駒鳥は言葉を忘れる

、ルッチが話したいらしい。歩けるか? クルッポー』
 場違いなほどひょうきんに、けれど痛いほど真摯にルッチがハットリの声音で囁いた。
 抱きしめられていた体が離されると、ぽっかり胸に穴が開いたみたいに寂しくなる。
 はしゃくりあげながら、罵倒したい思いを抱えながら小さく頷く。ルッチの顔を見ないように視線で避け、鼻水をすすった。
「……どこに、っ、いく、の、」
 ひっくひっくとしゃくりあげながらも、はあたりを見回す。住人たちはすでに解散し、残ったのは無残にもつぶされたガレオン。船大工の技術の結晶、ある意味ルッチとカクが砕いた理想の終わりの姿。
 冗談じゃないわ。本当に、冗談じゃない。
 はルッチの言葉にひとつ、息をするのを忘れた。
『どうした?』
 囁かれる声はやさしく、陽気な鳩男のそれ。けれど言われた単語は、にとって眩暈がするような事実への足掛かり。
『ブルーノの酒場だ』
 言うの、私に言うの?
 喉元まで競りあがってきた問いかけを、は涙目で無理やり吐きそうになりながらも飲み込む。言ってはいけない、まだ、ルッチにばれてはいけない。
 理性が歯止めをかけるが表情は偽れない。ルッチが心配そうに顔を覗き込んでくるのを、片手で制して歩き出した。
「……どっちよ」
 不機嫌を隠そうとしないに、ルッチも何も言わずに視線で示した。人通りのない倉庫の間を通る、少々暗い細道。なんてことはない細道。何度も遊びで逃げ回った際に使った事のある道。多少表通りより目つきの悪い人間達が通る確率は高いが、そんなものたちは大体一週間もこの場所に滞在できれば御の字だ。職長達か、フランキーたちにつぶされるからだ。

 ああ! ああ! ああ!!

 叫びたくなる衝動がまたせり上がってくる。は吐き気をこらえるように口を押さえ、体をくの字に折って足を止めた。ルッチが慌てて体を支えに手を伸ばしてくるが、今度はも避けることが出来なかった。ぐうっとせり上がってくる吐き気と叫びをこらえるので手一杯だ。
ッ!?」
 小さいけれど、確かにの耳と胸に届く声。
 焦った『ロブ・ルッチ』の声が名前を呼ぶ。を呼ぶ。
 その声には確かにへの愛情がめいっぱいこめられていて、大切な人間の変調に焦る声そのものでの涙腺をこれでもかと殴打する。胸がきしむ。吐き気とは別に、叫びたくなる衝動とは別に痛くなる。声を偽ることすら忘れたその焦りようが、演技ではなく本気だとに伝えてくる。ああ、愛されているとは自覚しつつも、それでも吐き気と叫びの衝動は収まらなかった。
 ルッチの腕の中で体が強張っていく。俯いたに埒が明かないと思ったのか、ルッチは問いかけることもせずにを抱えあげると、音もなく駆け出した。それは職長にはありえない、職長だと思われているだけの人間ではありえない動きだった。音もなく、言葉もなく、聞こえる風を切るような音すら無音と言っていいような短い時間の移動。
 通り過ぎていくという言葉が面倒くさいといえるほど、あっという間に切り捨てられるかのように通り過ぎた風景に、は笑い出したくなった。吐き気と叫びに堪えながら、けれどまったく自身の体が揺れることなく移動している事実に、泣きたくなった。

 ロブ・ルッチはを愛している。この上なく愛している。
 も愛している。職長だろうがCP9だろうがロブ・ルッチを愛している。

 分かりきっているのに、分かりきった事実だというのに涙がこぼれた。
 それを苦痛のためだと誤認したのか、ルッチはの顔を見ると顔色を青く変えて速度を上げた。の視界の端に、紙の上で『ロブ・ルッチとカクがロビンに最終確認をする』あの場所が映った。
 あの話のまま誰も死なずにすめばいい。けれど、現実は流動的だ。だってロブ・ルッチに恋人が居るというような描写はなかった。あったらある意味、全国から断末魔の悲鳴がこだましていただろう。
「ブルーノ!」
 転がり込むように、ルッチがブルーノの酒場へと足を踏み入れる。けれどにさしたる振動は加わらず、けれど酒場に居る人間にはそれ相応の衝撃が走った。
 人気の少ない酒場に居たのは、カクとブルーノ。けれど今の時間はまだ明るい、誰が誤って酒場に入ってくるか分からない時間だというのに、今目の前の男はどんな声で名前を呼んだ?
 二人の顔が物語っていた。ロブ・ルッチは今は素の声で話していたのだと、明確に驚いていた。
 けれどルッチはそれに構う素振りもなく、けれど音量は先ほどよりささやかに下げ、さっさと2階へと足を向けた。
「借りる」
「あ、ああ……」
 良いとも駄目ともつかない返事も聞かぬまま、ルッチは音もなく階段を駆け上がる。勝手知ったる他人の家とばかりに客室へとルッチは足を進め、見事な足捌きでドアを開け布団を捲り上げてを横にした。その動きはそれまでとは違い、ふんわりとよく言う壊れ物でも扱うような振動の少ない動きで、は吐くことなく布団の上に収まった。
「吐くか」
「…………だい、じょうぶ」
「水は」
「いる」
 即座に姿を消したルッチは、水を揺らめかせながらすぐにグラスに水を注いで戻ってきた。起き上がろうとするを制し、サイドテーブルにグラスを一旦置いて、ルッチが支えて軽くの背中に大き目のクッションが挟み込まれた。角度の付いた上半身でグラスを受け取ったは、力なくルッチに笑いかけながらグラスの縁に口をつけた。
「……おいしい」
 まるでこぼれた泣き声のように、のつぶやきは小さなものだった。

