07:ひとつめの事実
それで、さてどうするかといった話になったとき、はもちろん警察に駆け込むつもりでいた。基本的に自分の世界でも地方によって仕事のやる気も対応もピンきりだが、どちらにせよ頼れるのは公的機関。
自分のことすら分からない人間でも、寝る場所やご飯くらい少しの間面倒見てもらえるだろうと、怖い想像を極力しないようには楽観視した。
そのように話したとき、シャルナークとフィンクスは動きを止めてを見つめた。
「……あの、どうかしましたか?」
「……いや、そうか、そうくるかと思って」
「……」
怪訝そうなの問いかけに、かろうじて掠れた声を出したシャルナークと、言葉もなく今まで見た漫画のページを頭の中でめくり、ああそうかそうだよなとの行動に納得するフィンクス。
うっかりしていたが、本当には一般的な女なのだ。
初対面の人間の世話になれば困惑しつつ、感謝の意を示す。
自分自身でどうしようもない場面に当たれば、常識的に公的機関を思い浮かべる。
目の前の人間以外頼れないとなるのなら、それはまた話は別だろうがそのような状況とも思っていない。
心底一般的な女なんだなぁと、シャルナークとフィンクスは感心してしまった。
二対の目に見つめられ、居心地悪くは首をかしげる。
「ここまでしていただいて、更に申し訳ないんですけど、一番近い警察署を教えていただけますか?」
落ち着いたら、改めてお礼に伺います。洋服などに掛かった費用を、教えていただけますか?
それが当たり前だ、それ以外の行動などありえないと思っているかのように、きっぱりと言い切り微笑む。もういっそ、盗賊二人は心の底から尊敬した。ありえねぇと小さくフィンクスがつぶやいてしまう。
シャルナークが、極力優しく微笑んで問いかける。
「ここがどこだか、知ってるの?」
「いいえ、知りません」
もしかしたら、警察より大使館を探したほうが早いでしょうか?
本当に悩んでいるのだと分かる、の眉間の皺。困惑して寄せられ八の字になった眉に、シャルナークもフィンクスもつられて同じ顔になってしまう。
そしてシャルナークとフィンクスは顔を見合わせ、お互いの情けない顔に脱力した。雁首そろえていい大人が、しかも泣く子も黙る盗賊団だというのに、なんでつられて同じ顔をしてるんだ。
まるで紙面での登場シーンを見ているような心地に、読者の気分で表情がつられていたなどとは思っても居ない二人は、いきなり脱力してしまった二人を不安そうに見つめるに気づくと、改めて背筋を伸ばした。
「警察署も大使館も行かなくていいよ。つれてきちゃったのはこっちの責任だし、帰るまでの面倒くらい見られるよ」
帰す気がないことなど微塵も感じさせず、シャルナークは女子供に受けが良い穏やかな笑みを浮かべる。
フィンクスは最初、シャルナークの言葉になに考えてんだとその横顔を見るが、帰す気が微塵も感じられない隙のない笑顔に、ただの建前かと安心しながら自分も口を開く。
「まぁ、そういう訳だ。費用とか気にすんな、お前は……は巻き込まれただけなんだからな」
どさくさにまぎれて名前呼びたかっただけだなと、シャルナークが横目でフィンクスを睨みつけるが、フィンクスはほんのりと頬を染めてに笑いかけていて、シャルナークに気づく素振りも見せない。
はしばしそのフィンクスの無邪気で照れくさそうな笑顔を、きょとんと目を丸くして見つめていたが、じわじわと優しさがしみこんでいくように微笑みを浮かべ、最終的には照れくさいのか頬を染めて視線をそらしてしまった。
「可愛いなぁ」
なんでもないように、シャルナークは紙面のを見た読者のように言葉をこぼす。けれど、現在紙面の存在であったはずのは三次元となっており、同じ空間に居て、しかも触れる距離の対面に座っている。
頬を染めたまま不思議そうにシャルナークを見つめてくるに、そこでようやくシャルナークは正気に返った。
