改ざんされた代償
「だから、まんまと罠にはまったんじゃない? 団長以下、団員全部」
「……不本意だが、そのようだな」
片や楽しそうに笑うシャルナーク。
片や心底悔しそうに眉をひそめるクロロ・ルシルフル。
はシャルナークに抱きしめられたまま、美形に囲まれるという緊張感に現実逃避したくても出来ず。更には肌をぴりぴりと刺激する殺気らしいものを放ち続けている、仲良くなったはずの人たちの視線で胃痛も引き起こし、思わず蒸発したくなっていた。
『いいよ、この際もう蒸発でもいいよ。この場面から逃げられるなら、痛みがないのなら蒸発死すら甘受してやろうじゃねぇかよ』
緊張に次ぐ緊張と生死の狭間をさ迷ったおかげで、の精神は大分擦り切れやさぐれていた。
「……」
「……」
何事か言い始めたにシャルナークもクロロも視線を向けるが、当の本人は至近距離からの視線にも気づかずに愚痴を連ねていく。
俯いてブツブツ異国語で喋っているからは、おどろおどろしい瘴気とも呼べぬ黒いもやと、ぴりっと肌をくすぐる静電気らしきものが発生していたが、それも子供が部屋の隅で膝を抱えて後ろ向き思考になっている程度のもの。シャルナークはクロロに一瞬視線を向けるがすぐに外し、腕の中のを微笑ましげに見守る。
対して見えないながらも雰囲気を読み取ったクロロも、困ったように笑みを浮かべてをみつめた。
「……おい」
けれどそれを微笑ましく見守れないのは、放置されている他の団員達。
どうにもこうにも押さえているらしいが、とうとうフィンクスが痺れを切らして声を上げた。低く抑えられてなお殺気を放つその声に、シャルナークは遠慮なく吹き出す。更に団員達の殺気が高まるが、知ったことではないと遠慮なしにシャルナークは笑い続けた。
ぶつぶつ言っていると、けらけら笑い続けているシャルナークの二人に、クロロは仕方がないなと状況を理解した上で肩をすくめ、どこか困ったように微笑みながら他の団員達へと視線を向けた。
ああ、もうとことん怒ってるんだな。
どこか感慨深げにクロロは内心呟くが、それが誰かに聞こえるはずもなく、その場の雰囲気は変わらない。
「なんだ、フィンクス」
とりあえず声を上げた本人に返事をするが、普段と変わりなく声を発するクロロに何が煽られたのか、フィンクスたちの米神に血管の筋が浮き上がる。
ぷつっといけば面白いのにと、シャルナークがわざとらしく呟いて怒りを煽るが、それはクロロの視線ひとつで目をそらした。
「なにを怒ってる?」
「団長! なんでその女を殺さない!」
痺れを切らした上、言葉は直球。
フィンクスは我慢の限界だとばかりに声を張り上げ、俯いていたも飛び上がるようにして顔を上げた。
丸く丸く限界まで見開かれた目に怯えの色はないが、どこか分かっていた風な諦めの色をクロロとシャルナークは見つけた。全て知っていた、起こって欲しくなかったとばかりにチラチラ見える悲しみの感情と、その音量にだろうか純粋に驚いているだけの感情。
やはりは何か知っていたのだと、正気の二人は小さく頷きあった。
「なぜ殺す必要がある。こいつは大事な鍵のひとつだぞ?」
「でも役に立ってねぇだろ! さっさと殺しちまえばいい!」
平然とクロロは言い放つが、フィンクスの言葉にさすがに首をかしげる。
頭が特別良いとは言いがたい男だが、ここまで馬鹿ではない。馬鹿だったらとっくに死んでいるはず。
いぶかしむクロロにシャルナークは深い深いため息を吐き出し、目を見開いたままのを抱きしめなおすと肩をすくめた。
「だんちょ、それ多分正気に戻らないと馬鹿のままだよ」
「誰が馬鹿だ!」
