10:始まり

 が目を覚まして最初に見たものは、しかめっ面で自分のどこかを見て手を動かしている男性の姿と、その後ろでまさしく「やべえ!」の三文字を顔に書いている男性が一人。
 ぼけた頭で手を動かしている男性の視線の先を見ると、なるほどしかめっ面にもなるだろう。男性は寝ているの足を持ち上げてパジャマなのか、薄いが柔らかくてしっかりした素材のズボンをはかせているところだった。
 何でそんなことになっているんだろうと、ぼんやりが寝ぼけている間にも、男性はしかめっ面のまま着々との力が抜け切っている足をズボンに通し終わっているし、上着の裾はズボンの中にきちんとしまわれてしまった。小さい子供の着替えか、と突っ込んでみたくなっただったが、眠りこけていたのに多分風呂から回収してくれた上、身体はしっとりしているが湿っているわけではない。身体まで拭いてくれたのかと感謝するほかない。
 寝ぼけているため、羞恥も何もかも夢の国に置いているは、もう一度うつらうつらと眠りに入り始めた。
「あざっす……」
 寝ぼけながらも感謝の意を伝えるため、噛まずにいえそうな三文字に気持ちを込めて、回らない舌を回した。
「む」
 着替えをさせてくれていた男性は空耳かと片眉を上げるが、はもう眉毛の上までどっぷり夢の世界に使っていた。瞼は閉じかけてて半目で怖いが、男性たちはの表情にドン引きするよりも、さらに恐ろしい事態に血の気が引いていた。
 青白い顔で、幽鬼のように扉の隙間からこちらを見つめる生気のないスパンダムの姿が、そこにあった。
「……おまえら……」
「…………すぱんだむさん」
 思わず名前を口走る程度には動揺した部下の男たちだが、再びぐっすりと眠りの世界に帰還したには伝わらなかった。
 スパンダムには伝わったが、特に反応もなく幽鬼のように部下たちを見つめるだけ。
 しかもスパンダムが開けている扉は、出入り口として部下やが使った扉ではなく、一応、現在はふさがっているはずの隣室と繋がっている扉だった。
 あれ、おかしいな一枚板で蓋をした上に扉を覆い隠すほどの立派な本棚置いてなかったっけ。などと部下が思っていることも知らず、スパンダムは音もなく室内に滑り込む。やればできるじゃないですか、さすがスパンダム主管! と片方の部下は目元を涙でぬらしている。
「別におれの女でもねぇけどよ」
「は、はいっ!」
「お前たちの仕事が丁寧なのもしってっけどよ」
「はい!」
 淡々と話すスパンダムは、ジッとベッド脇に立ち止まってを見下ろしている。
 幸せそうに眠り続けるを憑き殺しに来たと言われれば、納得しかできないような、うっかりその両手が彼女の首に回ってもおかしくないような、そんなぼうとした目で彼女を見下ろしていた。
「……なぁ」
「はい!」
「こいつ、風呂場で寝てたのか」
「は、はい! このままでは体調を崩してしまうと、僭越ながら、私どもが着替えをさせていただきました! けして! 決して! やましい気持ちもなく極力見ないよう、触れぬよういたしました!!」
 何で解ったんだろうとは、決して部下たちは口にしない。
 この状態だけ見れば、着替えをさせたと言う事実しかわからないはずで、いや、もしかしたらベッドに寝かしたということしか分からないかもしれない。なのに、スパンダムは正確に事実を口にした。一瞬ちらりと、スパンダムがずっと覗きをしていたんではと言う考えがよぎるが、これ幸いと言い訳という名の事実をとっとと口にした。
 なんとも思ってない人間に親切にして、その末が上司からの嫉妬だなんてやるせない。
 冷や汗脂汗を盛大に流しながら、部下二人は自分たちに視線ひとつ向けない上司を見つめた。
 スパンダムは気のない音を口から出すと、片手をに伸ばした。
 部下たちは一瞬ひやりとしたが、スパンダムの手は彼女の首には回らず、穏やかにその頭を撫でていた。
「なんも入ってなさそうな頭だよなぁ」
 とっても失礼なことを言ってる自覚はありますか、主管。
 いえないツッコミを嚥下する部下たち。
 スパンダムは幽鬼のような目のまま、何度かの頭を撫でると満足したのか背筋を伸ばし、どこか疲れきったように瞼を閉じて深いため息を吐き出した。
 部下たちは、その一挙手一投足を緊張の面持ちで見つめ続ける。
「……ご苦労だったな、下がって良いぞ。あ、メイド一人二人呼んどけ」
「へ? あ、は、はい!」
 予想外の言葉に反応が遅れたが、部下二人はお互い顔を見合わせるのももどかしく、大慌てで部屋を飛び出した。スパンダムは天井を仰いでいたが、物憂げなため息を吐く姿は、なんとなく見慣れずに部下たちの背中をもぞもぞさせた。

