06:慕うもの
が目を覚ましたとき、傍には誰も居なかった。誰かが体温を感じるほど近くに居た夢の余韻にまどろみつつ、は見慣れない天井を見上げる。部屋の中を見回す。サトルの部屋より簡素だな、と感想を持ちながら徐々に意識を覚醒させていき、欠伸を三回繰り返した後にようやく記憶が再生される。
「ああ、気絶したんだ」
声に出して確認すると、滑稽だが自覚が生まれてくる。恥ずかしい、初対面の人の前でことごとく失敗ばかりだとはため息を吐く。
「……ふぃんくす、さん?」
おそるおそる、部屋に居たはずの人物を呼んでみる。けれど声は返って来ない。風呂を借りたときに軽く見回したが、そう広い家ではない。から完璧死角なのは、トイレと風呂くらいの狭い部屋だ。
「しゃるなーく、さん?」
もう一人の名前も呼んでみるが、応答はない。困った、もしかしなくても一人きりなのだろうか。
は男性陣二人の無防備っぷりに心底驚いた。初対面の、それも結構非常識な出会いを果たしてしまった女を、なんでここまで信用できるのだろうと、心底二人のお人よしっぷりに驚いた。
実際は警戒するに値しない実力の持ち主で、更にフィンクスやシャルナークに言わせれば歓迎しても警戒なんてとんでもない人間。何も知らないの前でよいところを見せようと張り切れるほど。
しかも二人がいない間にも、勝手にの中で好感度は上がっていく。その事実を知ったとき、二人は自分たちの行動を褒め称えた。
は驚きから正気を取り戻すと、笑みを浮かべる。視線を動かし、自分の荷物が丁寧に並べられていることにようやく気付いた。
自分がしっかり握っていたはずのバッグは、当たり前のように得体の知れないものにまみれていただろうに、いまやその跡形もなく美しい状態。中身は並べられているが、手にとって見ると濡れた形跡さえない。
バッグが防水仕様だったからと言うのもあるだろうが、初対面の男性二人が丁寧にバッグを拭き中身を並べている様子を想像すると、先ほどとは違った笑みがに浮かんでくる。
ほほえましい。
更に好感度は上がり、荷物を勝手に開けられた不快感などはなかった。荷物が無事だったのも大きい。さらには初対面の二人の労力を考え、嬉しさが募っていた。
「さて、どうしよう」
頭を切り替えて呟く。
が手にとったのは、気絶する前に見た洋服のタグ。模様のような店名のような記号は、の記憶が確かなら……。
小さく喉が上下する。
手にとっているタグの文字は、その世界では共通語であると言われる『ハンター言語』ではないだろうか? の喉がもう一度上下する。喉に何かが絡むような不快感。
裏返しても記号のような文字は変わらず、うっかり値段も見てしまう。あ、なんか桁が違うと背筋を先ほどとは違うものが駆け抜けていった。
「いち、じゅう、ひゃく、せん、ま……」
そこで読み上げるのを止めるが、目に焼きついた数字は変わらない。
せっかく幻覚が見えなくなったと思ったら! その幻覚が具現化した世界っぽいんですけど!
