03:振り上げた剣と降ろされた声
笑うピエロ、鳴り響くファンファーレ、はじける花火、あがる歓声。
夢のように鮮やかに移り変わるサーカスの催し物の中、は冴えない表情で目の前の移り変わりを注視するだけだった。
「面白くない?」
ここ最近優れない娘の顔色に、気を使った母親の声。気分転換に母娘でデートだとを連れ出してみたものの、ますます悪くなる顔色に母親は顔をしかめた。
ようやく母親の声が脳内に到達したは、慌ててそんなことはないと首を横に振る。けれど母親は失敗したかとばかりに悲しそうな笑顔を浮かべ、せめてもの慰めにか「食べよう」とポップコーンとジュースを差し出してきた。
気を使わせてしまった。
は更に落ち込むが、笑顔を精一杯浮かべてポップコーンを頬張りジュースを飲み下す。サーカスが面白くないわけではない。ただ、この空間に紛れ込んでいる光景に胃が痛くなっているだけだ。
トランプを切って人体の部位を消してみせる奇術師。
得意げにサーカスの巨大テント内を飛び回る子供二人。
球形の鉄格子の中を走り回るバイクを見て、その球形の上に腰を下ろして眺めている目つきの悪い小さな男性。眉無しのジャージ姿の男性。
一生懸命ドリンクを配ろうとして、見向きもされない鼻が大きく背の小さなおじさん。
操り人形のような顔で、玉乗りの横を歩く黒髪の男性。
全てがを情緒不安定にさせた。
「、ごめん、悟くん」
母親のバッグが鳴ったと思えば、その原因である携帯電話を渡されてしまう。
「悟?」
「そう、替わって欲しいって」
「わかった」
まだ小さな従姉弟の悟。小さいといってももう高校生になるが、にとってはほんの数件隣に住んでいる、生まれた頃から知っている可愛い弟。そういえば悟にも心配されていたっけと、苦笑しながらテントの外へと歩いていく。歓声がすごくて、多少の話し声ながら紛れつつ外へと行ける。
「はい、です。悟?」
【おれおれ、姉ちゃん。サーカス見てんのにごめん】
「いいよ、ちょうど外の空気吸いたかったから」
わざわざの母親に連絡を取るという、の都合が悪ければ絶対に取り次がれないルートでのかわいらしい気遣いに、は可愛い弟の顔を思い浮かべて笑みを浮かべる。癒されるなぁと思いつつ携帯を耳に当てなおし、「それで?」と先を促した。
「なに、困ったことでもあったの?」
【さん、オレもいます! ぼくもぼくも!】
聞こえてきたのは悟の悪友ともいえる親友たちの声で、元気のよさには心の底から笑ってしまう。返事をするまもなく悟の本気でない怒鳴り声が響き、逃げ回る悪友たちの歓声としばし走り回る音が続いた後、ようやく悟の声が聞こえてきた。
【ごめん、あいつらマジむかつく!】
「はいはい、いいから用事は?」
気を落ち着かせるようにあしらうと、悟は息を詰めるように黙り込んでしまう。思わずも黙り込んでしまうと、うめき声が響いてきた。
【う、うぅ……ああ】
「なに、おなかでも壊しちゃった? ちゃんとお腹なおして寝てる?」
子供じゃねぇから! と生意気な反論をしつつ、悟は息を整えてささやいてきた。
【ねえちゃん、具合悪かったら看病してやるから、早く帰ってこいよ】
「……生意気。でもありがとう」
思わず目を丸くしてしまっただが、あたたかい気遣いに自然と頬が緩む。ぶっきらぼうな言い方でも吹き飛ばない優しさに、は悟との絆を感じた。
照れたように慌てて電話を切る悟。は母親の携帯電話のボタンを押すと、なんだか晴れた気分で空を見上げた。そして即座に地面を見つめた。
「……わたしは、なにも、見ていない」
見覚えのあるカラーリング・模様の飛行船が見えたような気がしたが、は無視した。そもそも、「それにしても合格者ゼロとは」なんて老齢した男性の声が聞こえるだなんて幻聴だ。
せっかく気分良くなれたのだからと、知らない振りでサーカスのテントに入りなおそうときびすを返す。と、様子を見にきたのか母親と目が合った。
「母さん、これありがと」
「どういたしまして」
なんでもなく、ごくごくいつも通りには携帯電話を母親に渡した。母親も顔色のよくなった娘を見て微笑み、そして携帯電話を受け取った。までは、本当に普通だった。
「あ」
「え?」
