03.居場所


 誰か、とひとつつぶやいても応答はない。あっても怖いのでなくてよいのだが、はしみじみ巻物に綴られた文字を読み進める。
 もうだいぶこの文字にも慣れた。
 21世紀人間のにしてみると、戦があるような現在の滞在している世界で活用された書体は、どうしてもミミズがのたくっている様にしか見えず、こうやって集中しても半刻も忍耐が持たずに読むのを放棄したくなる。
 ごろりと畳に横になり、与えられた個室を見回してみるが、の集中力を戻してくれるようなものは見当たらない。布団と座卓と墨と筆と……おおよそ女の部屋の荷物とは思えない質素で簡単な荷物しかない。後は時代にふさわしくない、が持ってきたショルダーバッグくらい。
 この時代に来て生理も止まってしまったにとって、慌てることといえば本当に根本的な衣食住だ。
 それも今現在、人に拾われたことで解消されている。後はどう恩を返し、この時代で生きられるようになるか。どうやって自分の世界に帰るかだけ。
、進んだか」
「無理です」
「くっ、予想通りかよ」
 笑いながら音もなく部屋に降り立ったのは、全身黒で覆われた男。にとってはここ三ヶ月で見慣れた、の拾い主。衣食住の面倒を見てもらっているものの、飼い主だとは絶対に言いたくない男。
 口布で隠された唇の動きは見えないが、目は口ほどにものを言うの体現者らしいこの目の前の男は、忍びを生業としていると言っているくせに感情を目に乗せて話す。が新しい環境に不安がる暇もないほど、男は自分の喜怒哀楽をに伝え続けてきた。何気に面倒見が良い男だなと感心していることも、絶対には口にしない。
 本日はどこか楽しげに笑っている男が、寝転がっているの襟首を持ち上げる。
「猫じゃないんですけど」
「長が顔出せとよ」
「えー」
 男は忍びの一人、会社で言えば平社員。長は最初想像していた以上ににやわらかく接してくるが、は不機嫌さを隠そうともせず顔をゆがめる。
 男はふてくされたの顔を見て、また嬉しそうに笑う。
「いいじゃねぇか、長はお前が可愛いんだよ」
「拷問した上で可愛いも何もないと思うんですが、どうよ」
「それが仕事だし」
「軽い!」
 拾われて何も分からないまま、表情の窺えない目と顔の忍びの長に施されたのは、小説などを参考にするならとても軽い拷問だとも分かっている。男から後日改めて聞いた話からも、長としても本当に確認程度で、拷問というよりむしろ尋問だったというか、むしろただの質問じゃねーのという程軽いものだったのも知っている。
 けれど痛くて怖かったのは確かで、としては安全が保障されている内は反抗したくなる程度には、何か痛みを覚えるたびに呪詛をつぶやきたくなる程度には根に持っている。
「拗ねるな。行くぞ」
「拒否権がほしい」
「ねぇよ」
 げらげらと笑う男に、はそっぽを向いて抱き上げられる。拗ねたが自力で動かないのは良くあることで、男はさっさと音もなく長の元へと駆け抜けた。
「また駄々をこねたのか、
「原因は長だと思います」
 孫もいるだろう年齢の長は、の言葉に子供のわがままを聞く親のような、少し皺の多い顔を困ったような笑みに変えて笑い声をもらした。の横に座っている男も、いつものことだと止めもせずにため息を吐く。
「今日は主の御用で全員出払う。一人で留守をしてくれ」
 言い合いをしても埒が明かないのは承知で、長はさっさと話を進める。は予想もしなかった台詞に言葉を忘れ、まじまじと長を見つめたかと思うと、驚きとともに瞬きを繰り返してその後の動きを一切止めた。
 今まで一度たりとも、本当の意味で一人にされたことはなかった。監視の意味を持ったそれは、今現在保護の意味に変わっているが、常に自身は他人の視線にさらされている。としては言われなければ分からないが、今まで本当に一人きりにさせたことはないと、長も男も言っていた。
 だから大丈夫だと、だから何が分からなくとも安心しろと言外に告げられたその行為に、胸に火がともる様な温かさに、は見知らぬ場所見知らぬ風土だというのに、心底安心しきっていた。
 なのに、そのすべてがなくなる?
「どうしてですか、長。忍びすべてが出払うなど、尋常ではないと思います」
「そうだな。武器庫番やらなどは残しておくが、戦力はすべてだ。本来ならば多少の余力は残しておく」
「では、どうして」
 ずいと身を乗り出したに、長は小さくどこか喜ばしさを隠さぬ笑みを浮かべる。気づいたが口を開くより早く、長は男を呼んだ。
「説明はしなんだか」
「連れてきた方が早いと思い、まだ」
「そうか」
 淡々とした会話は、すぐに矛先をに戻す。長の目が、しっかとを見つめた。
「お前が来て、初めての大きな戦になる」
 言われた意味が今ひとつピンと来ず、は長の次の言葉を待った。
 長は言葉を選んでいるのか、いつもよりずいぶんゆっくりとその舌を動かし、視線はから何度か離れ、そして次の言葉を口にした。
「忍びは諜報、暗殺などを主に執り行う。お前を連れて行く道理もなく、今までは他のものに任せて留守をさせていた。けれど、今回はお前に割く人員がいるほど、余裕のあるものではない。戦なのだ」
 なんとなく、は今まで以上に大切にされている自分を実感した。
 長の目は厳しく、まるでを値踏みする初対面のときのように厳しいものだが、本来はこのような居候で素人で足手まといに一々説明などしないだろうに、わざわざこうやって長自ら現状を、それも忍びとしての現状を教えてくれているのだ。
 大事にされていないわけがない。
 は静かに乱れた正座を整え背筋を伸ばし、姿勢を改めると静かに床に両手を着いて頭を垂れた。
 誰も口を開かない、静かな時間。
 の声は、本人が思っていたものよりずいぶん滑らかにこぼれ出た。
「身に余るご好意、ありがたく頂戴いたします。長や皆々様のご武運とご帰還を、この屋敷にて心よりお待ちしております」
 作法などはまったく知らず、けれどもどうにか丁寧に心よりの言葉をひねくりだし、は自分の額を畳にそっと触れさせた。
 ふつりと空気の中で何かが切れた音がして、男と長が小さな小さな息を吐き出す。笑いを含んだその息に、切れたのはこの場の緊張だとは感じた。
「帰ってきたときに死体ではつまらぬ。じゃじゃ馬なそなたは、決して外に出るな。生きて屋敷での時間をすごせ」
「お言葉のままに」
 先ほどとは打って変わった、まるで愛しい孫に告げるような好々爺な声に、は一も二もなく頷いた。上げた視線の先、長は伸ばした手での頭をぐりぐりと撫で回す。まるで孫、まるで子供、まるでペットのようなその扱いが、いまいち自分の現状を忘れそうで怖かったのだが、は大人しく撫でられるに身を任せていた。
「今度会うとき、長がご無事でなくば殴って差し上げます」
「望むところよ」
 軽口を叩きながらも、は戦を肌で感じることが出来ない分、不安が募っていくのを感じていた。


