00:過去を憂い、未来をねだる現在

出発前

 全て忘れてしまえば楽なのだ。彼もその記憶を持っていろと強制する事はなかった。むしろ捨ててしまえと苦々しく言い捨てていた。お前が縛られていいのはその記憶ではないと。お前が縛られていいのは自分だけだと、傲慢にも言い放っていた。泣きそうな顔で。母親に捨てられそうな男の子の顔で。
 だから私はますます忘れられなくなった。彼のそんな表情を思い出すたびに、きっと記憶はじくじくと痛みを伴って皮を破り、身を出して血を流すのだ。空気に触れて悲鳴を上げながら、それでも血を流してしまうのだ。さっさと表皮の奥に引っ込めばいいものを、身を出して血を流すのだ。彼のそんな珍しい表情を覚えておきたいがために、一番封じ込めたいはずの記憶ごと浮上させてしまうのだ。馬鹿以外の何者でもないだろう。
「私、忘れないわ」
 そういったときの彼の顔を、どうか誰か写真や何かに収めてないだろうか。
 とうとう母親に捨てられたといった男の子の顔だった。そのとき私の胸に浮かんだ感情をどう名付ければいいのだろうかと、長い間分からなかった。ちなみに今も分かっていない。なんとなく、と適当に割り振っただけだ。
「でも、ありがとう」
 静かに告げると動きが止まり、表情が一気に赤くなる。持っていたコーヒーを手からすべり落として、おろし立てのズボンとその下の足まで、きっと熱くさせてしまった。
 上がる悲鳴に苦笑してタオルを持ってくる。そして適度に拭くとちゃっちゃとバスルームに追い立てた。文句を言う口は指一本でふさいで、ズボンを脱がずにシャワーの水を当てるのよと言って、ドアを閉める。
 バスルームから上がる悲鳴と文句のオンパレードに、今度は口をあけて笑ってしまう。そして何の気なしに思い出したことを行動に移す。手に取るのは思い出。

