01.第一印象


 佐助はそのとき、空気が変わるにおいを感じた。
 外から風が入り込んできたのではなく、室内に長い間囲い込んでいた花の蕾が、ようようほころび始めた様な芳香を嗅ぎ取っていた。まだ一度も咲いたところを見たことのない花の種類だというのに、嗅いだ瞬間にそれだと分かるような感覚を覚えた佐助は、どこか呆然とした頭で眠り続けるへと視線を向けた。
 震えるまつげと、薄く開いた唇から漏れるかすかな音。
 それだけならば、今まで幾度となく佐助だけでなく幾人もの人間が目撃し耳にしている。けれど、今日はそれだけではなかった。
「……っ、まぶし……い」
 震えるまつげは焦れるほど緩慢なしぐさで持ち上がり、佐助にその瞳の色をあらわにしていく。唇は何度か音を出す素振りをしたあと、とうとう意識を持って言葉をつむぎだしていた。寝言ではない、緩慢だが確かに意識を持って外界からの刺激により発せられた言葉に、佐助はらしくもなく興奮した。
 最初の一言は何を言おう。
 正式な初対面の場として最初に考えていたのは、政宗や小十郎たちも一緒に居たあの時だ。そのときは、かける言葉としては尋問の類を用意していた。けれどはまぶたすら開かせず、昏々と眠り続けるのみ。
 次に初対面になるだろうと考え、用意した言葉は眠り続けるに向けての呆れの言葉。けれどその言葉を告げようと予測した期間よりもずっと長く、は眠り続けてしまった。おかげで呆れよりも心配が鎌首をもたげてきて、しかも寝ている最中のを観察し続けたばかりに、いくばくかの愛着すらわいてきていた。

 無邪気に夢の世界を謳歌している。時折佐助たちの名前をこぼすところから見ると、眠り続けてからはずっと同じ夢世界を見続けているらしい。しかも佐助たちはどうも子供のようで、しかも一度も戦などの血なまぐさい言葉がこぼれないことから、相当平和な世界の夢を見ているらしい。夢の中の偽者の世界とはいえ、なんてうらやましいと気づいた人間達はぽつりぽつりと心情をこぼしていた。
 虚構の世界とはいえ、夢の中ではと佐助たちは基本的に親しい間柄らしく、しかも寝言から推察するところによると、佐助は近しい幼馴染という位置らしい。寝言でも優しく親しげな様子で名を呼ばれると、一月もするころには思わず返事をしてしまうまでになってしまった。それは佐助だけにとどまらず、眠り続けるに会いに来る大体の人間が同じような状態になっていた。

