意識
はなんの前触れもなく、ぱちりと瞼を開いた。
瞬きを複数回繰り返し、軽く首を捻って肩を鳴らすと両腕を伸ばして体をほぐし、あちこちの痛みに顔をしかめながらも上半身を起こした。
辺りを見回した後、半分閉じかけた目のまま欠伸をひとつ。片手で自分の頭を掻いて髪を掻きまわし、首を傾げて猛一度大あくび。
『……なに、これ』
そして自分の左手首にまきついた、シルバーで出来たブレスレットのようなものに気づく。シャラリと硬質で聞き苦しくない愛らしい音を奏でるそれは、の何かを爪弾いた。
見たことのないそれを、左手を掲げて窓からの光に透かす。
シャラリシャラリと可愛らしい声を上げて光を反射するそれは、の表情を緩めた。
『綺麗』
『そりゃお前だ』
『っ!?』
心の準備もなく掛けられた声に、の体がはねた。即座に声の方向へ体ごと振り向くと、どこか嬉しそうな表情のノブナガが壁にもたれて立っていた。
片手を着物の懐に入れて、なにやら格好良いんだかだらしないんだか、いやむしろ着慣れているからこそなのかとは思わずじっくりノブナガを観察してしまう。
そんなに喉奥で笑ったノブナガは、飄々とした雰囲気での居るベッド際に来ると、ためらいなくベッドに腰掛けた。
『気分はどうだ?』
『はい、おかげ様、で……?』
ノブナガに頭を撫でられながら、普通に返事をしていたの瞬きが止まる。何かを忘れているような気がする。ものごっつい大切な、絶対に忘れたいけないような、むしろ忘れられるほど平和ボケできる状況じゃないような、そんななにかを。
『……?』
『とりあえず、なんか飲むか』
が目に見えて首を捻り、眉間に皺を寄せ始めると、ノブナガは面白くてたまらないとばかりに笑い声をこぼすが、その体はすばやくベッド脇にある冷蔵庫からペットボトルを取り出していた。スポーツ飲料を選ぶと、難しい顔をしているの手をとり、しっかりと握らせてやる。
冷たさに再び体を跳ねさせたに、笑いながらしっかり飲めと頭を撫でた。
『ありがとうございます。……私、絶対何か忘れてる気がするんですけど』
『なに忘れたんだ?』
『それすら思い出せないんですよ。なんだろう、本当に絶対ごっつい大切な事柄だったと思うんですけど』
『お前の頭の中は、さすがに覗けねぇなぁ』
『うーん、なんだろう。なんかこう、喉に詰まってるような、胸が塞ぐほど苦しいような……』
うんうん唸りながらも、はペットボトルを開けようと手を動かす。けれども寝起きで力が出ないのか、の手はキャップを上手く捻ることが出来なかった。
それを何も言わず奪い、ぱきっと音も軽やかにあけたノブナガは、そのまま開けた口をの口元に持っていく。は一瞬驚いて身を引くが、話を続けるノブナガに目礼して受け取り、ごくごくと勢いよく嚥下していった。
『胸を塞ぐって、お前今飲んだじゃねぇか』
『心境ですよ、心境』
勢い良すぎて小さなゲップを漏らしたは、居心地悪そうにさらに小さな声で非礼を詫びた。それにまた笑うノブナガは、片腕をの腰に回して引き寄せると、ペットボトルをまた奪ってサイドテーブルに放り投げた。
ぼこん、とまだまだ内容量のある音が鳴る。
『……なにしてんですか、セクハラですよ』
『んー、気にすんな。まだ寝ぼけてんのか?』
『いや、それノブナガさんにそっくりそのまま言葉返しますから。なんですかなんですか、スキンシップ過多ですよ!』
言いながらもの声音は楽しそうに弾んでいて、けれど目線は放り投げられたペットボトルを探していた。いつの間にかキャップを装着していたそれに、ノブナガさんマジ早いっすと胸中呟いたのはご愛嬌。すぐにノブナガへと視線を戻し、どうしたのかと首を傾げて見せる。
ノブナガはそんなの動作全てに笑いを噛み締めて殺し、言葉とは違い抵抗なく腕の中におさまったの体を抱きしめた。
片腕から両腕で抱きしめなおすまでに、数秒の間もなかった。
ノブナガはを両腕で抱きしめて、片手で後頭部を撫でてもう片手で背中を撫でて。
そのうち、ぽんぽんと背中を軽く叩いてあやして、ノブナガは自分の顎下にあるの頭頂部に小さく笑いを吹きかけた。
『おはよう』
『……おはよう、ござい、ます』
言ってることとやってることは全く正反対だというのに、の脳みそはゆっくりと覚醒へと促されていく。ぼんやりしていたというわけでもないのに、忘れたいと強く思っていたわけでもないのに。
ノブナガの膝の上には引きずりあげられるが、小さく驚きの声を上げるだけにとどめた。なにぶん腰を捻って抱きしめられるのはにとっても中々ない体制だった。ノブナガにとっても、少々足の持って行き場がなかった。
とん、とん。規則正しく背中を叩かれる。
の呼吸が合わさるように繰り返される。二人の心臓の音が重なっていくのではないかと思うほど、ゆったりとその時間は流れた。
