08.微笑みこそすれ
の目覚めは、ある意味意外だった。
誰もが目覚めを待ち望んでいて、誰もが彼女と言葉を交わすことを心待ちにしていた。
けれども安らかな寝息に安堵し、時折あがる寝言に笑いその寝相に吹き出し、彼女の寝言から漏れる世界に憧憬を抱くような時を過ごした大部分の人間は、彼女が目覚めることを疑うことなく、けれど彼女が目覚めることを信じていなかった。
彼女は、大部分の人間にとって、出会ったときから眠り込んでいる人間だった。
だからこそ、目を開けてしゃべり動く姿を想像できていなかった。……寝相と寝言なら、嫌になるくらい眼にしているはずなのに。
「それは本当か、佐助」
「嘘言ってどーすんの。本当ですって」
自らの主であるはずの幸村に真顔で問われ、佐助は思わず脱力して首を傾げてしまう。
そんな武田主従のやりとりを横目で見ながら、政宗は小十郎にすぐさま様子を見に行かせる。軽く視線を向けて頷いただけだが、そんな政宗の動作に小十郎も軽く頷くだけで了承の意を示し、音もなくその場から下がった。
もちろん佐助も幸村もそんな二人のやり取りには気づいていたが、特に小十郎を止める理由はない。それに、佐助がまだなにやら言いたそうな素振りをしていることに、幸村は気づいていた。
小十郎が退室してしばし、それぞれ己の思考に浸っている時間が静かに過ぎていく。
「佐助」
そしてたった一言、脱力している佐助をなだめるような台詞を口にしていた幸村が、その名前を呼んだ。
佐助も政宗も視線を幸村に向け、その視線に動じず幸村はもう一度佐助の名前を呼んだ。
「佐助、なにがあった」
「なにって、なんだよ」
真摯な幸村の声に、政宗が茶々を入れる。けれどそれに動揺する素振りも見せず、幸村は政宗を一度見やる。
まっすぐな視線が、政宗を見つめた。
「某には見当も付かぬが、佐助はなにやらまだ言いたいことがあるようだ」
「……まいったな、旦那には全部お見通しってわけ?」
忍べてないねぇ、ほんと。
先ほどとはまた違った脱力感に、佐助は苦く笑う。
名を呼ばれた事実、柔らかくすすんだ会話、触れ合った体温がどれだけあたたかかったことか。
発熱分を差し引いても、十分お釣りが来る穏やかであたたかな空気を、佐助はどう報告しようかとしばし思案する。
けれど逡巡はすぐに終わり、ゆっくりと、その口が笑みへと変わり言葉を紡ぐ。
「……まだ夢見てるみたいで、さっちゃんとか呼ばれちゃいまして。さすがの俺様もびっく」
佐助が言い終わる前に駆け出す政宗。部屋の中の空気が音もなく裂ける。そして刹那、報告をしている佐助と駆け出した政宗が去った方角を見た幸村も、迷った素振りが嘘のようにすぐさま政宗の後を追いかけた。
「……り、したんですよ」
まるでカマイタチが二つ通り過ぎたような、それこそ忍びも驚く瞬時の行動に佐助は肩を落とす。日頃からそれだけ動いてくれればとか、現金だな旦那達とは思ってしまうが口からは出ない。
脱力して俯いた佐助は、取りあえず最後まで言い終わると顔を上げ、先ほどの二人と同じくその場から姿を消した。
「行く先はひとつってね」
行動力のある二人の武将に、少しばかり愉快なものも感じながら、忍びの腕を持って先回りを敢行した。
佐助がの部屋天井裏から顔を出すと、小十郎がの額に絞った手ぬぐいを置いている場面に出くわした。
佐助に気づいた小十郎は、どこか戸惑い困惑しているように力のない笑みを浮かべている。
「なにか」
「いや、なんでもねぇ」
あったのか、と最後まで言わずとも小十郎は即座に首を横に振る。
水で濡れた手を別の手ぬぐいで拭い、そして心底困ったとでも言いたげに天井を見上げて、深い深いため息を吐き出した。
見ればの枕元には飲み水も薬を包んでいた紙も、それこそ少し腹にたまる食料だって佐助がやろうとしていたことが一通り揃っていた。
けれど、なぜかどれも口にした形跡は見当たらない。佐助が出て行ってから、小十郎が起こしたような形跡も見受けられず、なぜかと佐助は問いかけるように小十郎を見た。
小十郎は、熱いのか小さく唸りだしたに視線を落としていたが、辺りを整えながら苦く笑ってみせた。
「こいつはなかなか手強い相手だな」
「でしょ? こればっかりは、なんとなく予想してても驚くよねぇ」
小十郎のその一言に、佐助と同じく常にない対応をされて戸惑ったのだとすぐに理解できた。どんな風に戸惑い動揺したのか、その場面を目に出来なかったことは少々残念だったが、佐助は自分と同じように反応した人物が居たことで、幾ばくかの心の平穏を手に入れた。
