08:君の引力


 自分が生まれ育った世界ではないのだと、戸惑いながらもが納得すると、シャルナークたちは次々と細かい事実の説明を始めた。
「違う世界だから、君の戸籍ひとつこの世界にはないんだ」
 戸籍など関係ない流星街の住人としては、戸籍が何だといった話ではあるのだが、戸籍というのが一番確実な身分証明だと疑うことすらないに、シャルナークは優しく、けれどどこか痛みを伴って言葉を口にする。
 その痛みはシャルナーク自身に戸籍がない事実からではなく、に現実を突きつける悲しみではなく、もっと根本的なもの。
 戸惑うように瞼を震わすが、改めて突きつけられた事実に気づき、ぎこちないながらも笑みを浮かべる。
「……そうですね、違う世界だったらそれが、当たり前ですよね。すっかり頭から抜けてました。…………そっか、戸籍、私の戸籍ひとつも、ないんですね」
 どこか諦めたかのように、シャルナークの言葉を疑うことなく飲み込もうとして、語尾を振るわせる
 そのに、痛ましいと思っている素振りを隠さず、シャルナークが眉根を寄せて悲しげに笑う。
「ごめん。だから、警察や大使館に行っても、無駄になる、んだ」
 シャルナークが痛むのは、どこか痛みを伴っているのは、に向かって白々しい演技をしなければならない事実ひとつのみ。
 フィンクスも軽く眉をしかめ、けれど心配げにを見つめているが、それもの境遇を哀れんでいるわけではない。そうした表情のほうが、この場は相応しいからだ。

 シャルナークもフィンクスも、本当なら酒盛りをしたいくらいの大歓迎だった。大喜びだった。
 けれどそれはあまりにも不謹慎な感情で、清廉潔白でなくとも一般的な人間のとっては、想像もしていない反応に違いないので、ただ場に相応しい声音と表情を取り繕っているに過ぎなかった。

 とつとつと、ゆっくりとの心情と理解力を慮って、慎重に会話は進められる。

 世界中のどこを探してもの戸籍はなく、家族も、住んでいた場所もないこと。
 だから警察に行っても身元の照会はできない。大使館を探しても、住まう国の照合が出来ないこと。
 については、どこかから来てどのように生きてきたか、記録されていない存在であること。
 は今、戸籍も経歴もこの世界に存在しない。
 酷な事だけれども、本当のこと。だから納得できなくとも、知識として受け取って欲しい。