動作は家族のそれだというのに、ノブナガの腕は手は体はにとっては異質だった。この世界でこのように近くに男性を感じたことは、ノブナガたちに出会ってから濃くて溺れそうなほどすでに経験していたが、命の危険が先立ってときめくも男を意識するもなかった。なんと不憫なと自分で自分を哀れんでしまったは、ふぅと一声あげて乱雑に息を吐き出した。
『あったかい』
『はは。良いだろ?』
『うん。……はい』
『ハッハッハァ! 照れんな、照れんな!』
気安く返事をしすぎたとがもぞりと身動ぎをして言い直せば、ノブナガは上機嫌に笑い声を響かせる。天井へ向けて上げられた笑い声は、の顔をほんのり赤く染め上げた。
ちくしょう、しくったと内心呟いてノブナガの胸元に頭を摺り寄せるに、ノブナガは心中も察していながら頭頂部に今度は唇を落とす。
しばしの空白を持って動きを止めたの反応に目を細めたノブナガは、次にの首元に顔を埋めた。肩に口付けるような格好になり、の鼓動が今度は即座に早くなる。
小さな太鼓が肌を通じてその緊張の度合いを伝えてきた。響くそれは、ノブナガにとっては心地が良かった。
ちらりと薄目で首筋を見れば、至近距離のそれは真っ赤に熟れていた。
ふわりと香るのは、限りなく薄くなっているのシャンプーだかボディーソープだかの香りで、より一層濃く香るのは強制的に数日風呂になど入れていない所為で漂う汗の香り。
肉類はほとんど食べていなかったのか、ノブナガには想像しか出来ないが一般的に言われるような、そこまでの刺激臭はしていなかった。は居候で無職だったかと、ノブナガがぼんやりと思い返す。
きっと遠慮しぃしぃ食事をして、肉類など高めの食材は遠慮していたのだろう。食っても少量か、野菜や魚の方が多い方なのではないだろうか。
なにやら追求したくなり、熟れた首筋に唇を這わせた。
ノブナガの唇の熱と、かさつきと、薄さ。
どれに反応したかは分からないが、がまたもやびくりと跳ねる。ぴやっと言うような悲鳴が聞こえた気がしないでもない。実際のは、驚きすぎて声も出ないのか吐息すらこぼせていなかった。
『……ッ?! ……ッ!?』
『…………ハッ』
気配だけで目を白黒させているのが分かり、真っ赤な顔で角度的に天井へと視線は向いているのだろう。思わず笑ってしまう、その微笑ましさに。ノブナガの笑い声に、が真っ赤な顔のままじわりと己の唇を噛んでいた。
ノブナガはそのまま唇を滑らせていく。途中、びくびく震えるに、己の唇が乾いているせいかと唇をひと舐めし、今度はリップ音を控えめに立てながら首筋を吸った。
『ぁ、ぁ……ッ』
『……』
なんだかいけないことをしているような気分になってきたノブナガは、小さくの名前を耳元で囁いた。
吹き込んだ吐息に震えて、少しノブナガも申し訳なく思って顔がしっかり見える程度に、けれど抱きしめたまま体を離せば、が何か怖いものを見る子供のような様子でノブナガと目を合わせた。
ノブナガは、の目が濡れている事を確認した。真っ赤な顔は羞恥にまみれ、混乱に目を白黒させて、何が原因でこうなったのか分からないと顔に書いてあった。
けれど、それでも煽られたのだとその目が、困惑と恐怖と羞恥だけでなく、ほんのりと、でも確かに。浮かんでいる期待は、女のそれだった。
やべぇな。
の目に映っている己も、確かに色気のいの字も見えないはずのに触れたいと思っているとか、ノブナガは綺麗な言葉で冷静になろうとするが、正直に盛っている自分を認識した。
『ッ!』
両腕でとっさに自分の顔を隠そうとしたの、その顎を片手で掴んで閉じされた瞼を舐めた。
べろりと肉厚のそれが皮膚を擦り、またの口から掠れた声が漏れる。
「……やべぇ」
抵抗しないに、さすがに止めようと呟きながら正面からしっかりとを抱きしめなおす。
覚悟でも決めていたのか、は体を強張らせるがノブナガが全身でを抱きしめて、しかも深い深いため息のひとつも吐いている事に気づき、ゆるゆるとその体の力を抜いていった。
『……悪ぃ、盛った』
『……なんちゅーどストレートな……』
申し訳無さそうにを抱きしめて肩に顔を埋めるノブナガだったが、下半身はしっかり密着したに状態を伝えていて。
『……とりあえず、お手洗いいかれます?』
としても、いかんともしがたいものだった。
その後、ノブナガはしばらく動かずになにやら呟いていたが、ハンター言語な上に早口のそれはが解読できるようなものではなく、結局五分ほどを抱きしめ下半身があはんうふんの状態で、彼は手洗い場へと姿を消した。
一人残されたは、ベッドの上で相変わらずぼけっとほうけていたのだが、色々思い返しては顔の熱が引かない。
『……そうだ、うん、二次元が腰を押し付けてきたとかってあー!!』
そうだそうだノブナガさんたちハンターハンターの人かもしれない二次元かもしれない人じゃん!