「うわ、今口に出してた?」
「恥ずかしい奴」
「フィンクスには言われたくないんだけど」
同じようなこと考えてるくせに。
念で文字を書いて見せれば、一般人には見えない程度に拳が飛んでくる。それも見えない程度に避けたシャルナーク二人の行動は、しばし黙って見詰め合っているようにしか見えていない。
はアイコンタクト中かなぁと、のんきに見守りながら次の言葉を待った。
「……とりあえず、今の現状を分かるだけ教えるから」
やりとりに飽きたシャルナークが、フィクスを足先で床に転がしながら笑う。
いきなり目の前でフィンクスがひっくり返ったとしか思えなかったは、話を聞いているどころではないのだが、フィンクスから目を離さないながらもシャルナークに頷いた。
「あの手を」
「わりぃ」
頭を片手で押さえながら、フィンクスは差し出されたの手を掴み上半身を起こす。そして顔を上げ、ほっとしたように微笑むを見て動きを止めた。
触れたその手は柔らかく、フィンクスを支えるには小さすぎる。けれど、しっかりとした骨と肉の感触があり、血の流れる音が生きていることを伝えてくる。
「……フィンクス」
呆れたようなシャルナークの声に、瞬時に顔を赤くしたフィンクスはの手を振り払った。口を音もなく開閉し、素早く後退して背中をぴたりと壁へとへばりつけた。
「……」
「……」
振り払われたは、その初々しいまでの反応に手を振り払われても微笑ましいとしか思えず、シャルナークは自分の頭を押さえてフィンクスをほうっておくことに決定した。
「ま、とりあえず座って」
「はい。お手数お掛けします」
大人な対応で持って二人は現在のことについて、少しずつ現状を整理していった。
最初に告げた言葉は、酷く簡単なもので、けれどどうしても揺るがすことの出来ない事実からだった。
「ここはの生まれ育った世界ではない」
シャルナークの断言とゆるぎない視線に、は首をかしげる。
「確かに、見せてもらったタグの文字は読めませんでしたし、公用語も違うと言われましたけど」
なぜそうも断言できるの?
傾げられたのその表情は、シャルナークを不審がるわけでもなく追求するでもなく、純粋に不思議そうなものだった。
携帯電話がおかしな表示を繰り返し、使われている公用語は見たことが無いもの。
けれど今こうやって言葉を交わし意思疎通が出来る現在、ピンとこないのも頷けるものだった。
シャルナークはフィンクスと目配せし合い、二人ともついぞしたことがないほど表情を引き締める。
怪しい素振りを少しでも見せれば、の心に疑問を植えつけてしまう。シャルナークやフィンクスに対する心情の中に、ひとかけらの疑惑を残してしまう。
それだけは避けなければならない。ただでさえこれから口に出す言葉たちは、知識の無い人一人を監禁しようとする洗脳台詞に近く、普通の人間であれば鼻で笑ってしまうような事柄だから。
シャルナークは、不思議そうなの表情を窺いつつ口を開く。フィンクスは余計な口を挟まぬよう口を閉じ、の些細な動作も見逃さぬようにを見つめていた。
「なぜならのことを、この世界の人間ではないとおれたちは知ってるから。おれたちの知っている一般常識を知らないとか、なんでこんな目にあっただとかの、理由とかも」
の首が、今一度不思議そうに傾げられる。
けれど徐々にシャルナークの言葉の意味を理解してきたのか、その目が丸く見開かれていった。
「私が、殺されかけた理由も」
「知ってる。お前が直接の原因じゃねぇことも、でもに関係しているっつーことも知ってる」
フィンクスが即座に答え、見開かれたの視線を受け止める。フィンクスの真意を探ろうと、まっすぐ見つめてくるの視線の力は強く、けれどそれは問い詰めや黙っていたことへの批難などは一切含まれていなかった。
丸く大きく見開かれたその眼差しは、フィンクスから真実だけを取り出そうとしていた。
