仕掛けられた罠


 触らないで! 殺さないで! 嫌わないで! のまれないで! いかないで!

 叫びのような感情の津波が、に触れたシャルナークの手の平へと怒涛のように伝えられてくる。目に見えるオーラは怯えの色を濃くして、感情の波の激しさを物語るように大海原の時化のような荒れ模様だった。
 表情と態度は怯えきってガタガタと震えているだけだというのに、オーラは雷鳴のように時折瞬く光さえ見える。
「……大丈夫、オレはもう分かってるから。怖くないよ」
 触れた場所から伝わるの体温に、シャルナークは笑みを浮かべて見せる。相反する感情がぶつかり合いながらも、それでも触れていなかった時より格段に理性が働く現在の状況に、シャルナークは不安げに見上げてくるの体に腕を回し、やんわりと抱きしめた。驚きびくつくに、大丈夫だよと囁きながら何度も何度も背中をさする。
 その間にも、シャルナークの背後で他のメンバーが苛立ちを募らせているのが分かるが、シャルナークはそれに構うことなく大丈夫だとをなだめる。
「オレはもう惑わされないから」
「家にお邪魔したとき、癪だけど一回掛かってるから」
「大丈夫。のこと、傷つけたりしないよ」
 自分だけは味方なのだと、君を傷つけないと何度も何度もシャルナークは囁き、の背中をさする。
 こんなに怯えきったをどうこうしようとするほど、シャルナークは理性がないわけではない。ある意味別種の理性は試される気がするが、本当にを傷つけたいわけではないのだ。
 を攻撃しろと、不愉快だと思うなら殺してしまえとどこからか声がする。
 それはとても魅力的な誘いに感じるが、実際にに触れていると馬鹿馬鹿しいだけの声だ。不愉快なことをされたわけでもなく、が自分達に攻撃してきても絶対に掠りもしないほど弱いのに、なぜ殺さねばならないのかと馬鹿馬鹿しくなる。
 なぜかは知らないが、が攻撃されれば発動する何かが仕掛けられているのだろう。
 財宝を守る「シルクハット」を守る「友人」は、死なせてはならない。ならば、死なないよう仕掛けが施されていると考えられるのも、当たり前の流れだろう。なぜわざと「友人」が殺されそうになるのかは定かではないが、シャルナークたちへと向けられた挑戦なのは明らかだ。
「オレは君を攻撃しない」
 シャルナークの囁きに、ガタガタ震えるだけだったがゆっくりと瞬きをする。ひとつ、ふたつと瞬きをするたびにシャルナークを見るその目から怯えが引いていき、触れているオーラもその動きを緩めていった。
 そして、あっと思う間もなくその両の目が潤み涙が零れ落ちる。
「しゃ、しゃる」
「うん、大丈夫だから。それに団員同士のマジ切れ禁止だしね、大丈夫大丈夫」
 縋るように囁かれた名前に笑みを浮かべると、シャルナークは出来るだけ普段のように軽い口調で笑って見せる。顔を覗き込んで視線を合わせ、小首をかしげて安心させるように同じ言葉を繰り返す。
「大丈夫、はなんにも心配しないで良いよ」
 背中を優しく優しくさすって、胸元に縋りついてくる自分より小さな手に目を細めて、触れるオーラがやわやわと穏やかになっていく過程に安堵の息をこぼした。
「……おい、シャル」
 背後から聞こえてきた低い声には、ただただ呆れの溜息しかこぼれなかったが。
 びくりとシャルナークの胸に顔を伏せたの頭を撫で、シャルナークだけが背後を振り返る。
 そこには予想に違わず、マジ切れから二歩三歩ほど手前の仲間がこちらを睨みつけて立っていて、首をしゃくる動作から、シャルナークの腕の中に居るが標的なのは明らかだった。
 ご丁寧に、満遍なく誰もが立ち上がりこちらを睨みつけている。本当に、全員に同じような感情を植え付けたのかと鬱陶しくなるが、こればっかりはどうしようもない。止められるのは、今はシャルナークしかないのだ。