忍びなのだから、もっと常の武将よりも心を殺せと言われてしまえばおしまいだが、それでも同じような境遇に陥った仲間がいるのは、なんとも心強いものだった。
佐助の手が、小十郎の肩に触れる。ぽんぽんと、同病相哀れむかのようにしんみりとした動きだった。
「ま、お互い頑張りましょってことで」
「政宗様や真田がどんな反応するか、想像もしたくねぇな」
「多分期待通りだと思うよ」
小十郎も何か思うところがあるのか、佐助の手を振り払わずに穏やかに会話を続ける。けれどその二人の後ろで流れてくるのは、主たちの荒々しい足音や爽やかな空気、人が少ないゆえの穏やかな城の音色……などではなく。
「……ぅ…………はっ」
思わず男二人が見下ろしてしまうほど、苦しげにたどたどしく呼吸を繰り返すの呻き声だった。
「……、ちゃん」
恐る恐る佐助が呼びかけてみれば、その声にの瞼が震えだし、ゆるゆると動きを見せて瞳が見えてくる。寝ている間はそれこそいつも見ていたそのまつげが、瞼が静かに佐助と小十郎の顔を映し出す。
「……」
ぼんやりとしたその目が、表情が柔らかくくつろいで微かな笑みを浮かべ、その唇が二度三度と軽い風の音を発したかと思うと、小さいけれど確かな笑い声をもらした。
「ふたりとも、しんぱいしすぎ」
辛そうに時折眉をしかめながらも、小さく笑い声をもらすに、情けなくも眉が垂れ心配げに顔を覗き込んでいた二人は、顔を見合わせて苦笑を浮かべると本人は楽しく笑っているのだろうへと視線を戻す。
体を動かすことも苦痛なのだろうその体は、顔を隠すなどの動作もなく、ほとんど動かされないまま笑いに肩だけを揺らす。それがいかにも弱弱しい雰囲気を醸し出していて、病人なのだというのがありありと伝わってきてしまい、佐助と小十郎の眉をしかめさせる。
「だいじょうぶ。ただのかぜでしょ?」
ようやく笑い収めたは、深い息を吐いて目の前の二人を安心させるように笑って見せる。大丈夫大丈夫と、軽口を叩くように繰り返しながら布団の周囲に視線をめぐらすに、小十郎は軽く身をかがめて囁く。
「なにか探してるのか」
「のど、かわいて」
「それなら水はこっち」
佐助が素早くの枕元に移動すると、ゆるりと小十郎から視線をはずしたと目が合う。佐助が対応に困って笑って見せると、もどこか無邪気に笑みを浮かべた。
「……」
「……」
たった一言二言のやり取りでの反応に慣れるわけもなく、佐助はその笑顔にしばし身動きが取れなくなる。ただの、本当にどこにでもいそうな平凡極まりない女の一人が笑っただけなのに、なににどぎまぎしているのか佐助自身も訳が分からなくなってしまう。
それを至近距離で見た小十郎は、小さく息を吐くと先ほどと同じようにそっとに囁いた。
「起きられるか」
「ん」
小さく了承だろう返事をしたはいいが、は両脇の腕に力を込めているのだろう体勢で固まる。そしてぷるぷると両腕を震わせながら、そっと小十郎を見上げた。
「……こじゅろさん、へるぷみー」
どう見ても生まれたての子鹿のように震えた腕で、力を抜くことも怖いとばかりに焦点の揺れる目が小十郎を見つめ、弱りきった声で呟いた。かすれた声は病人特有のもの。
「ちから、はいんない」
「早く言え」
だと思ったとは決して口にしないが、寝相がすごかったとはいえ、数ヶ月も床についていて更には高熱を出している病人が、自力で起き上がれるなどとは小十郎も思ってはいなかった。ただ、どんな反応をするかと言ってみただけだ。
取りあえず自力でやってみようという態度は評価に値するが、親とはぐれた泣き出す寸前の迷い子と対峙した気分になってしまった小十郎としては、無理はさせないようにしなければと持ち前の面倒見のよさで今後のやりとりを考える。
小十郎がそっと上半身だけを抱き起こしている間に、自分を取り戻した佐助が水を注いでそっと飲ませる準備をする。の寝ている布団の横にきちんと正座して待っている佐助は、どこか手持ち無沙汰に小十郎との動作を見守っていた。
「……」
静かにの体を支え、何の疑問も持たずに預けられる体重の動きを誘導させながら、小十郎はの熱の高さに眉をしかめていた。
「なにか食わねぇと、薬飲めねぇぞ」
「はぁい」
気の抜けたような返答だが、その声はかすれてでも表情は嬉しそうに笑っていて、差し出された水をなんの迷いもなく口にする。
「なに、笑ってんの」
思わず佐助が不思議を込めて問いかければ、幼子のように穏やかで和んでしまうような笑みが向けられる。瞬きをして焦点を定め、佐助を見て笑みをこぼす。