咄嗟に意識を切り替えてみるが、目の前の数字はやっぱり変わらない。が貧乏性ゆえに、清水の舞台から飛び降りないとレジに持っていけない値段の服。デザインはラフ。特にごてごてしていない上に、苦しくない程度に体にフィットしている。生地も良いのだろう、今まで体験したことのない気持ちのよさ。
それら全てを、あの粘着質の何かに包まれた不快感の所為、あんな気持ち悪い状態になったのだから、その後は何を着ても気持ちよいものと決め付けていたのに、目の前に笑顔で突きつけられている現実。これはお返しが高くつくなぁと考えて、は話を脱線させている自分に気付く。
「……」
そう、『ハンター言語』なのだ。
目の前に現れていた幻覚たちの、住む世界の言語。
『しけた顔してんな。飯食え、飯』
気さくな笑顔で話し掛けてくる、忍びだと名乗る彼。
『……ねぇ、耳聞こえないの?』
包丁で見たこともない動物らしきものをさばきながら、怪訝そうな女性。
『おや、珍しい来客ですね』
『押忍! 師範代のお知り合いですか?』
どうしても二人セットで見てしまう、人懐っこい師弟。
『今日はついてるみたいだね。ほら、これあげるよ』
無造作に死体から取り出した石を、こちらに放ろうとする無表情で長い黒髪の男性。
『私が知ってるのはこれだけ。で、貴方は何を知ってるの?』
気が強くて人が良くて綺麗で、生まれた島からいつも見守っている人。
『へぇ、初めて見たぜ。……ふうん』
何事にも興味を持って世界中を回る、その存在を追いかけられる自由な人。
精神病だ、と自分で断定してしまうほどはっきりと聞こえ、見えていた幻覚。けれど今現実となって手に触れているタグに、書かれている文字は幻覚ではない。夢かもしれないと思うが、ひとまずは現実感が今までの比でなくある。
「……」
タグを見つめる。
幻覚は等しく、本当に等しくを知っているような言動をとっていた。もしくは、向こうが一方的に知っているというような好意的な言動。解せない以前に、幻覚が見え始めた初期の頃は普通の人間だと思って対応してしまい、それ以来まといついてくる幻覚まで出てくる始末。
けれどその延長線上として、同じ文字が部屋に転がる場所に居る。
さて、どうしたものか。
サトルや母親に心配されている真っ最中に、このような事態。はっきりと自分の中の考えをまとめれば、自身戸惑うし信じたくないが、まぁ、ごく一部で愛されている、いわゆるひとつの……。
そこでは考えることを中断させた。
人の気配が玄関から感じられる。ああ、帰ってきたんだと自分の格好を見つめ、一応立ち上がって出迎える心積もりをする。
鍵の差し込まれる音、回される音、ドアノブが引かれて外からの光が差し込み、人影が二つ現れる。
ああ、親切な二人だ。帰ってきたんだ。
携帯電話の時計を見れば、荷物を確かめたときから十分ばかりが経過していた。
最初に入ってきたフィンクスが、の姿を見つけ笑う。
「具合、良いのかよ」
フィンクスの表情は、言いながら少し不機嫌にゆがむ。けれど一生懸命笑おうとしている。
なにやらいろいろ考えて、でもこんなことしか言えませんでした。というような、自分を心の中で罵倒しているような表情。ここまで顔から感情が読める人も珍しいと、は笑顔を浮かべながら感心してしまう。
フィンクスの表情は、上手いこと気の聞いたこと言えない自分へのもどかしさが、それはもうはっきりと現れていた。あら、こんなに好意を抱かれていいのかしらとが照れてしまいそうになるほど、少年のような悔しそうな顔。
「顔色はもう大分いいね。そうそう、使いそうなもの買ってきたよ」
フィンクスの後ろから覗く、シャルナークの笑顔へと視線を動かす。好青年ですと標本にしたくなるほど、可愛らしくも無邪気な笑顔。警戒心の欠片もなさそうなそれは、その見た目を裏切る目敏さでが持っている携帯電話に気付いた。
「連絡、取れそう?」
一瞬何のことか分からず、は首をかしげる。けれどシャルナークの視線に意味を理解し、笑う。思ってもみなかった言葉への、純粋に面白いと思った笑み。
「いいえ、時間を見てただけなんです。これからやりますね」
「席外そうか」
「私が玄関の方に行きます。すみません、気を使っていただいて」
立ち上がりながらは二人の荷物に目を見張る。二人は紙袋を五つも六つも持ち、けれど重そうな素振りもなくへと進路を開ける。
思わずまじまじと音が出るほど荷物を見つめたに、フィンクスが笑って促した。
「連絡すんだろ」
「ええ、はい」
あまりにも普通に言われてしまったので、は突っ込む言葉を失う。ええと、ああとと思いながら声には出せず、そそくさと玄関近くへと身を寄せた。
室内で荷物を降ろす音がする。その音を背景に、は発信履歴から母親の携帯電話へとコールを始めた。
聞きなれた機械音が鳴り響く。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。
けれど応答の声はない。留守電にもならない。
不思議に思って一度耳から話してみると、液晶画面には初めて目にする文字。
「……『不能番号』……?」
なんだそれは。小さく呟いて一度通話を止めると、再度掛けてみる。けれど結果は同じ、サトルに掛けても同じ。ケイコに掛けても同じ、友達に掛けても誰に掛けても、結果は同じだった。
見たこともない『不能番号』の文字の表示は消えず、コール音すら段々とかすれていった。最後にはぷつりと通話自体が勝手に終了されてしまう。
血の気が下がる。思わず室内の二人を振り返り、ばっちりと目が合ってしまう。
「どうしたんだよ」
「なに? 誰も出ないのかな」
言われた言葉に吸い寄せられるように、はふらふらと室内に戻る。床に座り込んだ二人の前に座り込み、空笑いで携帯電話を差し出した。首をかしげる二人に、のむやみやたらに明るい声が響く。
「なんだか不思議なもじがでてきまして。『不能番号』って表示されてしまいました。もしかして、これって新しい着信拒否ですかね」
そんなわけはない。なぜ仲の良い母親が、を着信拒否などにするのか。ありえない。
乾いた笑い声とため息に、フィンクスとシャルナークが顔を見合わせる。すわり心地が悪そうに二人は笑うと、次の発言をお互いに目で押し付け合い、押し負けたフィンクスが口を開いた。
言い難そうに一言、二言無駄な音を出して、の落ち込んだ肩にそっと触れる。
誰もそんなことしろって言ってない!