「言わなかったこと、怒ってる?」
シャルナークが静かに問いかける。
の横顔を見ているだけでも、彼女の目に怒りや憎しみは見えない。逆に焦燥感や不安なども見て取れず、ある意味感情が読めない表情だった。
けれど真正面から見詰め合っているフィンクスには、の気持ちが痛いほど伝わってきた。漫画の紙面などとは比較にならないほど、強烈に叩きつけられていた。
母親を巻き込んだことへの後悔。
自分の知らない所で危ない目にあっているかもしれない、大切な者たちへの心配と不安と焦燥感。
真実を聞き出したいというまっすぐな意思。
今すぐ母親たちの元へと飛んで帰り、彼らを守るのだという決意。
自分に関係のあることで、大切な家族たちが今現在も脅かされているかもしれない恐怖。
紙面に描かれた、墨やトーンや修正液で描かれた眼など比較にならなかった。
目の前で生きていて、呼吸をして、そして常に変わっていく人間の真髄に触れたような気さえした。
フィンクスは表情ひとつ動かさなかったが、の周りに生きて活躍し暗躍している人間たちを思った。
これは惹かれる、惹きつけられる。
別にきらきら輝くなどという効果もなく、眼の色が変わるという特色も無い。平々凡々で、道ですれ違っても記憶に残るはずも無いほど特徴が無い女。
けれど内面を多少なりとも知って、彼女の行動の理由を知って、そして彼女と対峙すれば解ってしまう。
なにも漫画のコマで、過去を描写していかなくとも勝手にフィンクスの脳裏は回想する。漫画で描かれた平和の象徴じみたの笑顔、驚愕の表情、呆れて脱力したシーン、怒りに身を任せるだけでなく行動した意思、泣いて泣いて泣いて……最後は自身と愛するものの幸福を掴み取った微笑み。
だからこそ、フィンクスはの眼から何を思っているのか想像できた。
ほとんど当たっているだろうと不安にも思わぬほど、の強烈ともいえる思考を叩きつけられていた。
は別に、紙面で見ていても清廉潔白な人物などではなく、ただの、本当に一般的な人間の一人。
フィンクスからみれば、なにが面白いのだか分からないほど平凡な人生を歩んでいる一人。
漫画の主人公たちと比べれば比べるほど、平々凡々で鮮烈な印象など受けるはずも無い。
「怒ってるわけじゃねぇよな。焦れてて、不安で、守りたくて、帰りたくて、怖ぇんだろ」
フィンクスの口から、当たり前のように言葉が滑り落ちた。
紙面で、今目の前にいるの時代からしばしのち、が恋に落としてはならない相手を落とし、自身も相手に惹かれていった先の場面。二人が共に過ごすことを禁じるために、主要キャラたちがに苦言を呈していた場面を、フィンクスは思い出していた。
ただ好きな相手が出来て、その相手と相思相愛になれて、家族に祝福して欲しくて。
純粋なの気持ちは打ち砕かれ、さらには引き離され詳しい理由も教えられず、相手の悪い話ばかり忠告として告げられる、拷問のような時間。
口に出して心情を訴える。
誰もいなくなった部屋で、一人心中激しく相手への愛と、家族たちの不理解を嘆いていた。
あの場面はフィンクスも涙を禁じえなかった。主人公であるはずのサトルたちや、の身内すべてが憎く思える場面であった。
今までどれほど戦いを繰り返してきたか。の恋人となった相手が、何をしてきて、どこにいたのか分かっていながら、サトルたちの心痛も相まって苦しい話だった。
そのとき、やサトルたちを慰めたいと、どれほどの読者が思っただろう。願っただろう。
それぞれに事情があり、それは容易に解消できない事情で。
サトルたち苦言を呈した側は、それまで多くの戦いや痛みを共有し続けてきた。なら分かってくれると、理不尽な台詞でサトルたちを励まし慰めていた。サトルたちも、そうだといいなとつらそうに呟いていた。
