05.捻じ込まれる虚構


 は夢の中に居た。なぜだかここは夢だと、何の疑いもなく信じられた。
 なぜなら目の前には自宅があった。家族と住んでいる、見間違えるはずもない家。
 自分はそう言えば泣き疲れて寝てしまったなと、頬を触って確認をしたは、自分の頬が涙のせいでがさがさと荒れているのに思わず笑ってしまった。どれだけ現実に忠実なんだかと、いつのまにか着物ではなく洋服を着ている自分のズボンのポケットをあさる。あるはずがないのだが、夢ならではの理不尽さで鍵を取り出し、家の玄関を開ける。
 何の問題もなく家に入って、うがい手洗いをして、部屋の中を歩き回る。昼のように明るい外を見て、家の中の時計を見てまだ誰も帰らない時間だなと確認をし、はもう一度笑う。
 匂いも肌に触れる空気も色も、何もかもが記憶のままな我が家。
『かあさん』
 返事が来るはずはない。だってあの人は仕事に出ている時間だから。
 分かっていてもは声を出す。小さなころから、やはり父より祖母より祖父より安心できる存在の母を、穏やかな声で呼ぶ。
『かあさん』
 手を伸ばす。誰も握り返してこない手を伸ばし、家の中を歩き回る。
 広くも狭くもない家は、あっという間に一周できてしまう。けれど、は穏やかな気持ちで穏やかな声で呼び続ける。
『おかあさん』
『かあさん』
『だいすき』
『ゆめでもいいんだ』
『やっと、いえにかえれた』
『うれしい』
『だいすき』
『やっぱり、なにがあっても、ここがすき』
『かあさん』
 囁き言葉に返事はない。
 はまた涙を流しながら、けれど今度は嗚咽も漏らさずに穏やかに笑う。涙は頬を伝い、がさがさの頬をさらに荒れさせる。
 不意に、背後から声が掛けられる。ああ、そう言えば母さんは私より下に男の子を産んでいた。なぜだか唐突に、背後から声をかけてくるのは弟だ、とは理解した。
『ただいま、まさむね
 振り返って笑みを向けると、玄関から帰ってきたばかりなのだろう弟のシルエットが見える。は玄関から入ってくる光に目がくらみ、弟の顔をはっきりと認識できなかった。けれど、弟が驚いているのは良く分かった。

 この子は昔から感情を表に出すのが苦手で、でも、とても素直な良い子だから。

 はもう一度微笑み、しゃがみこんで両腕を広げた。おいでと、優しく弟に囁きかける。
『おかえり、まさむね。学校帰りに遊んできたの? 膝が真っ黒だよ、ほら、お姉ちゃんが怪我がないか見てあげる』
 可愛い弟、たった一人の弟。少し年が離れている分、甘やかしてしまう弟。
『……』
 弟は微動だにせずを見つめる。けれど、それは特に重い沈黙ではなかった。は笑って名前を呼ぶ。
まさむね
『ただいまは、言ってくれないの?』
『大好きなまさむねに嫌われたら、お姉ちゃん嫌だな』
まさむね。膝きれいにしたら、おやつ一緒に作ろう?』
『で、夕飯も作って母さんを驚かすの。どう? 一緒にやらない?』
 笑顔のまま話しかけるに、弟の腕がおずおずと伸ばされてくる。それをは辛抱強く待ち、指先が触れ合った瞬間にその手を握りこんで引き寄せた。の胸の中に弟を引きずり込み、力いっぱい抱きしめた。
『つかまえた』
『ほら、ただいまは?』
 至近距離で覗き込んだ弟の顔が、ようやくの目にはっきりと映し出される。ああ、自分と違って綺麗な顔だなぁと見つめていたは、弟の右まぶたの異変に気づいた。
『ああ』
 そう言えば、弟は少し前に病気で倒れていた。あの時は会社を休んで付き添ってしまうほど、大事になっていたなぁとしみじみ弟の顔に残ってしまった病気の跡を見つめる。まるでどこぞの戦国武将のような、その右目がかわいそうで痛々しくて、でもとても愛しいのだとは微笑んだ。
『男の勲章だねぇ』
 くすくすと顔を見て笑い出したに、弟がどこかすねたような顔のしかめ方をしてそっぽを向く。
『だいすきよ、』
 弟の名前を口にしようと唇を象ったまま、は理不尽にも意識が上昇していく気配を感じた。の動きが止まり、弟は腕の中で不思議そうに姉であるを見上げる。