でも生々しかったよあの硬さは現役ですなってあー!!
一人内心でも叫び声を上げ、頭を抱えてベッドの上を転げ回る。
ねぇよ、ねぇわ、等と呟いてみるがノブナガの顔がぽんと頭の中で再生される。
じっと見つめてきた眼、抱きしめてきた腕、首筋を這った唇、耳元で呼ばれた名前。
どこにそんな要素があったのかと、男の色気半端ないな! などと慌てて脳内から過去を追い出そうとするが、ギシリとベッドがなるたびにびくりとの体が跳ねる。
夢中というか、混乱のために意識をしていなかったが、確かに先ほどまで抱き合っていたとき、耳に入ってきた音はノブナガの動作音だけではなかった。
最初に軽く抱きしめられたときも、体重を支えるベッドはきしんでいた。
正面から抱きしめられて、まるで親子のような抱き合い方になったが安心したときも。
空気が変わって首筋に触れてきたときも、ノブナガが体を動かしてギシリとベッドはその音を立てていた。
『ッ! う、うわあぁぁ……』
頭を抱えて体を丸め、ベッドの上で膝を付く。
ノブナガの匂いが、自分の体にしっかりと染み付いていた。あの短時間で。
さらに熱が上がり、しかも目を閉じれば抱きしめられた腕の強さとか触れ合う足とか胸とか、さらには下半身まで意識まで言って慌てて目を開ける。そのまま触れられた首筋を擦ってみるが、触られ方も触れた部位も違うからか、全く持って一向にノブナガの感触が消えてくれない。
『というか! なんですかこの唐突過ぎる流れ! 展開! 神様マジ私に試練与えすぎなんですけど!!』
ベッドに膝をつきながら、お母さんごめんなさいふしだらな娘でごめんなさいご先祖様ごめんなさいそういえば仏壇ないからお線香も上げてませんねごめんなさい! と、すでに出発地点が分からない懺悔をする。
少しいびつだが、崩れ落ちる人としてオブジェにでもなりそうな、背中をベンチにしたくなるような体勢のそこに、ずしっと重みが加わった。
『うげっ!』
もちろん、抵抗も出来ずにベッドに押しつぶされたは、混乱状態の私をさらにいじめるのかこの野郎とばかりに、自分の前に回ってきた両手を捕まえて、首を後ろに捻った。顔は半泣きの般若。というか、真っ赤になりすぎて迫力も何もないが。
「本当に顔真っ赤とか、ノブナガに襲われただろ?」
『……は?』
ぼやけるほど近くに誰か居る。
思ったは少し上半身を引くが、背中に乗っている人物の両手を掴んでいるため、そんなに距離は取れない。相手も抵抗しないことをいいことに距離を調節し、なにか喋った人物の顔がようやく分かった。
「しゃる」
「で? 答えなよ」
丸い爽やか好青年の目を、くるりとかわいらしく瞬かせて首をかしげたシャルナークは、の前に回した手での顔をいつの間にか固定していた。
『は?』
「だーかーらー」
裏を感じる笑みでもなく、普段どおりの様子で多少は面白がっている雰囲気の出ているシャルナークは、その雰囲気や言葉などとは裏腹に、がっしりと顔とは大違いの鍛え上げられたその肉体と重みと両手で持って、を拘束していた。
『え、いや、シャルナークさんおっしゃっている事がわかりませ』
「?」
あ、やべ死んだ。
はシャルナークから目を離せないまま、死を覚悟した。