「……はい、丁寧に教えていただき、ありがとうございました……」
 萎れた花、くたびれた野菜、水の与えられなかった植物。
 そのようなか弱い、ともすれば死んでしまう一歩手前まで顔色を青くしたは、言われた内容が重複しまくっていることにも気づかず、とどのつまり『異世界だから戸籍ないよ、居場所ないよ、就職無理だからここにいようねー』と洗脳されていることにも気づかず、平身低頭床に頭を下げてシャルナークとフィンクスに感謝の意を示す。
 普段なら冷静に対処し、言われた事柄が重複していることくらいには気づきそうなものだが、さすがに冷静さを失ったままらしいは、目の前の男達二人がほっと安堵のため息を吐いていることなど、一瞬たりとも気づきも想像すらもしなかった。
 シャルナークとフィンクスが、よしやったとお互いを目線でいたわり合っていると、身体を起こし顔を上げたがぽつりと余所を向いて呟いた。
 思わず、男二人の時間が止まる。
「良く考えなくても、戸籍がなくて当たり前ですよね。私はこの世界に、存在していなかったんですから」
「……」
「……」
 二次元の人間でありキャラクターとしては、世界規模で『存在している』事実などが知る由もなく。
「……」
「……」
 思わず顔を見つめあい、否定したい心境を共有しあったシャルナークとフィンクスには、罪がないと言えばない。
 けれどその様子にさすがに気づいたが、不思議そうに首をかしげた後に、ゆっくりとその表情が引きつってしまうのも、罪がないと言えばない。
「……もしかして、なんらかの形で」
「ないないないっ!」
「ないっつーのー! ははははっ、面白いこというなは!!」
「そうだよ面白いよ! はははははっ!!」
 疑ってくれといわんばかりに大声で手まで振って否定する男二人に、がますます疑わしそうに目を細める。
 動揺をあらわにしたシャルナークとフィンクスは、一応その表情だけは満面の笑みで冷や汗ひとつかいていない。
 ともすれば、わざと大げさな言動でをからかっているとも取れる態度にも見えた。
「……本当ですか?」
「本当、神様に誓ったっていいよ」
「同意」
 問いかけたに、男二人が神妙に頷くが神に誓った時点で二人は大嘘こいてますと言った様な者。
 けれど恩人を疑うなど失礼な行為であり、某漫画の盗賊二人に見えても実際はわからない。
 そのように認識しているにとって、大嘘だということは判らないまでも、誤魔化そうとしていることは良くわかった。そして二人の言葉が、の為に選ばれて口にされていることも察した。
 今は知らないほうがよいのだと、暗に念押しされていることにも気づいていた。
 大分冷静になってきた自分の思考に、は一度軽く息を吐き出した。
 おそるおそる様子を窺ってくる二人に、諦めと呆れと親愛をこめて笑う。
「シャルナークさんとフィンクスさんを、信じます」
 そのまっすぐな言葉に、思わず自分の良心が痛んだ気がして男二人は自分の胸を押さえたくなったが、堪えてそれぞれそっぽを向いて口を開いた。
「いやもうが疑ったりするのは初対面だからしかたがないし」
「こっちが怪しいのは分かってるから疑問できたらむしろ聞いて来いっつーかなんつーか」
「全部が全部答えられるとは思わないけど」
「少しでもそれで不安がなくなるなら善処するっつーか」
 お前ら、どこのローテーショントークだ。
 そっぽを向いてどこか頬をうっすら高潮させ、早口で交互に口を開くシャルナークとフィンクスに、は口を挟む隙を見つけられずにただ諾々と聞き入る。
 言われている内容はにとってありがたい事に変わりはないし、頬を染めているそれぞれ種類の違ういい男二人の様子は、直接的に言ってしまえば目のご馳走。
 は大人しく慎ましやかに相槌を打ちながら、それらを目でいただいた。


 一通りシャルナークとフィンクスの主張が終わり、は笑顔で二人に従う旨を了承した。
 保護されているという事実は心苦しく、さらに言えば人一人養うことがどれだけ大変なのか身に染みて分かっているにしてみれば、未知の世界で外に放り出されることも恐怖だが、自分の食い扶持を自分で稼げないことは心苦しい以外のなにものでもない。
 やはり世の常で、「ある日親切心あふれる足長おじさんみたいな人が、一生無条件でお金くれないかなー。出来れば一ヶ月百万円単位で、永年保障的な」などという途方もない夢物語を友人と口にした事はあるが、それはそれ。これはこれ。
 実際にそれが叶う……というのとは少し違うが、自分の衣食住すべてをまるっとまかなってもらうのは、さすがに社会人としてごく潰しではないだろうか。今風でいうならニートじゃないか。
 その心苦しさが顔に出てしまったの表情は、眉根を寄せて心底困りきりどこか頼りなげに見え、浮かべられる笑みも申し訳なさからか少し青白い。
 それでも恩人に対して変な顔は出来ないと、精一杯笑顔を浮かべてはいるがつつけばもろくも崩れそう。
 そんなの心情がまるっと伝わるわけもなく、心苦しいのだということは手に取るように分かるのだが、顔が青白い理由が分からない。
「……あ」
 けれどそこでようやくシャルナークは思い出した。むしろ忘れていたことのほうがどうかしている。
 自分もそういった心境だった時期があったではないかと、思い当たる節に自分の頭を殴りたくなる。
 自立したくて、一人で立ち上がる力がないと知ったときの無力感は計り知れない。それが今まで自立していた人間ならば、どれほどの無力感と虚無感に変わるだろうかと、の心情を思うと寒気さえしてくる。
 フィンクスが不審げに見てくる視線を無視して、シャルナークはへと身を乗り出した。
 驚き軽く身を引くの手を掴み、離れないよう引き寄せる。
「君の事は、おれが守るから」
 なにをとフィンクスが気色ばむのを視界の端に感じながら、目を丸くしてシャルナークを瞳に映すから、シャルナークは一瞬たりとも視線をそらさずに続ける。
「長くここに居るなら、仕事も世話する。こっちの一般常識とか、全部教える。のプライドを傷つけるようなことは、絶対しないから」
 けれどそこから先に言葉は、音になる前にシャルナークの胸中に消えていった。
 シャルナークのゆれる眼差しに、の困惑の眼差しが見つめ返す。
 フィンクスは先ほどシャルナークが邪魔をしなかったことをかんがみて、一度浮かしかけた腰をそっと下ろしなおした。シャルナークも言いたいだろう事を言ってしまえばいいのにと、なんとなく予想の付いた言葉へと胸中でぼやいた。