瞬時に突っ込みを入れたフィンクスだが、シャルナークは視線も向けずに欠伸をひとつ。
クロロはシャルナークに視線を向け、どうすれば良いかとしばし思案した。
自分のときはなんだったか、に触れられたときか。
クロロの視線はフィンクスたちに戻るが、どう考えてもが彼らに触れる前にくびり殺される光景しか想像できない。
まぁ、命令すれば良いかとクロロは一人頷くと、今度はへと視線を向けた。
「」
「……」
声をかけるが、まだまだ目を見開いてそのままぼろりとこぼしそうな状態のまま、はぴくりとも動かない。いっそ死んでいるといわれたほうが納得するほど動きがない。
「……」
少々呆れながらも、今気絶していない事実には賞賛の拍手を贈りたい。
クロロはどこか疲れた思考で、もう一度の名前を呼んだ。
「……っ、あ、く、ろぅろ」
誰だそれと突っ込まなかった自分を、クロロは内心力強く褒めた。ちょっとその呼び方が動揺を含んでいて掠れ、かわいらしいなぁと思ったことは、笑み崩れているシャルナークの顔を見た時点で胸中から抹消した。
大丈夫、見た目は普通の女じゃないか。あれ、じゃあ逆に大丈夫なんじゃないか?
軽く混乱しかけたクロロの思考は、団員達の殺気との不安そうな視線によって正気を取り戻した。頑張れ団長、などと心の篭らない応援をしているシャルナークの声は綺麗に無視をした。
「……手を貸してくれ。あいつらを正気に戻す」
恐れられているのを分かっていながら、クロロは多少拒絶されるのを覚悟で口を開いた。
憂いを含んだと息を吐き出し、そっとに向かって片手を差し出す。時と場所が違えばまさにエスコートといった風情だが、実際は死への誘いだと解釈されても致し方ない場面ではある。
けれどは瞬きの後、なんでもないかのように微笑んでクロロの手に自分の片手を重ねた。シャルナークがなにやら文句を言っているが、それはそれで笑って首を横に振り、クロロが何度か呼吸をしている間に、するりと目の前へとは歩を進めていた。
震えていた様子など微塵も見せず、はクロロの目の前に立った。
「はい、それ、わたし、おやくめ」
どこか悲しげにまつげを揺らしながら、はしっかりと声を響かせる。クロロに触れているその手は震えを見せず、確固たる意思を持ってそこに存在していた。
オーラの色は決意の色。
青い炎がゆらりと立ち上り、けれどそれは冷たくも熱くもなく。
その中心に燃え盛っているものがなにか、即座に判別できるほどのしっかりとした存在感だった。
クロロの唇が、ようやくたどりついた何かに笑う。
そう、こんな面白いものと遊びたかったのだと、クロロはしっかりとの手を握り締めた。逃がさないように、けれど紳士としての領分の中で。
「では、力を貸してもらう。命の保障はしよう」
すぐには意味が理解できなかったのか、はほんの少しだけ眉を寄せて、困ったように笑う。いわゆるごまかし笑いだが、クロロは特に気にせずに笑顔を浮かべた。
軽く握り返してくるの手と、触れてくるオーラが心地良い。
「俺の調べ不足だった。今、解除してやろう」
いまだ殺気立っている団員達に向けて、クロロが厳かに告げる。
ふわりと舞い上がる空気に、は握り締められたその手が汗をかかないように願いつつも、集中しようと瞼を下ろす。
あるはずのない記憶が鮮明に浮かび上がり、シルクハットに掛けられた呪いのような罠の解除項目を探す。
ひとつ、罠の発動条件が浮かび上がる。
ふたつ、その際にの身に降りかかるだろう事柄が浮かび上がる。
みっつ、そして罠の自力解除が出来なければ、どうなるかの結末が。