 正直面倒くさいと思いつつも、シャルナークはもう一度溜息を吐き出した。
「シャル、その女をこっちに」
 けれどシャルナークが口を開く前に、聞こえてきた声が吐き出した溜息をすら霧散させる。
 すっかり忘れて油断していたことに気づき、シャルナークは視線をずらした。
 視線の先に立つのは、光でしっかりと繋がったままであるクロロで。
 青白くなった顔の眉間に皺を寄せ、いつもより忙しなく瞬きを繰り返しているその姿に、吐き出された言葉の温度にクロロも罠に掛かってしまったことを悟った。
 シャルナークの背筋が寒くなる。これは、いわゆる多勢に無勢。
「……うっそだぁ」
 思わず乾いた笑いと共に呟くが、クロロは早くしろとどこか息苦しそうに急かすだけ。
 なんかもう、なんでこんな風になったか発動条件訳分かんないよとシャルナークが息をつけば、腕の中のが身動ぎをする。
「しゃる。……くろろ、いく」
 涙の所為で赤くなった目元を擦り、が再びカチカチと鳴り始めた口元を押さえながら、シャルナークを見つめる。
 カチカチと震える歯の間からチラチラ見える赤い舌が、こんな緊張しているだと言うのに美しいコントラストに見えた。場違いな考えはすぐに消えるが、シャルナークはを抱きしめる腕によりいっそう力を込めた。抵抗が出来ないように、けれど息が止まらないように加減をしつつ、シャルナークはクロロを睨みつけた。
「まだお宝拝んでないよ、団長。続き言わないの?」
「シャル」
「今をそっちにやったら、団長何するつもり? お宝拝むだけなら近づく必要、今はないよね? なんで? なんで?」
 子供のようになんでを言い重ねるシャルナークに、クロロの目が怪訝そうに瞬く。
 何を言ってるんだと返したクロロに、シャルナークは背後に迫ってくる馬鹿共へと牽制のアンテナを見舞いつつ、しっかりとクロロを見据えた。
 腕の中のはもがき、自分が近づいていくのだと言うようにクロロの名前を繰り返す。
「くろろ! わたし、いく! くろろ、くろろ、はなす、しゃる!」
 ちょっとした間男の気分を味わいながら、シャルナークは続けた。
「まっさか、団長含めほとんどの団員がこの財宝の罠に掛かるとは思わなかったよ。計算外だったな、お宝の配分は割り増しにしてよね」
「なんの話だ」
「団長以下団員が、このシルクハットの罠にはまったって話」
 わざと小さく笑い出すシャルナークに、団員達の武器が構えられる気配がする。けれど、片手で額を押さえ顔を歪めだしたクロロが、もう片方の手を軽く掲げたことでそれは制止される。
 団員達の不満げな気配よりも、クロロの荒い息遣いが大きくなった。
「くろろ」
 シャルナークの腕の中から、どうにかこうにか顔だけ出してきたは、心配をこめてクロロの名前を呟く。クロロの視線が鋭くを射抜くが、慌ててシャルナークの腕の中に戻りつつも、は小さくクロロの名前を呟いてきた。
 クロロの表情があからさまに嫌悪で歪む。
 けれど、比例して額を押さえる力も強くなる。
「クロロ、が嫌い? 憎い? うざったい? ……それ全部クロロの感情じゃないから、負けないでよね。団長なんだからさ」
 はい、ヒントあげたからさらに割り増しドン。
 シャルナークは痛みと嫌悪で顔を何度もゆがめるクロロに、軽い口調で言い放つ。クロロが怪訝そうな表情になったと同時に駆け出した。腕の中にを抱いたまま、ひょいとの手をとってクロロの腕に触れさせる。
「さて、あっという間の感情変化に気づいてた?」
 何が起こっているかわかっていないは、物に触れたと知覚して反射的にぎゅっと手の平に力を込めるが、なにやらシャルナークの胸板とは違った感触に動きを止める。
「……」
 そしてクロロも、目を丸くして握りこまれた自分の片腕を見下ろしていた。
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