 可愛い弟たちは元気かしら。妹は元気かしら。
 指折り数えた帰還の日を、いつから数えなくなったのかしら。

 胸元のポケットにいつでも忍ばしてある写真を取り出すと、その中にあるのは溢れんばかりの思い出と愛しい下の子達の存在。

 想い出に浸ろうとしたところで掛けられた声に、多少気分を害されながらもドアをノックする。
「なぁに」
 けれど返事はなくて、もう一度ノックする。もう一度名前が呼ばれた。
「あけるよ」
 埒が明かないとみてドアを開けると、バスタブに座り込んでズボンの上から冷水シャワーの彼が居た。上着は脱げばよかったのに、それも着たままでぶすくれた顔でこちらを見上げてきた。拗ねた子供のようで、また笑みが浮かぶ。そのままバスタブまで近づいていった。見上げてくる視線が可愛らしかった。
「何を考えた」
「下の子供たちのことを」
「もうそんな年じゃねぇだろうが」
「あの子達が大人になっても、私にとっては可愛い下の子達よ」
 スパンダムはなにやら複雑そうに顔を歪ませ、その感情を読もうとする私に向かって口を尖らせた。彼の感情がどうしてそんな表情をさせたのか、結局分からない。
「五年だ」
「ええ」
「忘れてるんじゃねぇか」
「そうかもね」
「五年だぞ」
「忘れもしないわ」
「五年なんだからな」
「知ってるわ」
 スパンダムはまた複雑そうに顔を歪め、私を見た。
「捨てないわ」
 とっさに出た言葉に自分で驚く。胸元の写真が、ポケットの奥でかさりと音を立てた。
「捨てろよ」
 スパンダムは、眼が覚めたばかりの赤ん坊のようなまっすぐな目で、こちらを見た。
「スパンダム」
「捨てろよ」
 自分が何に対して言ったのかは分からない。スパンダムが何に対して言ったのかも分からない。けれど彼は心底私を思ってくれているのがわかった。
「死ぬぞ」
 何に対してと、私は聞かなかった。
「本望よ」
 スパンダムは泣きそうな顔で笑った。引きつったその笑顔は、どこか間抜けていた。
「スパン」
「おれの為に死ね」
 息が詰まるかと思った。心臓が止まってしまったかと思った。伸ばされた腕をスローモーションのように見ていて、その腕が抱きしめてきて彼の胸に上半身が落ちても、なぜだか動くことが出来なかった。シャワーの水が冷たいと、濡れた服が気持ち悪いと抵抗すらしなかった。できなかった。
「おれの為に死ねよ……ッ!」
 今度こそ本当に捨てられた男の子だと、確信した。今、私は彼の手を振り払ってしまったのだ。これで何度目の失態だろう。ため息を飲み込んで彼の背中に腕を回す。抱きしめると、その体が怯えるようにびくついた。
「私、貴方に拾ってもらって感謝してるわ」
 聞きたくないと言うように、スパンダムは胸に顔を埋めてくる。そんなにある胸でもないのに、どこか必死に顔を押し付けてくる。性的な香りはまったくなく、ただただ必死な男の子の行動に、笑みが苦くなる。
「最低でずぼらで馬鹿で礼儀正しい人非人の貴方に、感謝してるわ」
「褒めてねぇ」
「事実を並べただけだもの」
 嫌そうな声を聞いて呟く。
「でも私、あの子達に会いたいの」
 時が止まったかのように、スパンダムの動きが止む。
 振り払ってしまったのだろう手を握ったと思った。けれどその端からまた振り払ってしまっただろうかと、はスパンダムの次の行動を待った。
 今の言葉は後悔していない。本心だからだ。可愛いあの子達の頑張る姿が見たいのだ。それが邪魔だと言われるのならば、見つからぬようにしてでも見たいのだ。会えないならば、せめて遠くから元気な姿だけでも見たいのだ。

「なぁに」
「おれが嫌いか」
「好きよ」
 躊躇などなかった。けれど、彼の言うことを全て聞くような従順で妄信的なそれではなかった。
 彼は最初からわかっていたのか、辛そうにうめき声を漏らす。私はただその背を頭を撫でた。撫でたいと思ったから撫でるだけで、彼に悪いとは思わなかった。
「おれはな」
「うん」
「初めて見た時から、お前のことが好きなんだ」
「物好き」
「うるせぇ」
「こんな化け物を愛しても、辛くなるだけだよ」
 笑って言った。スパンダムも笑った。
 けれど気がついたら目の前にスパンダムの顔があって、すごく痛そうな眼で私を見ていた。
「そんなこと、おれの耳に入れるな」
「なに」
「お前は、最高にいい女だろうが」
「だって」
「うるせぇ」
 いつものように迫ってくるスパンダムの顔。流れるように瞼が下りて、そして肩にかかる彼の額の感触。いつもと同じ、優しい気配。
「ばか」
「なんだよ」
「意気地なし」
 彼はいつも迫ってくるくせに、触れてくるくせに触れてこない。まるで何かを恐れているように何もしてこない。拒んだことも誘ったこともあるのに、全て同じ結末で、彼の想いに気づいてからずっと同じ調子。
「うるせぇ」
 拗ねた口調だった。けれど、人殺しとは思えない声だった。
「好きになってもらえなきゃ、意味ねぇだろうが」
 うっかり言葉をなくしてしまって、馬鹿ねと言い返してしまった。
「スパン、貴方は馬鹿よ」
 けれど胸元の写真は消えず、記憶は消えず、私は彼らの元を夢見てる。
「ねぇ、いかせて」
 スパンダムは、ゆっくりと私の首に噛み付いた。
「おれの為に、死ねばいいのによ」
 愛しい男だと思う。私はすぐ傍に覗くその首筋に唇を落とした。
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補足

2007.09.16 一文訂正。