 この水の一杯も飲めないような、社屋を巻き込む業火が発生する。
 仲間の無事な脱出のため、逃げ回っていた二十年ほどの時間を水泡に帰そうとする女性が居る。
 そんな気遣いなんて大きなお世話だとばかりに、仲間を助けるために世界に喧嘩を売る人々が居る。
 仲間だと思っていた人間達の裏切りに、元から仲間ではなかったという態度に、追いかけてくる人々が居る。

 が視線を上げると、心配そうに眉根を寄せて顔を覗き込んでいる恋人の表情が見えた。今回の騒動の首謀者の一人で、にまだ本職の話をしていない「人殺しも許可されている」政府の役人、……けれどやっぱりの恋人であるロブ・ルッチ。
「どうした?」
 本来の声を惜しげもなく聞かせてきて、そして大きな手がの額に触れる。熱を確かめるように、不調のひとつも見逃さないようにと、手と目がに触れてくる。
 胸に鉛がずしりと沈んだように、は後ろめたくなる。
 後ろめたさを感じるのはルッチのほうだと思いながら、けれど確実に彼の邪魔になる言葉を先ほどまで公衆の面前で吐いていたことを思い出す。
 でも、だって。
 としては、言い訳でなく正真正銘の真っ当な行動だと自分の行動を悔いたくない。けれど、後ろめたくて後悔してしまって、ルッチに捨てられるのではと怯えた瞬間も確かにあったのだ。
「好き」
?」
「置いていかないで」
 焦るようにサイドテーブルにグラスを置くと、両腕を伸ばしてはルッチの首に縋りつく。即座に背中に腕を回し、なだめるように触れてくるルッチの手の平に、の声はますます掠れていってしまう。
「ルッチ、ルッチ」
「どうした。大丈夫だと言っただろう? おれは怪我ひとつない。大丈夫だ」
 なだめようと穏やかな声で囁き、ルッチはを疑うことも無く抱きしめる。見当違いな宥める言葉を口にして、を落ち着かせようと笑みを浮かべて見せる。
 触れ合う肌から伝わるその動作に、はますます泣き出してしまう。
 この優しい恋人を疑うことなど出来ない。けれど、何の罪も無い人たちを生贄として見捨てることも出来ない。
 二兎追うものは一兎も得ずと言うが、は二兎とも追いかけてしまった。一兎は手に入っているとはいえ、いつ離れていくか分からないのに。愛情の上に胡坐をかいて、彼を背後から狙撃するような真似をしてしまった。
 愛していると言いながら、それでも昔読んだ紙面での思慕を忘れられない。彼らへの憧憬と一方通行な愛情を捨てきれない。
「ルッチが好き、ルッチの傍がいい、ルッチを愛してる」
?」
「るっち、嫌だ、捨てないで。ルッチ、置いてかないで」
、どうした。何があった?」
 心配を顔に浮かべて宥めてくるルッチに、答えられない質問内容には首を横に振る。
 何があっただなんて言えない。愛してる気持ちに変わりはない。けれど、少しでも早く彼らの濡れ衣を晴らしたくて堪らない。でもルッチに捨てられるだなんて堪えられない。
 この体温を手放したくない一身で、はルッチに縋りつく。
「ルッチがなにをしようと、どう思ってようと好き、大好き、愛してる」
?」
「でも、だから、ルッチも」
 涙で凝った喉はひりついて、上手く言葉を紡げない。体を離されて顔を覗き込まれても、それに反応も返せない。
 ルッチのほんの少し真剣味の混じったその目の意味にも気づかない振りをして、は涙をこぼしながらルッチに手を伸ばす。抱きしめていてとでも言うように、迷子になった子供が見つけた親に縋りつくように腕を伸ばす。
「私がどんな人間でも、何をしても愛していて」
 不可解だと瞬いたその眼の色に、ほんの少し先の未来で切り捨てられる自分を想像してしまい、は必死で繰り返した。
「お願い、何があっても愛してるって言って」
 愛してるの、愛してるのルッチ。捨てないでルッチ、傍に居てルッチ。
 駄々をこねる子供のような繰り返しに、ルッチは静かにを抱きしめた。
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