母親の顔に「まずい」と書かれ、が母親の視線の先である自分の背後を振り返ろうと、何の気なしに動いた。
の視界を埋め尽くしたのは、大振りでテレビや映画でしか見たことのない剣を構えた大男。そしてその剣を振り上げられているのは、自身。
気づいても動く反射神経のないは、母親が何か言うのも聞き取れずに固まっていた。
大男の顔は見えない。剣は振り下ろされる。
「!」
これはもう死んだ。あまりにも突然の事態に、は大男を見上げたまま、腕を引っ張られる感覚に身を任せた。
「……間に合った、ってか」
「いや、間に合わせちゃだめだろ。いや、でもほんと」
若い男の声が二つ。なぜかの体はねっとりと液でも被ったかのように不快で、目を開けていられず呼吸がままならない。苦しい、と捕まれていない方の手で自分の喉元を掻けば、分厚くぬめる膜に自分の喉にすら触れられない。いつの間にこんなものを被せられたのか、それとも、これは振り下ろされた剣の影響だろうか。
混乱するの耳に、母親の声は聞こえてこなくなっていた。サーカスの騒がしい音も聞こえず、分かるのは若い男二人の声と自分の体を覆う膜の粘つく音だけ。
「やべ」
「早く取ろうよ。意味なくなるだろ」
まったく慌てていない声での体にまとわり付いていた何かが、ずりずりと引っ張り剥がされていく。生まれたての哺乳類からはがされる羊膜のようなそれは、にとってただただ不快だった。
粘液質の不快な音を立てながら、その膜は丁寧にの体から剥がされていく。バッグを防水加工にしていてよかったと、は心底安堵した。携帯電話は日常でも仕事でも大活躍中なので、壊れられては元も子もない。
「結構簡単に取れるもんだね」
「でも気持ち悪ぃな、仕方がねぇけどよ」
男性二人はケンカ腰で会話をしながら、どこか安心した声を上げる。べちゃりとその羊膜のようなものからが開放されると、それを片方がどこかへ持って行き、の傍に残ったもう片方と言い合いしながら話を続けた。
ようやくまともに呼吸が出来るようになったは、口の中に入り込んでいた液体を吐き出した。
「つーかよ、マジで使えるとか思わなかったんだけどよ」
「なにそれ、疑ってたとか今更言うんだ」
「どう考えても眉唾物だろうが」
「眉毛がないくせに?」
「うるせぇよ、これはファッションだ」
「負け惜しみって見苦しいよ。それより、それ片付けといてよ。ほら、吐いちゃったから処理しなきゃ」
「むしろそれ剥がしてよかったのかよ。逆に死ぬんじゃねぇか?」
「そんなわけないじゃん、剥がさなきゃ明らかに死にそうだったわけだし」
「あのままでも死にそうだったけどな」
粘着質の重い音が、どこかに落ちる音がする。
それが何か理解も出来ず、はとにかく吐いた。口の中が空になると、飲み水を求めて手元を探る。あるはずのない物を求めていたはずだが、すぐに手に硬い感触が触れてきた。
「水だ」
傍に残った男の声だと判断する前に、はそれを口に当てて含んでいた。冷たい水は粘ついた口内では気持ちが良く、すぐに粘着液ごと吐き出したくなる。それが分かっていたかのように、男のものだろう硬い手が背中をなでてきた。なぜか少し震えているその手は、粘つく液で上手く目が開かないの頭を押さえてきた。真下に向いたの口元に、また硬いプラスチックのような感触。
「吐け、楽になるだろ」
「フィンクス、すごい紳士的で暴力的だね」
ぶっきらぼうな言葉のすぐ後に、茶化すような別の声。
はとにかく口の中のものを出して良いのだと理解すると、遠慮なく吐いた。何度も水を口に含み、持っていたグラスらしきものが空になると新しいものを手渡され、遠慮なくすっきりするまで吐き出した。
男の手はその間ずっと背中をさすり続けて、もう片方の男は何度もグラスを握りなおさせてくれた。
聞いたことのない男二人の声に、初対面だと分かっていながらは恥など吹き飛ばして自身の不快を取り除く作業に没頭した。
「……終わり、かな?」
「んじゃこっちだな、おい」
言いながら乱暴な手つきで、口元と顔が柔らかい何かに包まれる。タオルだ、とが気づいたときには痛いくらいの勢いで拭われ、片方の男が笑いながら見ているようだった。
「フィンクス、だからそれすごい乱暴だと思うんだけど」
「んじゃお前やれ」
「こっち片付けてくる」