 シャルナークの手がの手を、少しだけ強い力で握りなおす。
 プライドが邪魔をして言えない。初対面でいきなりそんなこと言えない。けれど読者としてずっと見ていて、が恋をすれば相手を愛せばどのように美しくなるか知っていて。
 彼女は生まれ育った世界に還った方が、幸せになれると知っていて。でも言いたくて。


 還らないでの一言が、喉に詰まってどうしても口から出てこない。


 迷い口ごもるシャルナークには少しだけ瞬きをして、どこか吹っ切るように一度瞼を伏せた。
 のその一連の動きは、サトルたちが大怪我をして帰ってきたのを目撃し、理療の為に自分を落ち着ける動作に似ていた。
 恋人になる前の男の心揺さぶる言葉に、平常心を取り戻そうと苦心する動作にも似ていた。
「……シャルナークさん」
 再び目の合ったの感情の波は、相対しているシャルナークから見て丸っきりの平常に戻っていた。
 優しく穏やかに微笑み、やんわりとシャルナークの手を握り返してくるその手は、なだめる様に揺れる。
「私、ここに居ていいんですね」
 ぽつりとこぼされた言葉に、シャルナークが動きを止める。
 確認するかのようにフィンクスへと視線を向けたは、目が合ったことに小さく微笑み、シャルナークの驚きには特に大きな反応をしなかった。微笑んだまま、のんびりとした所作でシャルナークを見つめなおすと、つながった手をゆるく揺らす。
「シャルナークさんやフィンクスさんが望んでくださるなら、お手間を掛けさせないように努力します」
「お世話になる分、助けてよかったと思われるように、頑張ります」
「だから」
 緩やかに、けれど口を挟む隙間を見つけられぬその柔らかな話し口を、シャルナークたちは知っていた。
 穏やかさをそのまま具現化したような柔らかさと、温かさと、緩やかさ。
 の片手がやんわりと伸ばされて、シャルナークの横髪を撫でる。
 そっと瞼を伏せたシャルナークと、どこか紙面のワンシーンを見ているような心境になったフィンクスは気づいた。
 穏やかな穏やかなの声が、優しく響く。
「だから、私を置いていかないでください」
 ああ、また欲しい言葉をくれた。
 この心を読んだかのようなタイミングで、けれど状況やの心情を考えればが口にしてもおかしくない言葉たちは、紙面で毎度毎度サトルたちや夫となる男を良く泣かす、ある種の最強攻撃。
 相対すれば自分達にも有効だと言うことを、シャルナークとフィンクスは強く強く実感した。
 閉じられた男二人の瞼が、堪えるように震えた。
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