、極上の甘さを放って政宗だけに向けられていた。



「……あい、しー」
 瞬きを数回繰り返した政宗が、呆然と呟き、その後徐々にうっとりとはにかんだ笑みを浮かべたのは、そう遅くなかった。
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