自分の背中をなで続けて、顔を拭いてくれているのは「ふぃんくす」と言う名前の男だとは理解した。もう一人の名前は分からないが、きっと吐いたものを捨ててくれるのだろう。
なぜこんな事になったのかは分からないが、段々冷静になっていく頭ではゆっくり考えた。
辛うじて口内と顔がすっきりすると、目を開ける余裕ができる。タオルが離れたのを期に瞼を開けると、至近距離に何かが見えた。
ぼやけたそれを一生懸命見ようと焦点をあわせると、それは男の顔だった。
瞬きを何度も繰り返すと、男は笑った気がした。
「……見えるか?」
どこか探るようなその声に不信感など感じられず、はゆっくりと頷く。いつの間にか後頭部に回った手も、ゆっくりと離れていった。
「ん、なら大丈夫だな」
何が大丈夫なのか、聞く前に男の顔がはっきりしてくる。ああ、本当に眉毛らしきものがないなぁと、先ほど別の男としていた会話を思い出す。
目の前の男性は、確か、記憶が確かならふぃんくすと呼ばれていた。
が何度か瞬きを繰り返し顔を擦ると、フィンクスは新しいタオルを投げてきた。座り込んだが顔を見上げると、立ち上がったフィンクスは笑みを浮かべる。人の良さそうなその笑顔に、眉毛がなくても怖い人間ではないのだなと判断をした。
「シャルが戻ってきたら、シャワーに入ってこいよ。気持ち悪ぃだろ」
「……、あの、ふぃんくす、さん? ご親切にどうも」
おそるおそる口を開くと、フィンクスの目が見開かれる。まん丸になってしまった目に、が多少腰を引くとしゃがみ込んだフィンクスが、いつの間にかの手首を握りこんでいた。
「なんで俺の名前、知ってんだ?」
怒気も重圧もなく、ただただ『驚愕』と顔にかいた質問に、は瞬きをして首を傾げた。先ほど聞こえた会話の名前は、もう一人の名前だったのだろうか。
けれどこの場に居ない男性の名前だろう「しゃる」と言う言葉を、目の前の男性は口にしていた。消去法と会話内の特徴から、目の前の人の名前が「ふぃんくす」のはず。
きつくはないがしっかりと握られてしまった手首に、は困惑のまま口を開く。
「あの、先ほど会話されていたとき、聞こえて、貴方のお名前だと思ったのですが」
困惑と緊張に鼓動が早まったに嘘はないと思ったのか、フィンクスは瞼を少しだけ伏せて寂しげな表情を見せる。けれどそれも一瞬で、すぐに笑みを浮かべてきた。
「そっか、だよな。悪ぃ」
謝ってきたフィンクスは、が少しだけ笑みを浮かべて首を横に振ると、人懐っこく目を細めて笑った。
その表情が従姉弟である悟の悪友に似てるな、とは少しだけ可愛らしく思った。自分と同じくらいか、上だろう男性に向かって卒業間近の中学生と比べるのは失礼かもしれないが、可愛らしい表情なのは確かだった。
そんなの顔を見ていたフィンクスの頬が、少しだけ色付く。
「あんた」
フィンクスが口を開くと同時に、握り締められた手首の力が増した。その手首は未だに粘着質液体がついていると言うのに、気持ち悪くないだろうかとどこか違うことにの意識は向いた。
フィンクスの顔は、どこか戸惑うように頬を赤らめを凝視していた。
以前告白してくれた子も、こんな顔をしていたっけ。
は数年前の出来事を思い出し、その彼とは結局別れてしまったことを思い出した。
最後まで年下の癖に肩肘張って頑張っていて、それでいて安らぎをくれる子だった。
「ふぃんくすさん?」
掴まれている手を揺らすと、正気付くようにフィンクスは瞬きをした。次いで、自分がの手首を掴んでいることを忘れていたのか、自分が握りこんでいる手首を見ると、真っ赤な顔をして即座に両手を挙げて手を離した。
「……驚かせてしまいました、ね」
そんな反応を予想していなかったは、思わず笑ってしまう。ごめんなさい、と付け足しながら笑みがこぼれてしまい、掴まれていた手首を一応撫でさすってみる。痛みのない手首に、もう一度フィンクスを見た。
「あの、」
けれどは何を言えばいいのか思いつかず、真っ赤な顔のまま両手を上げて自分を見つめてくる、フィンクスの熱い視線に口を閉じる。くすぐったいくらいにまっすぐ向けられる好意の視線に、は初対面としてどのような対応をとればいいのかとしばし悩んだ。
そう言えば、ここはどこだろう。