けれど、の傍には誰もいなかった。の母親であるユキコさえ、を慰めることをしなかった。に苦言を呈し、サトルたちを慰める側に回っていた。
の孤独感は、焦燥感は、不安はどれほどのものだっただろう。
今まで自傷行為などしたことのなかっただろうが、噛み締めた唇から血を流し、握り締めた拳から滴らせた血潮にすら気づかず、一心不乱に己の愛しい人を助けるために思考をめぐらせていた。
フィンクスは、その場面を読むたびに言いたかった言葉を、今口にする。
疑うことも出来るというのに、シャルナークやフィンクスの言うことをそのまま受け取り、今目の前で感情をほとばしらせ思考をめぐらせるを、慰めたかった。
片腕を伸ばし、の頭を撫でる。優しく、優しく、一人ではないと告げるように。
「いきなり死ぬ目にあって、知らねぇやつが二人も現れて、よく分かんねぇこと言われて。無理して理解する必要なんかねぇから。……お前は一人じゃねぇから、頼れよ」
フィンクスのどこかしんみりした口調に、とフィンクスを交互に見ていたシャルナークが動き出す。
微動だにしないの背を優しく、小さな子をあやすように軽く叩く。
フィンクスが頭を撫でて、シャルナークが背に触れて。
はゆっくりと瞬きを数回繰り返し、フィンクスをシャルナークを交互に見つめた。
少しの時間、シャルナークに固定された視線から、目の合ったシャルナークは困ったように眉を寄せて笑う。
「今すぐにが狙われたわけとか、おれたちが知ってる理由とかは教えられないけど、おれもフィンクスと同じこと思ってるから。は一人じゃない、おれたちが守るから」
照れる素振りも見せず、どこか嬉しそうに言い切ったシャルナークは、の困惑に寄せられた眉に笑みを浮かべる。
助けを求めるようにフィンクスを振り返ったは、言葉もなく笑顔で肩をすくめるフィンクスの楽しそうな表情に、二人が冗談でも嫌々でもなんでもなく、真正面からに言葉をかけていることを認識した。
胸の奥で、小さな小さなあったかい感情が灯ったような心地に、はくすぐったくなる。
先ほどまでの思考はくすぶってはいるけれど、は小さくゆっくりと笑みを浮かべた。
「フィンクスさん、シャルナークさん」
言葉にならないとばかりに、二人を交互に忙しない動作で見てくるの様子に、二人は同時に吹き出した。
幼い仕種は、初期のサトルたちよりもを幼く見せていた。
あどけなく喜びを隠し切れないその笑みは、フィンクスやシャルナークの胸をも温かくした。
漫画の紙面で、一人孤独に愛するものの安否を気遣っていた。
大切なものたちから愛するものと引き離され、一人身内の所有する一室に閉じ込められていた。
普段なら持ち主が困るだろうと漁ることも壊すことも厳禁だと言いつける側のは、その静かで孤独な一室の窓を、脱出の為に割るという暴挙を軽くやってのけた。
暴れる場面なぞ、ちょっと大声を上げるだとか拳を振るって見せるくらいしか描写されていなかったが、室内の椅子を振り上げためらいもなく窓を割ったあのワンシーンは、強烈だった。
基本的に笑顔がほとんどのが、一心不乱に愛するものの無事を確かめようと奮闘するその姿は、サトルたち主要キャラには狂ったのだとか、やはり相手がなにかに害を及ぼしたのだと言われていても、大多数の読者の目線にはそうとは映らなかった。
ああ、やはりサトルのいとこだと。主要キャラの血縁者なのだと、愛するものを守るために奮起するその姿を見守った。長く長く脇役で笑顔が印象的だったの、初めて見る苛烈な行動だった。
自己犠牲などではなく、愛するものと過ごす未来こそを望むと行動するその姿は、サトルたちが今もなお戦い続ける姿と同じ、清々しいものすら感じられた。
『あんただったら、サトル、愛する人が何をされているか分からない状況で、どう動く?』
サトルを見据えるその視線は、戦うことを知らないはずだというのに、サトルに戦慄すら感じさせる鋭いものだった。