 一人減り、二人減り、屋敷で暮らすはずの忍びの姿が日に日に見えなくなっていき、は不安でたまらなくなっていく。
 を拾った男は、もう三日も前に姿を見せなくなり、長はここ数日声しか聞こえない。男も女ももともと足音をさせない分、物音を立てない分いるかいないのか、姿を見ない限り判別が付かない。
 そしてようやく、は思い当たる。自分が皆の言う「主」が誰だかわかっていない、その事実に久々にぶち当たった。
 戦国の武将は、有名どころしか分からない。しかし、屋敷の外に出られないからここがどこかも分からない。
 忍び装束は所属ごとに違うのは分かっていたが、その所属である名称すら知らず、忍び達と暮らしていながら、は怪我人だった男や恩人の男を例外として、まともな忍び装束を見たことがなかった。屋敷にいる間は任務はないわけで、誰も好き好んで着ていないのだ。なので、男の格好が仕事着なのか趣味なのか、はたまた仕事着の別形態なのかすら知らないで居る。
 皆の言う「主」の印か何かが分かれば、まだ推測のし甲斐もあるのだが、忍びがそのようなものを持ち歩くようにも見えず、聞いても誰もがのらりくらりとかわしてくれる。
 情報遮断は、の身の安全を第一にした結果。分かってはいたが、もどかしくては息苦しくなる。
 現代社会では成人を過ぎているが、こうやって屋敷の中で好きにしろと仕事も与えられず、見つけても取り上げられる始末で、食っちゃ寝を繰り返して三ヶ月も経ってしまうと体が鈍くなる。特に運動が得意というわけでもなかったのだが、目に見えて足腰が弱っているのをは実感していた。多少忍びの暇つぶしに、かまってもらって遊んだりはしているが、どうにもこうにも自分自身の脆弱化を実感していたは、人が少なくなるならと開き直ることにした。

 戦の前後、人が少ないなら運動しちゃうぜ。

 とりあえず屋敷内、と行動範囲を決められているので、この隙に以前中断させられていた屋敷探検を再開する。
 さらには勝手に部屋の前にある小さな庭を、好みに模様替え。岩やら樹木やらは動かせないので、ちみちみ植えなおしたり水をやってみたり、色合いを考えて移動してみたりと、ガーデニングに勤しんでみる。
 見張りがいないなら取り上げられる心配がないなと、にとって阿呆のように広くて長い廊下も雑巾がけで遊び倒す。制覇するのに一ヶ月かかった。
 屋根に上って忍者みたいにお昼寝しようとするが、これは武器補充に戻ってきた忍びに落ち掛けている所を目撃され、こっぴどく叱られた上にセクハラまがいの仕置きまでされてしまう。
 時折補充や様子見に戻ってくる忍びたちと言葉を交わしつつ、本格的に人がいなくなったのは拾い主で恩人ある男が消えた二ヵ月後。武器や重要物の近くには警備の忍びが配置されているが、基本は監視や保護のない完全なる一人になっていた。

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