01.あくび


 くわぁ、と自然の摂理に逆らわずあくびをひとつ。手のひらで隠すこともせず、少々間抜け顔をさらしながらあくびの余韻を味わっていたは、横断歩道の信号がそろそろ青になるのを見つめていた。
 車側の信号が、チカチカと見慣れた点滅をみて心の中でカウントを始め、歩道側の信号が青になった瞬間をきちんと目視し、周りに居る人々と同じように横断歩道の白とグレーの道を歩き始めた。
 横断歩道の真ん中で暴走車が来ちゃったらどうしよう、などと特にそんな音も聞こえないまま横断歩道を進んでいく。そしてもう一度、そして今度は手で隠しながら欠伸をひとつ浮かべて、歩きながらも反射的に閉じていたまぶたを押し開ける。
「…………」
 目の前には見知らぬ男がなにやら転がっており、しかも腹部からは赤黒い液体が流出中、しかもその様相は忍者のコスプレですかと問いかけたくなる格好で、真っ黒な服装と周りの木々のコントラストが不穏な空気をかもし出していた。
 踏み出そうとしていた左足を、はそっと踏み出さずに右足にそろえる。ほんの数メートル眼前のむき出し地面に転がり、をこれでもかと目を丸くして凝視している男と視線を合わせたまま、欠伸によってにじんでいた自分の目じりにある涙をぬぐう。
「……ええと」
 ようやく周囲に神経が向けられてきたのか、鼻をつく鉄錆の匂いに小声ではささやいた。
 男の目はゆるゆると平常時だろう大きさに戻っていったが、一転して警戒心もあらわな無機質な視線へと変わっていった。
 けれど、はふわふわと現実味のない感覚の中で、この人結構美形かもと現実逃避を始めており、男の視線に特になんと言う感想も抱かなかった。
「あの、ここどこですか?」
 問いかけた次の瞬間、の持っていたショルダーバッグに、強い衝撃が走った。バッグはあっという間に肩から外れ、男の頬横を飛んで樹木へと叩きつけられる。一瞬にして肩から居なくなったそれを見て、は携帯電話の安否にまず頭がいったが、少ししてそんな場合じゃないと頭を切り替えて背後へと視線を向けた。
「……?」
 誰も居ない。
 の目には誰も映らなかった。あるのは生い茂る木々のみで、ここは森の中ですよと主張するように木々ばかり。青々と生い茂った草木が憎らしいほどまぶしい。
 今度は飛んでいった荷物を見るが、樹木にぶつかったはずの荷物はしっかりと樹木に縫い付けられていた。どう見ても矢。テレビでしか見たことのなかった矢は、ショルダーの付け根付近にしっかりと食い込み、バッグは樹木に縫い付けられていた。
「……ええと……?」
 とりあえず辺りへとぐるりと視線をめぐらせて見るが、大地の息吹しか感じられないほど木木木の雄々しく生きている山の中だなぁと実感したは、目の前で地面に横たわっている血塗れの男へと視線を戻した。距離をとったまま、はゆるゆるとしゃがみこむ。
「あの、誰か呼びますか?」
 おそるおそる出したの声だったが、警戒心もあらわな男の目は揺るがない。けれどは鉄錆の匂いをかぎ、ああ、この男の人の命って危ないんだなぁとぼんやり現状を認識する。自分のバッグが弓矢で射られたことなどの方が非現実的で、自分の背後からの危機にはまったく頓着していなかった。
「あの、止血くらいなら出来ますから、近づいても良いですか? というか、止血しないとお兄さん死んじゃいますよ、だめですよ、むしろ私が助けてほしいんですから、お兄さん生きてくださいよ」
 ぼんやりぼんやり、頭の中にもやがかかったようにの口からは失礼極まりない言葉がこぼれる。けれど口調はおそるおそる、倒れ伏した男におびえているように震え、ようやく男の目からあからさまな警戒心は薄れ、怪訝そうなものになる。
「助け……?」
 ようやく聞こえた男のかすかな声に、ははじかれたように嬉しそうな笑みを浮かべる。けれど衝動的に立ち上がろうとした体を押さえ込み、目だけをきらきらと希望に輝かせて男を見つめた。
「はい、目を開けたらこんな見知らぬ山中だったので、色々教えていただきたいんです。ここ、どこですか? とか、初歩的な質問からになってしまうんですけど」