 そうだ、これは夢だと再度は認識する。帰ってきていないのだ、自分はあの屋敷の庭で泣き疲れて眠ったのだと、弟の体を抱きしめなおす。
『……』
 弟が小さな口を動かしての名前を呼ぶ。それがなんだか新鮮で、は笑みを浮かべる。
 つたない口調で呼ばれる己の名前は、酷く新鮮で聞き覚えのない声音に喜びが湧き上がっていた。
まさむね佐助お兄ちゃんはもうおうちに帰った?』
 弟の目が、優しく確認してくるに向かって大きく見開かれる。なぜだと、なぜ知っているんだとその目が驚愕に見開かれている事実に、は笑う。知っているのは当たり前なのにと、弟の幼さに穏やかな気持ちが充満していく。
『今日は母さんが、佐助お兄ちゃんにお願いする日でしょう?』
 手の足りない我が家から、隣家のご長男に弟のお迎えをお願いする日。
 簡単にが種明かしをすると、そんなことをすっかり忘れていたのだろう弟は顔を真っ赤にしてしまう。少し大人びた顔を見せる弟だから、こんな失態が恥ずかしくてしょうがないのだろうと、微笑ましさが増しては弟を抱えあげる。脱げかけた靴はぼろりと玄関に落ち、は暴れる弟を抱きこんで笑って洗面台へと足を運んだ。
『……ッ! …、………………!!』
『はいはい、取りあえず身支度整えておやつ作りと夕飯作りね。まさむねの文句は全部却下でーす』
 まだ小学生になったばかりだというのに、元気の良い弟はの腕の中で文句をわめき散らし暴れまくり、けれど決してが弟を取り落とすような攻撃はしてこない。
 かわいいなぁと思いながら、は意気揚々と足を進めた。


「……」
「……」
「……」
「……」
 男五人はその場に車座になって腕を組み、車座の中心の布団で眠り込んでいるを見つめていた。
 忍びに連れて来させた時点で、すでに眠りの世界に落ちていたにとって馴染みである忍びが起こそうとしても、長である男が起こそうとしても一向に目覚める気配も見せず、さらには香や薬や道具などを使っても目を覚まさなかった。
 最終手段はやはり痛みだと、手始めに体をつねってみたり叩いてみたりをしてみたものの、やはり結果は同じ。殺気を当ててみても殴ってみても同じ。刃物を肌に滑らすにいたっては、忍びの男やその長が刃物を取り出した小十郎と交戦の覚悟を持って制止した。
「……起きないねぇ」
「起きねぇと意味がねぇ」
 佐助と政宗がお手上げだとばかりに唸ると、ふっと寝ているはずのの気配が変わる。目が覚めるのかと一斉にの顔を見た五人は、その表情と言葉に声を詰まらせた。
『かあさん』
 何よりの至上の喜びなのだと、手放しの安堵なのだと言わんばかりの空気に、さまよい伸ばされる手が痛々しい。姫ではありえない手、けれど農民でもない手は、誰かを求めるかのようにさまよう。
 母を呼び、すきだとささやき、これがゆめでもよいと、やっと家に帰ってきたのだと、たどたどしく掠れた声が寝言に心を混じらせる。穏やかな笑みが寝顔に浮かび、その目尻からは涙が流れる。
 政宗は無表情にそのすべてを眺めた後、の濡れた頬に手を伸ばした。触れて、小十郎が何か言う前に淡々と声をあげた。
「おい、目ぇ覚ませ」
 それは寝ている人間を優しく起こすようなものではなく、罪人を引きずり出す鬼か何かのような低く底知れぬ憎悪をこめた声。けれどここまで寝言をつぶやき、本当に眠っていると信じている人間はこの場に居ない。
「……」
「……」
 でもそれはを不審人物と思っている男三人の心境で、忍びである男二人はの寝言の酷さを知っており、下手をすれば寝ている間中つぶやかれるそれにいい加減慣れていた。今回は自宅に帰った夢かと、同情さえ覚えて聞いている。主君である政宗の勘違いも気づいているが、ここで日頃からの癖だといっても納得しないだろう気性も知っている。
「……」
「……」
 忍びの男と長は視線を交わしあい、これに寝相の悪さも加わるんだよなぁと、肌が引き裂けそうな殺気の充満した空気と正反対なのんびりとした心地で、茶でもすすりそうな空気を醸し出していた。
 その間にも、政宗の手の平に力が加わりの頬を圧迫していく。さらには、その手は下へと滑り落ち、なんの保護もされていない喉元へとたどりつく。政宗たち武人ならば、一捻りで命を奪うことが出来る人体急所のひとつ。