 メイドたちが部下たちに話を聞いてすぐに向かうと、そこではやはりがベッドで熟睡しており、スパンダムはその傍らのサイドテーブルに椅子を寄せて腰掛けていた。
 その片手には書類、もう片手にはコーヒーカップ。
 ズズッと少し下品な音を立てながらも、スパンダムはコーヒーを飲みながら真面目な顔で書類に目を通していた。
 メイドたちに気づいたスパンダムは、危なげなくテーブルにコーヒーカップと書類を置くと、顎をしゃくってを示した。
「おれの部下が着替えさせたんだが、不備がねぇか確認しろ。女同士なら判んだろ」
「……はい、心得ました」
「では、万が一のために替えを持ってまいります」
「おう」
 勤めて長いメイドが最初に返事をすれば、そのメイドの下についている年若いメイドも頷いて下がる。
 スパンダムは特に感慨もなく「好きにしろ」と呟くと、自室かのように気負いも見せず書類に再度目を通し始めた。
 静かな空間に、メイドがの身体をチェックする音と書類をめくる音、コーヒーをすする音が流れる。
 そのうち年若いメイドも戻ってきて、いくつかの着替えやら何やらをクローゼットにしまいだす。
 なにやらいくつかのメモ書きをして、メイド二人は会話をすると二人揃ってスパンダムに頭を下げた。
「滞りなく終了いたしました。特に何も、この方に異変はございません」
「そうか、なら下がれ」
「失礼いたします」
 音もなく、けれどしっかりと頭を下げた二人は、スパンダムが視線を向けてこないことを気にもせず、静かに退室した。
 スパンダムは、深いため息を吐き出した、うっかり自分の膝にコーヒーをぶちまけた。
「うわっちぃ! ……っ、」
 けれど上がった声はいつもより小さく、その後叫びたくなる口を必死で噛み締めたスパンダムは、不自然にがに股をしながら風呂場へと駆け込んだ。慣れた動作で服の上から足を冷やし、適当に上がってタオルで拭う。替え持ってねぇよと呟いたスパンダムは、深いため息を吐いて風呂場から出てきた。
「……」
「どうわっ!?」
 無言でベッドに腰掛けるに、スパンダムは飛び上がって壁に背中を貼り付けた。
 は目を丸くした後、苦く笑って首を横に振る。
「そこまで驚かれると、さすがに傷つきますよ」
「お、起きたんなら言え!」
「いや、スパンダムさんの叫び声にびっくりして。足、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ! ……寝とけ!」
「いや、私寝すぎですから。他人様の家ですっごい寝すぎですから」
 瞼を擦りながらひとつあくびをこぼしたは、自分の服装を見下ろして小さくつぶやく。
「まさかスパンダムさん……」
「おれじゃねぇ! 部下とメイドだ!」
「分かってますよー」
 寝起きだというのにケラケラと楽しそうに笑うに、スパンダムは肩を落とす。隣の部屋で着替えてくると一言断りを入れるが、それにも気軽にいってらっしゃいと手を振って見送られた。
 釈然としない何かを感じながら、そのまま不貞寝してやろうかと考えてみるが、書類を置いたままだったことを思い出して渋々の部屋に戻る。
 は、珍しそうにスパンダムの書類を覗き込んでいた。
「おい」
「はい」
「なにしてんだ」
「いやぁ、異国語は本当に意味わかんないなぁと。これ綺麗な字なんですか?」
「それもわかんねぇのか」
「わかんねぇんです」
「……まぁ、綺麗な字なんじゃねぇのか?」
「え、なんで疑問系」
「おれには読みにくいが、一部には受けてる」
「ああ……」
 なんだかとってものんびりとした会話の後、体が温まっている所為かまたあくびをしたをベッドの中に送り返したスパンダムは、再びサイドテーブルに寄せた椅子に腰掛けた。
「初対面の男に見守られるってのも気味が悪ぃかもしれねぇけどな」
「スパンダムさんだったら、そんなことないです」
 漫画で知ってるし、とは言わずに笑うに、瞬時に顔を真っ赤にしたスパンダムが額を叩いてくる。
「女が軽々しいこと言うんじゃねぇ!」
「あんたは私の親父か。親父ならもっと体格のしっかりした信念を持った色男が良いわ」
「地味に具体的な事言うな!」
「スパンダムさんの親父さんは、なんかひょろそう」
「どこ見て言ってんだ!? あ!? おれ見て言ってんのか!?」
「おやすみなさーい!」
「あ、まてこら逃げんな!!」
 笑いながら布団に包まって繭を形成するに、慌てて布団を引っ張るスパンダム。
 そのうち二人とも大人気なく取っ組み合いを始めて、部下に改めて呆れられたのは言うまでもない。






「スパンダム、ばかんだむ。なにこれ滅茶苦茶なつかしい書類出てきたんだけど」
「ばか言うな。なんだよ」
「私が初めて書かされた書類。よく読んだらすんごい優しい書類だったね」
「わー! わぁああああ!!!!」
「えーっとなになに。『この女の身・保証・保障はすべてこのおれが行うこととする。証言をまずは真実とし、この女の帰国を優先とする』……やだもう初対面からなにそれ私愛されてるー! 怪しい女なのに言ったこと全部真実前提で話し進めてもらってるー!」
「馬鹿馬鹿馬鹿女! 天井にぶら下がってねぇで、さっさとその書類よこせ!」
「……取ってみろよ、スパンダム」
「女がそんな言葉遣いするんじゃねぇ!」

「……さん、悪役顔だよ」
「姉さんじゃからのう。長官も遊んでもらって羨ましい」
「あら、今日は姉さんがセクハラしてるのね。パワハラかしら?」
「……(長官マジうぜぇ)」
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