シャルナークが素早く小さな声で囁くが、には届かない。フィンクスは緊張の面持ちで聞いていない。
「悪ぃ、ええと、言わなきゃならねぇことがあんだ」
「……言わなきゃならないこと、ってなんですか?」
覇気のない声がゆっくりと顔を上げる。気にしないでくださいと淡く笑い、は弱弱しくフィンクスを見上げる。
……思った以上に衝撃を受けている。
フィンクスは助け舟を求めるようにシャルナークを見るが、シャルナークはフィンクスの手をどけろというばかり。助け舟は期待できそうにない。フィンクスはの肩に手を置いたまま腹をくくった。シャルナークは未だに文句を言いつづけ、は何か言いたそうなフィンクスを見つめる。
「……あのな、オレたちお前の言葉、読めないんだよ」
「え?」
「あ、オレは読めるよ。これでも博識だから」
「そういうのを自画自賛っつんだよ。茶々入れんな」
「了解」
は瞬きをひとつ。そしてゆっくりと考える。ああ、そうか。この二人はジャポン? の人間ではないはずだ。それなら読めないのも頷ける。というか、シャルナークさんは博識なんですね、本当に自画自賛ですね。
感情はついていかないが、思考はめぐる。その間に、仕切りなおしたフィンクスが舌を動かす。
「とにかく、助けたのはいいがなんで助けられたのかも、どこから助けたのかもよく分かってねぇんだよ。無責任で悪ぃけどよ、ああと、国はどこだ?」
一生懸命言葉を選んでいるフィンクスに、シャルナークはスムーズじゃないなぁと内心ため息を吐く。けれど逆に良かったのかと、の顔を見て思う。
なんだか泣きそうな顔は、嬉しそうに目元を緩めていた。写真撮りたいなぁと思うが、我慢して目に焼き付けておく。表面上は真面目な顔を取り繕っているので、にはばれていない。フィンクスはいっぱいいっぱいで、シャルナークを見る余裕もない。
フィンクスはの小さな「日本です」の言葉に顔を歪める。怪訝そうな顔に見えたのか、の顔は悲しそうな笑みを深めるが、実際は喜んでいることをシャルナークは知っている。シャルナークも喜んでいるからだ。
「……知らねぇな」
ゆったりと間を置いて答えたフィンクスに、は分かってたとばかりに首を横に振る。
「私も、自分の国でこんな文字は見たことがありません。他国でもこんな形の文字は、あっても有名じゃないと思います」
「これ、世界共通語だよ」
フィンクスが何か言うより早く、シャルナークが小さな声に言い聞かせるような丁寧な発音で、その場を引っかき回す。は雷に打たれたように体をびくつかせ、シャルナークを信じられないような丸い目で見つめてきた。
あ、可愛い。
シャルナークが思うと同時に、フィンクスの拳がうねる。そうと言っても大分手加減して、いつもの何十分の一程度。の前だから常人っぽく振舞っているらしいその態度に、シャルナークはの後ろに逃げ込みながら真面目な顔を作る。
「いきなり何するんだよ、フィンクス」
「お前、オレがひとつひとつ珍しく丁寧に話してるってのによ」
「全くだね。話が進まないもいいところだっよっ」
シャルナークの言葉にフィンクスの拳が、何度も続けて唸る。いつもより優しいくらいぬるい拳に、シャルナークは逃げながら笑う。フィンクスはどう表情を作っていいのか分からないらしく、笑いそうな深刻そうな気難しそうな、なにやら似合わない顔になっていた。
には絶対に当たらない拳と、の周りをぐるぐる逃げつづけるシャルナーク。
小さな笑い声が、二人の耳に届いた。
