反動
「……」
誰かの唇が、と彼女の名前を口にしようと瞬間、クロロを見上げていたの体が膝から崩れていった。
すぐにクロロが両腕で抱きとめるが、力の抜けきったは荒い呼吸ばかりを繰り返して、目の焦点すら合わせられずに苦悶の表情を浮かべてあえぐだけ。
ぜぇぜぇと過呼吸一歩手前と言ったその音に、すぐにシャルナークが駆け寄り、クロロに抱かれたままのの背中を撫でさすり出す。
「頑張ったね。お疲れ様。もう大丈夫だから、ほら、ゆっくり呼吸してもいいんだよ」
優しく優しく、かすかな痛みでも彼女に与えてはならないとでも言うように、シャルナークは微笑みを絶やさずに向け、かすかに保たれているの意識に訴えかける。
クロロはシャルナークの行動に意図を察し、が呼吸しやすいようにしっかりと抱き上げなおす。
シャルナークがそんなクロロに対して、少しだけ笑みをこぼしそうになるが、必死で胸元を押さえ、シャルナークを見上げているのためにとクロロへの反応は後回しに背中をさすり続ける。
「ほら、もう大丈夫だから。ゆっくりね、ゆーっくり吐き出して、吸って」
その後しばらくシャルナークが優しく話しかけ続け、はクロロの腕の中で羞恥心を覚える余裕もなく、呼吸を整えることに専念した。
しばらくしての呼吸も落ち着き、シャルナークの勧めとようやく戻ってきた羞恥心により、は不思議そうにするクロロの腕から開放され、瓦礫の上に一人で腰を下ろしていた。
「……」
「……」
目の前には、気まずそうに視線をそらしつつも何かいいたそうな、に殺気を向けていた団員達。
特にノブナガやパクノダの視線の気まずさは強く、が話しかけようと口を開けば即座に視線を外される。
「……」
「……」
何度目か同じようなやり取りをしていると、さすがにもうんざりしてきた。
いきなり何度か死ぬような怖い目にあったかと思えば、人の寝泊りしている建物内でトイレの場所が分からないため失禁未遂騒ぎ、さらには軽い軟禁のような宣言をされて、かと思えば集団に殺してやるわオラー! なごついガン飛ばしをされてしまう。
なんだこの死にフラグ乱立と思ってビビっていれば、覚えのない自分の記憶が「あ、すんません。ちょっとお通じが悪かったんです」ばりにガンガン流れ込んでくるという、怪奇現象を初体験。
「…………」
思わず頭を押さえて俯いてしまうが、即座にシャルナークが「大丈夫?」とそっと顔を覗き込んでくる。
「……だ、じょう、ぶ」
かすれた声になってしまうが、それでも返事をしないよりはましだろうと、力なくは笑う。ますますシャルナークは心配の色を濃くするが、八の字眉になっても美形は美形なので、羨ましい限りだと現実逃避で見ていないことにする。
「……あー」
そんな二人の様子を見つめていたノブナガは、唐突に力の抜けた声を上げると自分の頭をバリバリと掻き始める。
御髪が乱れますよとが言う前に、何かを吹っ切ったのかノブナガは力なく笑みを浮かべ、足音もなくの眼前へと移動する。
瞬きをするに、しゃがみ込んでが反応する前にノブナガは頭をなで始める。ますます目を見開くに、情けない顔のまま呟いた。
「へったくそなうた、だったなぁ」
「……」
思わず開いた口をそのままに、は自分が言おうとしていた言葉を忘れた。
死にそうな目にあって、でもなんか覚えのない記憶によると、自分に関係ある事柄っぽくて、だから一生懸命なれないことをしたのに、反応がこれ?
本当に言語能力どおりの子供ならまだしも、酒もタバコも問題なく出来る年齢のに対して、過呼吸手前まで頑張った結果が、これ。
怒髪天突く勢いとはこのことかと怒りたくなっただが、ノブナガの表情を見れば話題転換だというのは一発で分かる。気まずい空間の中、よくぞ声をかけてくれたと御礼を言う場面かもしれない。
確かに慣れない言語での歌な上、元々そう歌が上手いほうではなかったから、へたくそだといわれても否定できないのは、もしっかり自覚していた。していたからこそ、諸々ひっくるめて大人として堪えようと思った。
『……う』
「ん?」
だがしかし、へたくそと言って笑う前に、せめて一言謝罪をくれても良いではないかと、は収まったはずの涙が浮かんでくるのを認識した。
そして認識してしまえば最後、怒りがはけ口を求めてあふれ出した。
『へたくそで悪かったですね、こんちくしょー!!』
「うおっ!」
「わっ!」
真正面に居たノブナガはもとより、隣に寄り添うように座っていたシャルナークも飛び上がるほど驚く。
部屋にいつ面子が全て驚愕の面持ちになったことすら気づかず、立ち上がったは涙をこぼしながら歯を食いしばり、けれど耐え切れない怒りを母国語で羅列した。叫んでいた。
『どーせ上手くないですよ! 授業でも音楽は平均的な3、かアヒルの2が常でしたよ! でもいきなり頭の中に流れ込んできた歌詞を歌ったにしては頑張ったと思うんですけどね! 頑張った人間を褒めるくらい、罰当たんないと思うんですけどね! ちくしょうッ! もう良いなんかもう良いどうでもいいもう帰る帰るおうちに帰るーッ!』
子供のようにわめき散らして頭を振り回し、瓦礫を蹴っ飛ばしてノブナガたちをにらみつけたは、即座に言葉どおり実行しようとした。
けれど体にはいまだに光の帯が巻きついており、クロロがその帯の動きからの次の行動を予測し、が足を一歩踏み出しただけでその身柄は拘束されていた。