 あ、じゃあとりあえず止血しちゃいますね。いやぁよかった、バッグの中に買ったばかりの生地がいっぱいあるんですよ。
 緊張していた表情をくずし、は当たり前のように立ち上がって男へと近づく。男が身じろぎをしてうめくと、慌てて男の下に駆け寄ってしゃがみこんだ。
「無理しちゃだめですよ。ええと、私は治療の達人とかではないので、本当の本当に止血しか出来ませんし。とりあえず止血して、どなたか助けを呼びに行って来ますね」
 男の方に触れようと手を伸ばし、その寸前で軽く戸惑うようには言葉を続けた。触れても良いものだろうかと、いまさらな困惑顔を浮かべて男の返答を待っていた。
 男はを見上げ、自分の頬に当たる地面の砂利の感触に顔をしかめる。どこをどう見ても、目の前の女は胡散臭く装束も見たことがないキテレツなもの。けれどその目は、偽ることが得意とは言いがたかった。男を追いかけ、追い詰め、情報と命を奪おうとしている者達の統率されたものとは、まったく違ったものだった。
 男のしかめられた顔に、の顔が不安で歪む。
「私、あの、目の前で死んでほしくないだけですから。あの、私もあなたも怪しいもの同士ですし、大丈夫ですよ」
 何がどう大丈夫だというのか。
 男の突っ込みは声にならず、はますます男の容態が危うくなったと勘違いを始めて、両手を右往左往し始める。怪しいことこの上ない動きだが、男は諦めをこめてため息を吐き出した。胸に刺さった骨がきしむが、これくらい慣れた傷みだ。
「……頼む」
「……! 任されました!」
 では、失礼しまーす……。
 男の言葉を皮切りに、は喜々とした表情で男の衣装に手をかける。けれど手つきはおっかなびっくりで、男の持っている暗器に気づくたびに飛び上がって驚いていた。そして男の衣装の重さ、見た目以上に色々隠し持っている事実に目を丸くして、腕がつりそうになりながらも必死に男の服を剥いでいった。
 そしてふらふらになりながらも立ち上がると、男の頭上近くに縫い付けられているバッグから刺さっている矢を思い切り引き抜く。一度や二度では引き抜けないそれも、は木の幹に悪いと思いつつもぐらつく乳歯を引っこ抜くときのように、ぐりぐりぐちぐちと矢を動かし、どうにかこうにか樹木から矢を引き抜いて、バッグの中身を男の前にさらした。
 男の目は驚愕に見開かれる。
「な……!?」
「あ、動かないでください。まだ止血できてないんですから。意識失われたら、私流素人の止血方法しちゃいますよ。本気でじっとしててください」
 男が思わず上げた声に、は特に頓着せずバッグの中を検分する。これは使える、これはだめ。淡々とこなされていく作業はほんの数十秒で終わり、ひとつの布地を、はあっさり縦に引き裂いた。
「お兄さん、ここって毒とか入ってそうですか?」
 ここ、と男の傷口を指差したに、男は見開いた目をゆるゆると細めていく。疼く傷口の熱は、当たり前のように毒物の存在を知らせていた。即効性ではなく遅効性のものだが、まずは体力を奪っていく類のものだからたちが悪い。男は舌打ちをひとつ鳴らし、短い声で肯定した。
「そっか」
 は短く納得の声を上げ、そして男の傷口に躊躇いなく口をつけていた。男は突然の事態に唖然と動きを止める。自分の腹部に女の顔。そしてその唇も舌も傷口を丹念に拭い抉り、痛みが強まったことに男はうめき声を上げてしまう。
「……っぺ! と、下品ですけどちょっと我慢しててくださいね」
 は唇で舌で吸い出した血液を、何のためらいもなく地面へと吐き出すと、再び男の傷口へと吸い付く。口の周りも中も他人の血で染め、さらにはそこここから染み出す小さな傷からの血も、その顔や手で受けていた。
 傷周りの体を押さえ、痛みで動く男を力いっぱい押さえつけながら、は自分がその血と毒を飲み込まぬように苦心しながら、吸い出すことをやめなかった。
 時折によって引き裂かれた布地が男の汗を拭い、の口の中を拭う。何度も繰り返された、ある意味排泄作業を男はやんわりと押しとめる。
「……もう、大丈夫だ」
「じゃあ、傷口洗いますね」