 さすがに首に手をかければ目を開けるだろうと、政宗が力を込めた。けれど苦しむ様子も見えず、段々と顔色が悪くなるばかり。佐助も小十郎も、の根性に敬意と侮蔑の目を向けていた。
 けれど、忍び二人はやはり呆れたような目で主君達を見つめ、小さく動き始めたの唇を読んでいた。
「……い、ま。…………むね、」
 さまよっていたの手が止まり、両腕が広げられる。寝ているためにはっきりとは分からないが、その動きは誰かを抱きとめようとしているように見えた。怪訝そうにの口元に耳を寄せた政宗の片目は、即座に見開かれを凝視した。首を絞める力は変わらないというのに、はどこか幸せそうにつぶやき続ける。
「政宗様!」
「竜の旦那!」
 それが何かの罠だと、何かの術ではないかとそばに居た二人は政宗を引きずり戻す。けれど眠っている様子を擬態していると思われた女は、咳き込む素振りも見せずに幸せそうな笑みのまま、言葉をつむぐ。よく分からない言葉を交えながら、途中途中かすれて聞こえなくなりながらも、何かをつぶやき続ける。
 そのつぶやいている名前を聞き逃せば、ただ姉が弟と戯れているよくある会話のひとつ。そのつぶやかれている名前が、奥州筆頭である政宗の名前でなければ、という前提で。
 その場は静かで言葉もなく、ひとり言葉をつぶやき続けるを凝視していた。
 がつぶやく言葉は、弟である「まさむね」を心底愛している素振りを見せている。自分の庇護下にある弟から言葉がほしいと、ただねだっているだけだ。
 さすがに主君の名前を口にされた忍びたちは焦ったが、それもこれも現在地および自分の所属すら教えていない。主君の名前など教えられるはずもなく、なので寝言で主君の名前を囁くなと注意できるはずもなかった。
 不興を買ってしまっただろうと忍びたちが主君を見るが、政宗は呆然とした表情でを見ているだけだった。引きずり戻した小十郎と佐助が心配するほど、らしくなく奥州筆頭は呆けた顔をしてを見つめていた。
 先ほどの殺気と憎悪が嘘だったかのように、政宗はひょいとなんの前触れもなくの手を握りこむ。もう一度小十郎たちが政宗を引きずり戻そうとする前に、反射的と言える速さでは政宗を引っ張り、寝ている自分の上へと引きずり込んだ。さらには、抱き込んでその頭を撫で始める。
「……ッの醜女が!」
 現状を理解した小十郎が、とっさに罵声を上げる。政宗を誘惑しているとしか見えないその姿に、瞬間的に理性が沸騰していた。佐助も即座に政宗を救出しようとするが、政宗本人が掴まれていない片手を挙げた。制止のそれに、怪訝そうに佐助の眉が歪む。
 触れ合った政宗だけが確認できる、穏やかで凪いでいるの心音。眠っている人間特有の少し高めになっている体温。寝言なんだと言わんばかりの、かすかで浅い呼吸。
 正直、政宗を篭絡するには役者不足も良いところな胸の膨らみは、異性を抱きしめているとは思えないほどゆるやかな呼吸しかしていない。色気も足りない。顔も美人を見慣れた政宗からすれば、下も良いところだ。それが城下では並程度ですよといった美醜であっても、政宗を落とすには不十分すぎる。
 それに、政宗を拘束する腕は本当に拘束したいのかも怪しいほど緩い。後頭部を撫で笑い掠れ声で囁き、そしてまた寝息のような浅い呼吸音を出して、また気が向いたかのように囁いている。
 それに、それに。
「だ、…いす、きよ……」
 穏やかな心音のままに、告げられる好意。夢の中の弟に向けられる愛情の言葉は、こんな状況でありながらも政宗を見ていない。ただ、夢の中の「まさむね」へと告げられる睦言。
 政宗を心地よくさせながら、苛立たせる穏やかさ。
 自分の心情を分析し始めた政宗の耳に、囁かれるのは意外な人間の名前。
「ま…さむ……。さす……け、おにぃちゃ、は、…………ぅおうちにかえった……?」
 その場に居る人間の目が、すべてそばにいる真田忍隊の忍頭である佐助へと注がれる。政宗や忍び二人の目線はただの疑問の視線だが、小十郎の視線はへの憎悪も相まって、佐助まで焼き尽くしそうな勢いだった。