一旦会話は保留にして、は辺りを見回してみた。台所、ベッド、テーブルに使いかけの食器類や床に放り出された雑誌類などを目に留め、一人暮らしの男性の部屋ではないかと見当をつけた。目の前のふぃんくすという男性か、しゃると言われた男性の部屋なのだろう。
生活臭のある積み上げられた服や脱いだままの靴下などを見つつ、けれど荷物が少なく簡易な部屋だなと感想を持った。出張か仕事の時にだけ使う部屋のようだと、そこまで考えてフィンクスへと視線を戻した。
未だに真っ赤な顔でを見ているフィンクスに、は少し戸惑いを残しつつ、さすがに心配になって人一人分空いてしまったお互いの間隔を、少しの動作分詰めた。
「あの、大丈夫ですか?」
手を伸ばせば額に触れられる距離に近づくと、フィンクスの顔が更に真っ赤になった。
……自分は、女として意識されているのだろうか。もしかして。
なんだか初心な少年をかどわかしている様な気分になりつつ、はもう一度声を掛けた。出来るだけ優しく、刺激をしないように。
「ふぃんくすさん」
「お、おう!」
今度はすぐに反応が返ってきたが、裏返った声は動揺を表していた。なんだかいけないことをしている気分にがなっているのも知らず、フィンクスは真っ赤な顔で更に距離を開けていった。
お尻でそんなに早く移動して、摩擦熱が出ないかとが心配するほどの早さだった。
「なななんだよ! あ、シャワー! シャワー行ってこいよ!」
の顔を見て視線を一旦床に落としたフィンクスは、思い出したように拳で自分の手のひらを打つ。なんて古典的な反応だとが突っ込む暇も与えず、フィンクスは真っ赤な顔で立ち上がるとドアを指差した。
「でも」
今現在、なぜここに自分が居るのかも分かっていないは、さっぱりしたいが事情も知りたい。しかもフィンクスに自己紹介もしていないので、すぐに頷けるわけがない。フィンクスは所詮初対面の見知らぬ男性だ。
けれどそんなの事情も警戒心も構わず、むしろ察することが出来ないらしいフィンクスは顔を真っ赤にしての両脇に手を入れ、あっという間に抱き上げてしまう。思わず声を上げてしまったに、フィンクスの体は硬くなった。筋肉質だなとが思っているうちに、あっという間に別の部屋へと連れ込まれてしまう。
「んじゃな!」
そして脱衣所のような場所にを降ろすと、の返事も待たずにフィンクスは脱衣所の鍵の閉め方をレクチャーし、足早に行ってしまった。
ぽつんと残されてしまったは、よくある脱衣所と隣のお風呂場を一応確認する。湯気の立ち上っている浴そうに全身の不快感は一層増してきて、先に脱衣所の洗面台で手を洗わせてもらう。そして他人の家ながら、少々脱衣所にて着替えの捜索をしてみる。あるはずないと分かってはいたが、やはり探したところでなかったことに、少しばかりどうしようか考え込んでしまう。
けれどサーカスを見に行くと言う目的で着ていた私服は、もう二度と着れないんじゃないかと危惧するほど、謎の粘液で滴るほどべちょべちょのぐちょぐちょ。
ふぃんくすさん、よく私を抱き上げられたよと、が感心してしまうほどひどい。匂いがないのが本当に救いだ。
「お風呂、お借りします」
少し声を上げて、フィンクスに聞こえるようは礼儀として断りを入れる。
服を脱ぐときはその粘液具合に躊躇したが、一応そこらにあったごみ袋らしきものに、脱いだものを突っ込んでみた。さすがに洗濯機に突っ込むのもどうかと思っていたので、パッと見で可燃物に見えるのもしょうがないと諦めた。
そして着替えがないことも諦めた。ここまで勧めてもらった手前、断るのも角が立つし、勧めた手前、きっと何か用意してくれるだろうと安易に考えてみた。
「初対面の男性の部屋でお風呂だなんて、考えたこともなかった」
普段使っているのだろうボトルの中身を借りつつ、頭を洗い顔を洗い体を洗った。特に粘液によるアレルギー症状は見られず、ついでに振り上げられた剣がかすった形跡もない。
不思議なことばかりで、この先どうすればいいのかまで冷静に考えられないが、とりあえずお湯の温かさに浸ってみる。けれど初対面の人間の風呂で、全身全霊心の底からリラックスすることは難しい。
「……どうしよう」
この上なく好き勝手に風呂を堪能しながらも、は難しい顔をしながら悩み続けていた。