次にが目を覚ましたとき、視界には安堵の息を吐くパクノダが居た。涙声で、の顔を覗き込んでいて、そっとその手での前髪をかき上げ唇を落としてきた。
「……?」
 状況がつかめないは軽く眉を動かすが、パクノダはそんな反応も想定内だったのか微笑んで、優しく瞼にも唇で触れてくる。
「大丈夫、なんの心配もないわ」
 言われた瞬間はじけた記憶に、は勢いよく上半身を起こした。もちろんパクノダは瞬時に避けたが、がそのように俊敏な動きを見せることは予想していなかったため、その目は軽く見開かれている。
 けれどそんなパクノダに気づかぬまま、も目を見開いて辺りを見回していた。
『かえらなきゃ』
 瞬きをして、けれどパクノダを一瞥もせずは唇を動かす。
『かえらなきゃ』
 繰り人形のように抑揚のない声が響き、の体はすばやく体を横たえていたベッドから抜け出していた。
、どうしたの?」
 慌てて手を伸ばしてきたパクノダが腕を掴んでも、の体は部屋の出口へと進もうとする。パクノダの力には敵わないため前には進まないが、同じ言葉を繰り返していた。
『かえらなきゃ』

 そしてパクノダの目に映るのは、ふわりと立ち上る念に近いオーラ。が立ち上らせるものだが、それがひどく粘度を持って立ち上っていた。ふわりとしているように見えるのだが、触れている今、パクノダの手や腕にびちゃりとねちゃりと纏いつく。
 そしてパクノダの能力で見えるのは、ぼんやりとした姿かたちの夫婦の姿。

 笑う顔。優しい声。囁きつむがれる言葉。
 居場所、居場所、生きたい、怖い、生きたい。
 なぜなぜなぜ、どうしてどうしてどうして。
 良いのよ。大丈夫だ。安心して。君の生活は保障しよう。
 だいじょうぶ、そばにいる、ここならあんぜん、だいじょうぶ。
 重なり響き笑い微笑み抱きしめ楔を打ち囲い込み縛り上げるように。

 パクノダは一瞬で怒りを感じた。
 視点での映像は、偏ったものだと分かっている。そして、理不尽だとが感じていないのも伝わってきている。
 けれど、不可抗力で何も知らないを、言葉のおぼつかないこちらの世界の常識が分からないを、優しい態度で、柔らかい言葉で、真綿で囲い込み締め付けるようにこの世界へと深い楔を打ち込み、鎖で繋ぐように利用していると判明して、怒りが湧かぬほど人非人なパクノダではない。
 パクノダはそのままの体を引き寄せて抱きしめるが、そのパクノダすら認識していないのか、は同じ言葉を繰り返すだけ。体は出口を目指し、進もう進もうと足掻くだけ。

『かえらなきゃ』
 しっかりした意思の感じられない声。
 それは先ほどの映像を見なくても分かる、簡単なこと。
 はこの世界に来て、その不可思議な力を見初められて、財宝を守る役割である「友人」に任命された。何も知らぬ赤子とはいわないが、別世界の常識など在って無きが如し。財宝所有する夫妻は、の意思も命も無視して、本来ならば心から賛同しなければならない「友人」としての役割を、だまして背負わせた。
 財宝を狙う者たちが居ることをわかっていて。
 がこの世界で身寄りのない存在だと理解して。
 本人すら意識できない深層心理にまで、重い楔を打ち込んで。
『かえらなきゃ、かえらなきゃ』
 財宝には一日一度、触れなければならない。
 それは先刻承知。財宝を紐解く際に、はきちんと触れていたから大丈夫だと思っていた。
 けれどは出口へと向かう。手を伸ばす。パクノダを見ない。
 回帰プログラムでもに仕込んだのだろうか。何も知らない無知の女一人、壊れるまで使い切ってしまうつもりなのだろうか。
 確実に実力も頭脳もある「友人」候補が見つかるまで、酷使するつもりなのだろうか。
 財宝を紐解く際に、あんなに気力体力共にすり減らしたはずのが、パクノダという実力者に逆らってまで戻ろうとする。そのように馬鹿な行動をとるよう染み込ませた者たちに、パクノダはすでに怒り以上の何かを覚えていた。
 の手は疲れのためか震えている。腕も肩も足も何もかも、疲れを見せる痺れと震えと筋肉の痛みを見せている。
 シャルナークの情報や、クロロの実感、パクノダたちの話を総合すると、への各々の殺気や憎悪の感情は、財宝から強制的に植えつけられたものだと推測される。
 財宝のテリトリーに入ると、「友人」であるをわざと憎み害するよう強制されるらしい。
 そしてへと攻撃を仕掛けさせるのだろうが……。その先に何が待っているのかは、想像に難くない。
 パクノダとノブナガは、だからサテラの家にてシャルナークの様子がおかしかったのかと納得するのだが、その場合、なぜシャルナークだけが財宝に認識されたか分からない。
 まぁ、今回はその場に居る人間全員だったようで、シャルナークは運が悪かっただけかもなというのが、旅団での見解だった。そのおかげでをかばえたのだと鼻高々だったシャルナークは、無言でノブナガに殴られていた。
 財宝の、そのわざと「友人」を危険な立場にするシステムについて、シャルナークは「知ってたみたいだよ」と悲しそうに笑った。
 小さな声で、どこか哀れむように呟いた言葉は、その空間に静かに広がっていった。
「途中で思い出したとか、思い当たったって言った方がいいかもしれないけど。俺を怖がってたし、謝ってた。死を予想して震えるようなそぶりも見せてた」
 可哀そうだねと、シャルナークにしては小さな小さな声でぽつりとこぼしていた。
、もう、従わなくていいのよ」
 パクノダは静かに呟いていた。
 財宝はまだ手に入れていない。だからサテラの元に返せない。鍵を握る「友人」のも帰せない。
 けれど、優しいだけのあの場所で行動や意思を縛られているより、自分たちと一緒に居た方が気楽なのではないかと、パクノダは考えていた。ノブナガが言っていたように、財宝を守る「友人」としてではなく自分たちの、個人としての友人として傍に置くのはどうだろうかと考えていた。
 生きる術は教えればいい。
 世間知らずならば常識を教えればいい。
 笑って泣いて怒って困って、そんな当たり前を普通に表現できるは、外出をとても楽しそうに味わっていた。
 飽きたら、誰かが殺すかもしれない。
 けれど、もとより殺す可能性の高かった命だ。
 拾い上げたって害はないだろう。
、次々手荒な真似をしてごめんなさいね?」
 片手を挙げながら、こちらをゆっくり振り返る感情のない目をしたに向かって、パクノダは困ったように眉を寄せた。
 けれどその目は、楽しそうに瞬いて。
「すぐに、楽にしてあげる」
 声音は笑い出す寸前のように、ころころと楽しそう。
 首をかしげてパクノダを見上げるに向かって、パクノダはその力を行使した。


「もう殺せないくらい、貴方のことが好きみたいよ?」


 最初の涙が嘘のように、楽しそうにパクノダは笑っていた。
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