見ればが目元を拭って、堪えきれない笑いをこぼしていた。先ほど泣きそうだった涙なのか、目元を拭いながらも笑い声は小さい。肩が震えるほどではないが、楽しそうに笑っていた。
「なん」
「お二人とも、すごく強いんですね。拳が流れるみたい」
言いかけたフィンクスの口が、途中で止まる。楽しそうに笑うの笑顔に、初恋の女性に笑いかけられた少年のような、見るからに好意があからさまな赤面をする。
ボッと音がしそうな赤面に、シャルナークは笑っての背後に隠れた。両手はの肩にそっと置き、「フィンクスのスケベ」とにも聞こえる音量で笑う。
「フィンクスさんのすけべ」
もフィンクスの赤面に煽られ、シャルナークの言葉に乗る。フィンクスは握り締めた拳の行き場を無くし、口を音もなく開閉する。目はシャルナークを睨んで良いのか、笑っているを見ていたいのかうろうろと忙しなく、頬の紅潮は治まる様子がない。
「だれがスケベだ!」
とりあえず叫んで否定してみても、シャルナークとの笑いが深まるだけ。
けれど結果として、を笑わせられて良かったとフィンクスは肩の力を抜く。
「笑うなら笑い死ぬほど笑え! むしろ、シャル。お前は笑い死ね!」
流れに乗って叫べば、更に笑いが深くなる。シャルナークはフィンクスの照れ隠しにも気付き、笑いが止まらない。
「ちょ、どこの子供……っ!」
そのうちヒーヒーと甲高い声で、酸欠気味に笑い出すのではというシャルナークの笑い声に、先に笑いを収めたはフィンクスに頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。そうくるとは思わなくって」
まだ笑いを完全に収められていない、肩で息をする喋り方。
それでも一生懸命謝ろうとして、でも口元が引くつくのを押さえられない。
シャルナークの笑いには腹の一つも立つが、が笑ったことでほっとしたフィンクスはその顔を注視する。本当に笑っている、その事実に笑みを浮かべた。
「……元気、でたか」
フィンクスの小さな一言での笑顔が止まり、シャルナークはからかうように口の端を上げた。
「今日はやけに素直じゃんか、雪でも降りそう」
「だってこいつ、笑ってねぇとなんか嫌だろ」
隠すほどの事ではないと、フィンクスは若干顔を赤くしながら早口でまくし立てる。その言葉には、シャルナークも肩をすくめながら同意の声を上げた。
の丸い目が二人を見つめる。
漫画の中のは表情をくるくる変えていたが、やはり笑顔が一番多かった。優しく労わりの言葉を告げて、触れるその手がどれほど優しいのか漫画から痛いほど伝わってきた。そして、その手の暖かさに主人公達がどれほど癒されてきたかも知っている。
目の前に居るからいくらか未来のが、その優しい手で恋に落としてはいけない相手に触れることも、連載を読んでいるフィンクスとシャルナークは知っていた。
引力があるわけでも、癒しの力があるわけでもない。
けれどよくある優しい手を知らない人間にとって、その手は魅惑的で離れがたく逆らいがたいものになる事くらい、読者である二人が分からないはずがなかった。ただのタイミングだとは言え、漫画のキャラクターが羨ましいほど絶妙なタイミングでは触れてくる。
「……ありがとうございます」
だから、目の前で嬉しそうに目元を細めて、薄っすら赤く染まった顔で微笑まれるとどうして良いか分からなくなる。嬉しいが、平凡な一般女性が笑っているだけだと言うのに、タイミングがとてもよい。
漫画の様に絶妙なタイミングでの微笑みは、美醜に関わらず胸にきた。