「……ええと、俺様無実なんだけど」
「てめぇの名前が出てんだろうが、しらばっくれると容赦しねぇぞ」
「いやー! 竜の旦那助けて!」
 何をじゃれているんだと傍目からは見て取れる、命がけの攻防を政宗たちはあっさり無視して、眠っているへと視線を向ける。
 またいくつか政宗や佐助の名前をつぶやいたは、何事もなかったかのように声を掠れさせてむにゃもにゃと更に深い眠りの底へと潜り込んでいった。
 政宗を抱きしめていた腕も解かれ、手を握っていた力もなくなりぽとりと布団へと落ちる。もう用なしだとばかりに、政宗を無視した深い眠り。
「おい」
 起き上がり姿勢を正しながらも、政宗はから視線を外さない。
 忍び二人は心得たように頭を垂れ、主君の言葉を待つ。
 政宗は片目でじっくりと穏やかな笑みを浮かべているを見つめ、政宗自身が思っていたよりもゆっくりとした流れで言葉を口にした。
「こいつは、いつもこうなのか?」
「はい、寝言と寝相の悪さはいつものことです」
「だれぞの名前を呼ぶのも、夢か現か……。良くあることでございます」
 先ほどの命をとる寸前まで攻防をしていたとは思えないほど、忍び二人の声も落ち着いたものだった。
 政宗の心はすでに落ち着きを取り戻している。主君の心情をきちんと受け取った忍び二人は、政宗が再度に手を伸ばしたのを見ても特に動くことをしなかった。
 政宗は眠っているの頬を手の甲で撫ぜ、こぼれた涙を拭う。
 そして先ほどのように圧迫する素振りを見せず、無防備なその喉元に触れた。政宗の手の跡がくっきりと残ったその喉元は、ゆっくりと眠るもののそれで呼吸を繰り返す。
 政宗は顔色を変えず、そっと自分が残した痣を撫ぜた。それまで外からの刺激に反応しなかったが、眠ったままくすぐったいのかクスクスと笑い出す。赤ん坊が撫ぜられ、喜び謳うような無邪気な笑い声。いまだに妻も子も居ない政宗だが、子供をあやすのに成功すると、このような気分になるのだろうかとしばらくの喉元をくすぐり続けた。
 笑い声に小十郎と佐助も目を見開いて政宗を見る。
 クスクスと嬉しそうに愉しそうに笑い声を上げるは、そのうち動物のあご下を撫ぜるような手つきに変えられても、赤ん坊のように身をよじって笑う。けれどその呼吸は、眠っているもののそれで起きないのが本当に不思議なほど。
 好奇心で政宗が手を離すと、しばらくむずがるように何かを探す素振りを見せた後、眉間に皺を刻んでまた静かに寝息を立て始めた。
 ああ、これはと政宗がため息を吐き出す。
「……どんだけ寝汚ぇんだ、こいつ」
「修正不可能なほどかと」
 ぺろりとの恩人である男は返す。離れている間も変わらなかったその寝汚さに、もういっそ尊敬の領域だと言外に込める。しっかり受け取った主である政宗は、うんざりした顔で小十郎を振り返る。
 小十郎の顔は自分の主を不思議そうな顔で見つめていたが、視線が向けられる直前に生真面目なものへと変貌を遂げる。その代わり身の速さに、佐助は自分の喉元をさすりながら良くやるよと呆れ果てた。
「小十郎」
「はっ」
 小十郎は平静を保っている主の言葉に、軽く頭を下げる。そして次に下される命を待ったのだが。
「……政宗様?」
 いつもなら打てば響く早さで下される命も、今回ばかりは遅かった。小十郎がうながしてなお、政宗は代わらぬ表情で寝汚いを見つめ続ける。
 なんとなーく、の処分に困ってんじゃないかなーと言うのは、忍び三人の推察。ここまで来てすぱっと殺すとも言えず、けれど奥州筆頭やら甲斐の忍びの名前なんかぺろっと寝言しちゃう人間を、そうやすやすと野放しには出来ず。
「……」
「……」
「……」
 困ってんだろうなぁと、忍び三人は目も合わせずに心を通じ合わせた。
「まさ……ね、さす…………け」
 更にはまたくすくすと愉しそうに笑い出す寝汚いの根性についても、困ったなぁと忍び笑った。
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