の首のめぐりは緩慢で、視線が定まるまでもしばしの時間を要した。
けれど佐助も小十郎も急かしたりせず、どこか気だるいその雰囲気の中、緊張の面持ちでその唇が震わす空気を待っていた。
「だって、こんなの、ひさびさ、だから」
病人特有の熱い息、たどたどしい口調、薄っすらと浮かびこぼれる汗。
それでも幸せそのものなのだと笑うは、弱弱しいながらもどこか背筋が伸びているように見えた。
「おとな、に、なって。……たいちょうかんり、あたりまえ、だし。こんなふうに、ぐあい、わるくするの、も、ひさびさ、だし」
「……うん」
小十郎がそっとの背後に回り、後ろから抱きしめるように体を支えても、は少し視線を向けて嬉しそうに笑うだけで、また佐助を見つめる。
の全体重は小十郎に預けられ、その指先が首筋に触れても抵抗などせず、手の平が首をさすっても嬉しそうに目を細めるだけ。
「……」
小十郎と佐助の目が一瞬だけ細められるが、命を奪われる危険性などちらりともよぎらないは、その体温差にうっとりと熱い息を吐き出すだけで、二人が危惧していたような抵抗も見られなかった。
熱の所為で血色が良すぎるその唇が、言葉の続きを話し出す。
表情は幸せそのもので、子供が熱の所為ではしゃいでいる風にも見えた。
「わたしの、せわやく、じゃ、なく、なたの、に。まさむね、の、かため、なの、に」
とつとつと口からこぼれるその小さな人生の切れ端は、寝言で呟いていた事柄の断片でもある。
どうやら本当に小十郎とそっくりな人間がいるらしいと、小十郎も佐助も苦笑する。多分この調子だと、まさむねと呟くその名前の人物も、奥州筆頭と同じ顔をしているのだろう。
その証拠に、は何の疑いもなく小十郎にその身を預けている。以前世話役だったということから、本当に信頼しているのだろうと推測された。自分の世話役だった男であり、弟の世話役であるその『小十郎』を。
「ただ、の、おさな、なじみ、なの、に。さすけ、さっちゃん、いて、くれる、し」
「……長い付き合いでしょ」
この調子だと佐助も寝言通りの付き合いだと推測し、慎重に、けれどさりげなく確認のためにそれを口にする。
佐助や小十郎の一挙手一投足すら見逃すまいとしているその視線の中、は更に微笑をこぼして呟いた。
「だ、ね。……ああ、さすけにかた、おもい、してるこたち、に、ころされ、そう」
「何言ってんだか」
茶化すように笑い声をこぼしたに、佐助も推測の正しさを肯定されて笑みをこぼす。
小十郎もの体が崩れぬように腹部に手を回し、そっと支えてひっそりと息を吐いた。
けれど一番体調がきついはずのは、茶化した口調のまま続きを口にする。取りあえずは確認したいことを確認したので、二人にしてみればもう眠っていてくれたほうが良いのだが、無碍にすれば別人だとばれてしまうかもしれない。
さてどうしようかと考え出した二人に頓着した様子も見せず、は笑う。
「だ、て。いろおとこ、ふたりも、どくせん、して。ふふ、また、ひとけのないところ、で、ぼこぼこに、され、そう」
愉快だと笑う途切れ途切れのその言葉に、佐助の視線がの体を瞬時に確認した。大きな傷やその跡はなかったはずだがと、小十郎と目配せしあう。小十郎もそのような報告はなかったとすぐに首を横に振るが、は笑って首をかしげた。
「うそ。だい、じょうぶ。……だてに、だててるむね、と、よし、ひめ、の、……だてけの、ちょうじょ、してない、よ」
だから大丈夫だと、は笑う。
伊達に生まれたときから、それこそ良い男たちに囲まれて暮らしていないと豪語し、呼び出されたら返り討ちだと笑った。安心してと、幸福感に笑みをふわふわ浮かべながら、そのうちゆるりゆるりとの体温は上がっていく。
それを感知した小十郎は、意識が朦朧としだしたを言いくるめ、そっとまた布団の上へと寝かしつける。
「薬がまだ飲めねぇなら、さっさと寝ろ」
言葉は乱暴だが、布団を体に掛けるその動作の優しさを知っているは、どこか照れたように目を細めて笑う。おやすみなさいと、顔を覗き込んできた男二人へと呟いた。
「……で、なんで薬飲ませてなかったの」
「……開口一番に、名前呼ばれて手を握れなんぞと言われりゃ、頭から吹っ飛ばねぇか」
「…………あぁー……」
そりゃ、刺激的だ。
自分の主であれば、思い切り普通に手を握り返してしまうか、破廉恥と叫んで部屋から追い払われているか。
佐助はとりあえず手短な現実逃避を試みた。
「……笑っていやがったな」
「笑いっぱなしってのは、この事だと思うよ」
それが微笑ましいと笑い返しこそすれ、一瞬疑うことを忘れさせるほどの。