は深く呼吸を整える。クロロと握り締めた手に、思わず某飛ぶ石を巡る破滅の呪文を口にしようとするが、真面目な場面だと理解していたので、大人しく考えるだけにとどめた。
クロロが某パズー。ちょっと受けるなどと思いながら。
浮かび上がる記憶たちが空恐ろしく、思わず現実逃避に走るがそれも数瞬でやめる。クロロの手は強すぎず弱すぎず、しっかりとを現実だか夢だか分からないこの世界に繋ぎとめている。
それが悲しいような嬉しいような、複雑な気分ではそっと瞼を開いた。
「【おもねることがらでしをさそい】」
「【はしるこころはあなをふむ】」
途切れずに続けられる言葉は、この世界の言葉を紡ぐことが困難だとは到底思えないほど、古びたビルに朗々と響く。
クロロはそのオーラの高ぶりを見た。炎だったそれは姿を変え、まるで空気に溶け込むように消えていく。
それは消費か、同化か。
瞬時には解析できず、けれども団員達の殺気が止んだのをクロロは視覚と触覚と聴覚で認識した。触れる空気はぴたりと殺気を通さなくなり、呆然とを見ているその間抜け顔はクロロの笑いすら誘った。
シャルナークはに見惚れでもしているのか、クロロたちを横から見るように瓦礫に腰掛け、ただ黙している。
の声が響き、広がる。まるでこの言葉を、旋律を聴くために誰もがこの場に集まったかのような、雑音すら聞こえないの言葉のみが響き渡る舞台。
「【つないだてをはなさないで】」
「【こころはかけても】」
「【そばにいて】」
「【かなうとしんじて】」
「【かなわいとしれ】」
「【なみだもかなわない】」
「【あくむのあのひ】」
「【ここにふうじるは】」
「【いたみとなげき】」
「【かこのこうふくをたいげんす】」
「【あわれないぶつ】」
ゆっくりとゆっくりと、言葉が紡がれるたびにクロロとを繋いでいる光の帯が、その輝きを増して広がりだす。
それは一番手前に居たフィンクスに、そしてその後ろに居た誰も彼も包むように広がっていき、目に見える濃い霧のような光の輝きは、部屋ではなくその場に居る人間全てを包み込んだ。
呆けた表情から光に気づいた団員達は、すぐに抗議の声を上げようとするが、それも光に触れればまた呆けた表情に戻っていった。これはなんだと、これは何が起こっているのだと、信じられないものを見たような、そんなほうけた表情で己の体とを交互に見つめた。
朗々と言葉をうたいあげるは、その視線に気づく余裕もなく掠れていく記憶を手繰り寄せる。まるで何かが邪魔をするように、言葉を舌で唇で紡ぐたびに薄れていく解除の項目。逃してなるかと手繰り寄せ、引っ掻き、掴み取り、握り締めた。
噛み締めた唇を、震える唇を動かすたびに何かが消失するような違和感。霞んでいく意識を必死で繋ぎとめる。
「【おびえないで】」
「【ささやかれたことばすら】」
「【いまはとおく】」
「【わらっていて】」
「【つげたことばも】」
「【すでについえた】」
「【あくむをこえたしそんよ】」
「【どうぞしあわせを】」
「【こうふくをおうかしていて】」
「【ただそれをねがう】」
ゆるりと余韻を残して閉じられた唇は、不自然なほど荒い呼吸を繰り返す。誰もその場を動かない。ただ、を揺らし、彼女の胸を大きく上下させて呼吸を荒げさせている。
光の霧は緩やかに濃く色を変え、そして嵐のように以外の人々を飲み込んでいく。音もなく行われたそれは、驚きの声も抗議の声もあげさせず、そしてほんの数分誰の目からも一寸先すら覆い隠したかと思うと、何事もなかったかのようにクロロとの元へと引いていった。
完全なる無音の世界に戻った瓦礫の中で、荒い呼吸を繰り返しながら、はそっとクロロを見上げた。