『マジ離して下さい帰る帰るおうち帰るー!!』
「何を言っているのか分からん」
がっしりと背後から抱きしめられている所為で、じたばたと手や足先しか動かせないのだが、はがむしゃらに動かしまくって喚き続ける。
拘束をしたクロロがため息を頭上で吐いても反応せず、本当に子供のように泣きじゃくる。
『あー……』
『へたっくそな歌で私が悪ぅございましたー! もう二度とお耳汚ししませんので、離せ離せばかばか監禁犯変質者性的犯罪者ー!!』
ノブナガが気まずいながらも声をかけたが、は血圧を上げるばかりで、口から出る言葉も子供のような罵詈雑言。
何を言っているのかクロロを筆頭に通訳を頼めば、ノブナガが気まずく顔をしかめたまま、罪悪感を前面に押し出して一言一句違わずにハンター言語へと言葉を紡いでいく。
その場の全員がノブナガに冷たい視線を向け、ノブナガはおれが悪かったよと多少ふてくされながらも非を認める。
けれどそれで一件落着と行くはずもなく、クロロに拘束されたままのはぎゃあぎゃあ騒ぎっぱなしの暴れっぱなし。
『ちくしょう自棄酒してやるお小遣い使い切ってやる絶対仕事見つけてきてやるニートからの、卒業ー!!』
「落ち着け、」
『成人女舐めんなよ! いい年こいて居候とか恥ずかしくないと思ってんのか数秒だって恥ずかしいさ! 心苦しいさ! 自宅警備員ならぬ居候先警備員とか最低すぎる最悪すぎる働かせろ働かせろというか私の言語能力適応能力低すぎて涙も枯れるわちゃんちゃらおかしいぜハンッ!』
「……なんだか、別の世界に行ってるわね」
クロロが耳元で話しかけても反応を見せず、パクノダがため息を吐いても反応を見せないは、どこぞの悪役もかくやとばかりの悪い顔になっていた。
目はどこか見下すように虚空を睨みつけ、つい数分前数時間前には想像も出来なかったような、チンピラがするような安っぽい鼻で笑うタイプの嘲笑もしてみせて、今にもさあ殺せ! とか叫びだしそうなヤケクソ具合。
全ての叫びを余すことなく聞き取れてしまう、ましてや意味も理解できてしまうノブナガとしては、もう申し訳ないと頭を下げるしかないほどは精神的に参ってしまっているらしい。
浮かんだ涙はぼろぼろ零れ落ちているというのに、その唇からこぼれる罵詈雑言は止まない。むしろ途中から自身への日頃からたまっていたのだろう罵倒の言葉も混じり始め、もう本当の本当に心底すまねぇと土下座したくなるほどノブナガは自分の言葉を後悔した。
「で、あいつ何言ってんだ」
「……もうほとんど、自分自身への罵倒になってんな」
フィンクスが焦れたように聞いてくるが、ノブナガの返答に再び罰が悪そうに沈黙へと戻る。
けれどそんな沈黙など吹き飛ばすほど、の叫び声は続く。そろそろクロロの鼓膜の強度すら心配になってくる団員達だったが、顔を真っ赤にして号泣しながら叫ぶという器用な事をしているを目にすると、何を言えば良いか分からなくなる。
『もうやだー! 仕事仕事仕事ニートからの卒業ー! おかあさぁああああん! 私貴方の教育にそむくろくでなしになっててごめんなさぁああああああいいいいい!!』
「……、そろそろ落ち着け」
「、、とりあえずハンター言語話せるくらいに落ちつこ? な?」
クロロがどこか無機質に、シャルナークがどこか困りきったようになだめの言葉を吐くが、はわんわん泣きながら喉を引くつかせながら、それでも喚くことを止めようとしない。
『どうせ不細工ですよ! 美人じゃないですよ! 可愛くもないですよ! 特殊で美麗な歌声とか持ってませんよ! 一山百円の女ですよ! 癒しの能力とか持ってませんから残念! 誰もが愛する奪い合う愛され主人公じゃなくてごめんね外れだよばぁあああかッ!』
「……なんて言ってるのさ」
「どうせ不細工ですよ。美人じゃないですよ。可愛くもないですよ。特殊で美麗な歌声とか持ってませんよ。一山百ジェニーの女ですよ。癒しの能力とか持ってませんから残念。誰もが愛する奪い合う愛され主人公じゃなくてごめんね外れだよばぁあああか」
マチの力ない言葉に、ノブナガは強弱は違えど、やはり一言一句間違わずに翻訳する。
とたんに、あちこちから脱力やらイライラが募った小さな叫びやらが発生するが、決してに殺気を向ける奴など居ない。
悪いのは自分たちなのだ。ノブナガの一言がきっかけだったとはいえ、先ほどクロロとシャルナークの言っていた言葉を断片的にでも繋ぎ合わせれば、おのずと答えなど出てくるというもの。
「……情けねぇな」
フランクリンの自嘲気味の言葉に、誰かが返答をしようと口を開いたとたん。
『ふがっ!』
重い打撃音と共に、の呻き声と崩れ落ちる音。
「ちょ、クロロなにやってんのー!」
シャルナークの絶叫がこだまし、視線を向ければクロロは片手を握りこんでを見下ろし、軽く肩で息をしている。
そして床に崩れ落ちて動かなくなったを抱き起こし、必死の音量で何度もの名前を叫ぶシャルナーク。
「……」
「……」
視線を向けた全員が沈黙し、はもとよりクロロもシャルナークも疲れてたんだなと認識をした。自分達ももちろん疲れているのだがと、各々深い深いため息を吐き出す。
「あー……、一時休憩ってとこかい?」
「異議なしよ」
遠くを見ながら呟くマチに、パクノダは物憂げな吐息をこぼした。