「……目、覚めた?」
 佐助の口からこぼれ落ちた言葉は、何の変哲もない問いかけの一言。けれど思わずあらわにしてしまった感情は、の目覚めを待っていたこともその目覚めに自分が立ち会えて歓喜しているのだということも、佐助が思っていた以上に表現してしまっていた。佐助以外の誰かが傍に居れば、きっとそのあまりにも柔らかい口調と表情に動きを止めてしまうだろう程、佐助はその感情を吐露していた。
 ゆったりとした呼吸に換算して、五つ分。それだけの間を空けて、は手を伸ばせば触れられる距離に座っている佐助へと、朧に目覚めた視線を向けた。瞬きすら緩慢で、数ヶ月起きて動くことはなかったの指先は、固くつむっていた自分の瞼をこする。
「……ぱりぱりする」
「そりゃぁ、こんなに長く眠ってたら仕方ないでしょ。眠りすぎ」
 極力刺激しないように、日常の一部のように佐助が笑って言葉を返すと、は寝ぼけ眼のまま微笑む。その内側から見えるのは、愛情。家族や友人、親しい身内にしか向けられない情。無償といっても過言ではないほど、無防備な情愛。が見ていた夢の続きのように、優しく穏やかで佐助が泣きたくなるほど自然と、その口が言葉をつむいだ。
「……さっちゃん、てきびしい」
 どうしてやろうかと、佐助は自分の頭が沸騰するのを自覚した。
 寝ぼけているのは分かるのだと、佐助は自分自身に言い聞かせる。そう、は寝ぼけている。だから真に受けるなと自分に何度も言い聞かせるが、寝言と同じような親しいものに向ける声音と初めて向けられる視線に、数ヶ月前のを侮辱し侮蔑し唾棄していた自分を思い出そうと懸命になるが、それはすべて布団の中のの笑い声によって無効化した。
「きょう、やすみじゃなかった……?」
 ぼんやりとあくびをしたは、再度自分の瞼をこすって佐助を見上げる。何の警戒心も抱いていない様子に、佐助はそっとに手を伸ばす。
 眠っているときは散々触れていたというのに、起きただけで緊張度が増してしまう。情けないと自分をしかるが、額に手を置かれたは嫌がるどころか嬉しそうに表情を緩めた。
「重い。……きもちいい」
 ああ、簡易だが篭手をしたままだったと佐助が気づいたときには、すでにその手はじんわりとの体温を移し始めていて、文句を言いながらも幸せそうなの表情に言葉がこぼれていく。
「ちょっと熱、出てんね」
 予想していなかった事態に、佐助は自分から触れていながら軽く顔をしかめる。眠り続けたせいでやせこけることなら誰もが想像したが、本当に体調の変化は見られない数ヶ月だったのだ。目が覚めたら熱を出すだなんて、誰が予想しただろうか。
「……ねおきだから」
「はいはい、言い訳無用。なんか口にするもんと薬持ってきてやるから、寝てな」
 ごまかすように布団にもぐりこもうとするを、佐助は素早く篭手を外した手で頭を押さえつけることで止める。正直いい加減布団から引きずり出したいのだが、病人ならば仕方がない。いたいいたいと、覇気のない声でが悲鳴を上げるが、それすらももう可愛いと思ってしまう範疇で、佐助は愛着わきすぎだなぁとしみじみ実感した。
 の頬を、優しく手の甲で撫でる。痛みに目をしっかりと閉じていたが、くすぐったそうに声をもらす。うっすらと開かれた目は、嬉しそうに佐助を見つめている。
「おみずがいい……」
「はいはい、飲ませてあげるから」
 だからご飯も食べること。
 佐助は何の気負いもなくの顔を覗き込み、自然な動作で防具を外すと抵抗なく己の額をの額と触れ合わせた。あらかじめの額に触れていた手で、そっと前髪はかき上げており、それこそそれが日常であるかのような流れだった。がもう一度くすぐったそうに笑う声で、佐助は正気を取り戻して愕然とする。
「……ッ」
 息を呑んだ佐助は、に気取られぬように素早く離れると一言二言小言を口にして、そして寝ているよう念を押す。了承の返事を聞くと、足運びに細心の注意を払いながら室の外へと身を滑らせた。
「……」
 障子の外から耳を済ませても、に変化はない。ぼんやりとした呼気が聞こえてくるのみで、怪しい素振りはない。
 むしろ、怪しいのは佐助自身だった。
「……っ、うそだろぉ……」
 誰にも聞こえないように、けれど堪えきれず吐き出された言葉のまま、佐助は困惑顔で自分の手を見下ろす。に触れた手。寝ている間は本当に好き勝手触れていたというのに、起きてからの自分のあの対応。信じられないと叫ぶのはたやすくて、けれどやってしまったことは事実で佐助を苦悩させる。

 は、身元不明の女で。
 伊達の領地で見つかった人間で。
 不思議な衣服や荷物を持っていて。
 容姿もあまり特出していない、性格も平凡だというのは明らかで。
 検査したところ、まぁ、生娘で。
 暗器や農耕具類なんて重いもの、持ったことないようなやわっこい手で。
 驚くほど寝言と寝相がひどくて、周りを巻き込むほどで。
 ……数ヶ月も、眠り続けたお馬鹿さんで。

 自分が世話好きだとは言え、自分の主や更にその主、伊達のお偉方にも知れ渡るほどの世話好きだと太鼓判を押されているとは言っても。
「……寝てる女に、ここまで」
 いつの間に心を許したのか。嘘偽りなく体調を気遣い、心を気遣い、世話をしてやろうという気になったのか。
 佐助は今まで聞いて、見ていたの寝言や寝相を思い出す。それは本当に寝ているのかと、演技かと突っ込みたくなるような素晴らしく運動量の多いものばかりで、けれど寝たまま笑ったり泣いたり怒ったり楽しんでいたりと、もうそれは見事な喜怒哀楽っぷりだった。とあることを全員でしてみても起きなかったりと、本当に寝汚いんだなぁと感心するほどだ。
「とにかく、まずは報告っとね」
 俺様忙しくなりそう。
 軽口を叩いて動揺を押し込め、佐助は笑みを浮かべて見せる。動く筋や筋肉や面の皮に、上手に笑えているだろう己の顔を想像し、佐助は音もなくその場から姿を消した。
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