02.声
ふっとの口の端が上げられる。自嘲するような笑みながら、目は好戦的に目の前の男を睨みつけていた。
が傷口を吸った男ではなく、その同僚である別の男をは睨みあげていた。言うなればを拾った男、の恩人、の……飼い主。
「ま、そんな目で見んなや。一応疑い晴らしてやったろ?」
「一応ですよね、本当に一応! なんで貴方の同僚を応急処置した私が、うんたらかんたらと訳が分からない理由で拘束されるんですか。私は現在地などを知った上で、おうちに帰りたかっただけなひ弱な一般庶民ですよ!」
「……あのな、お前それが飼い主に向かって言う言葉か?」
「誰が飼われてるかー!」
と叫びつつも、は内心では飼われている発言を仕方がないと諦め始めていた。
傷の手当てを終えて少しして気絶した男、その男の烏が呼んできた別の男はと怪我人をあっという間に担ぎ上げると、景色を堪能する間もなく見知らぬ屋敷へとを運んでしまった。
噛み合わない話からは推察してみたが、怪我人やを連れてきた男および(気配も感じられないが山ほど共同生活をしているという)屋敷の住人たちは、全員しのびらしい。しのび、忍び、忍者。信じられないと眉をひそめたに、老齢ならがも背筋の伸びた良い男風な長と呼ばれた男は、すべて真実だとの主観的に拷問まがいな尋問を施して見せた。一見すると拷問前と後のに身体的な損傷は見られないのだが、ひどく苦痛を感じ自尊心を傷つけられる行為だったと、は長と呼ばれる男の仕打ちを一生忘れないと誓った。
とにかく、屋敷の忍びたちをそっくり雇っている主の名前や軍名などは教えられないがと前置きされ、ここは戦の頻発する世だと語られたは、いまだどこかふわふわする頭を捻った。唸った。あっさり「そうですか」と頷いた。
男達はそんなの様子にいささか驚愕の目と不審そうな疑惑の目を向けてきたが、は特に何を言うでもなく長を見つめ返していた。
そして、どうしてここに居るのかも戦の行われる世での生き方も分からないは、をつれてきた男の助言により男の下で生活をすることとなった。
「……なんで貴方が私とあの男の人を拾いにきた忍びだったのか、心底己の不運を呪います」
低い声で呪詛のようにつぶやくを前にしても、拾い主兼飼い主である男は口布で顔の大半を隠したまま笑う。
「でも、俺は優しいだろ?」
「ええ、ええ。ものすごく優しいですよ!」
は声を荒げながらも、男の笑顔に多少なりとも安心し始めている自分を感じていた。
拾われてから、もう一週間が経っていた。
「つーわけで、はい」
「悪いな。ついでにこれを」
「りょーかい」
部屋の外で声がする。
あてがわれている男の部屋の一角で、はうつらうつらと舟をこいでいた自分に気づき、慌てて外を見上げて時間を確かめた。まだ日が暮れる気配もない昼間だと分かると、寝ていたのは何時間もなかったのだと安堵する。そして、聞きなれない若い男の声と、長の会話に耳を澄ませてみた。
「んーじゃ、これな。一応対象はこっちで確保してたから、こことここ融通してほしいんだけど」
「もうちっとまけろ。お前さらにごうつくばりになってないか?」
「やだなー、俺様とっても謙虚よ? 引き渡してやったじゃん」
「……」
「……あ、なにその目」
にとって聞き覚えのない声でも、長にとっては良く知る部下の一人だというのは、良くあること。がこの世界、この屋敷に慣れていない証拠のようだが、若い男はどうやら部下ではないらしいと見当をつけた。
だってなんだか、長が押され気味だ。
良い気味だと忍び笑いをこらえていると、ふっと外の空気が変わる。どこかひんやりとしたそれに、の体も反射的に強張った。
「……で?」
幾分か低くなった若い男の声に、長の沈黙が連なる。きっと今、若い男は長に目配せか何かをしているはずだと、は緊張の中想像力をたくましくして、二人の会話姿を想像してみる。
「……危険はない。が、持って行き先もない」
「ふうん?」
長の声は、が聞いたこともないほど苦々しいものだった。たった一週間、それも声を聞いたのは両手で足りるほどだったが、現在の会話が長にとって良くないものなのはにも理解できた。それに返す若い男の声は、どこかおもねるような雰囲気での背筋を凍らせる。
「……ま、あんたがそう言うなら俺様は別にいいけどさ」
「……」
なぜだか、聞いてはいけない気がした。けれど、の体は動かない。
場の空気が、冷たくゆれる。
「大将や旦那に楯突くようなら、俺様が処分するだけだし」
それがどういう意味か、分からないほど子供なではなかった。暗に、殺害をほのめかしていた。そして、はその若い男がぼんやりととある人物に結びつきそうになって、目を見開いた。
「猿飛」
「はいはい」
長が厳しく叱咤するように、低い声で誰かの名前を呼ぶ。その名前はの耳に届かず、若い男の声は聞こえなくなった。じゃり、と何かを踏む音がの居る部屋に近づいてくる。
若い男だったらどうしようと、はようやくその体を動かし体を精一杯縮めて自分を掻き抱いた。
部屋の扉である障子に、人影がひとつ浮かぶ。見覚えのある長の影に、は小さく息を吐いた。
「」
けれど、優しく気遣うような長の声を聞いた途端、は口が利けなくなる。震えだす体に、自分が怖がっていたことをようやく知った。
「」
長の呼び声がさらに優しくなる。忍びの長ならば、の状況など気配やらなんやらですべて分かっているのだろう。はぶるぶると無様に震えだす自分を止められず、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。
いつの間にか長の影は消え、が意識を取り戻したのは頬に触れる手の感触だった。
「……起きたか」
優しく、赤ん坊や愛しい人に向けられるような、そんな優しい気遣いの声が降る。は緩んだ頭のねじのままに、笑みを浮かべた。
「……うん」
の頬に触れていた男は、自分が拾ったを小さな子供にするように膝に乗せ、抱きしめていた。強すぎず弱すぎず、涙の跡が残るの頬を親指で優しく撫でた。
くすぐったそうに嬉しそうに、が笑う。まだ寝ぼけたようなふわふわの雰囲気を持ったまま、笑う。
「……もう少し、眠れ。疲れたろ」
「…………う、ん」
男の手つきの優しさに、は抵抗することもなくまどろみ始め、やんわりとまた眠りの湖へと沈み込んでいく。
「眠れ、眠れ。……面倒見てやるから」
「……うん、うん……」
優しい優しい、ともすれば泣き出しそうな男の声に、は満面の笑みで頷き続ける。沈み込んでいきながらも、幸せな感覚に否定の言葉は出なかった。
「」
優しく慈しむように囁かれた自分の名前に、は意識を手放した。