 男の荒い息に眉をひそめただったが、男の表情が幾分やわらいでいるのを見ると、笑みすら浮かべてまたバッグをあさり出す。
 取り出したのは、の世界ではどこででも売っているお茶のペットボトル。まだ買ったばかりだというように、中身はほとんど減っていない。は男に一言断ってその中身で傷口を洗った。まだ残っているだろう毒が消えるように、どこか祈りにも似た気持ちで傷口をすすいだ。
 そしても自分の唇を手のひらにたらした茶ですすぎ、それを捨てた後もう一度手のひらにたらした茶で口内もすすいだ。ぺっと遠慮も恥じらいもなく茶を吐き捨てられた自分に、は命の前に女を捨てることってたやすいなぁとずれた事に感心していた。
 そしてバッグから新しい生地を取り出すと、長さを確かめて縦に引き裂く。気に入って買った生地だったのだが、自分の服になるより人の命を守るほうが嬉しいだろうと、はいくつか傷口に当て布染みた生地を押し当てたまま、包帯代わりに引き裂いた布地を巻きつけ始める。
「あ、特に薬とかって塗らなくてよかったですか?」
 間抜けた声で男の顔を見つめたに、男はゆるゆると疲れたように息を吐き出す。顔色は先ほどの青白い顔より幾分か生気が戻っているが、やはり見知らぬ女に傷口を吸われた男の精神的疲労は大きい。これでも玄人の忍び。自分の矜持が多少なりともずたぼろなのは致し方なかった。
 男は自分の荷物を頭の中で確認し、持ち物に今回使う解毒薬がないことを告げる。はあれば使うのだなと頭の中に書き込みつつ、慣れない作業に苦戦しつつ男の体に包帯代わりの生地を巻いていった。
「申し訳ないですが、ちょっと体を傾けていただけますか。あ、そうです。むしろもう膝に体乗っけても大丈夫ですよ」
「……」
「っとと。ここ、押さえててもらえますか、ありがとうございます」
「……っ」
「あ、痛かったですよね。ごめんなさい。ええと、何度も動くって辛いですよね。……起き上がって、木に寄りかかっていただくのはどうでしょう」
「……っ、……これで、いいか」
「ありがとうございます」
 淡々と時間は進み、男の胴体はなにやら明るい色合いの生地で覆われ、なんとなく顔色も明るく見える。は満足げに息を吐き出すと、笑顔で男の額に触れた。異性の傷だらけの胴体に触れたことにより、遠慮と羞恥はとっくの昔に彼方へとぶっ飛んでいた。
 男はもうすでに警戒心を解き、何をされるのだろうとぼんやりとを見つめていた。は手のひらで男の発熱具合を確かめると、眉をしかめて声の大きさを引き絞る。
「お兄さん、仕事仲間の方とかに連絡取れないですか? すごい熱」
「……」
 先ほどから頭痛がしてきた男にとっては、ありがたいほど小さな声音。何も言っていないのに声を小さくしたに、男は目端が利くのかとを考察しつつ、取りあえず物は試しと手元に自分の烏を呼んだ。
 先ほどから何度呼んでも降りてこなかったところから見ると、ここが危険なのか烏がやられたのかと思っていたのだが、男が呼ぶ動作と音を二三度繰り返すと、わずかな怪我を見せつつも烏はすんなりと男の目の前へと舞い降りた。
 は目を丸くして降り立った烏を見つめ、主の命を聞きつつ自分を気にしている烏の様子に笑顔を浮かべる。
 特に目端が利くわけでもなく、声を落としたのは怪我人の前で声の音量を下げるのは常識だとがいまさらながら気づいただけで、烏に微笑んだのはただたんに従順ながらも好奇心が見える様子がほほえましかっただけ。
 だが、男の目にはが烏にも動じず、ましてや追い払う動作もしなかったことから、の素性を好意とともにほんのりと誤解し始めていた。
 声もなく飛び上がった烏が、気絶した男の前でおろおろとするの元に戻ってくるまで四半刻。
 気絶した同僚と、今にも泣きそうなを拾い上げ持ち帰る男が来るまで、同じく四半刻。
 の最初の疑問である、ここがどこかと教えてもらえるまでは、結構な時間がかかった。
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あとがき

 なんだかサバイバル。でも頭の中はふわふわ。