尿意と故意
『……しまった……!』
お約束な展開だと分かっていながらも、は声にならない声で助けてと叫びたくなる。
尿意さえ、尿意さえもよおさなければと地面を拳で殴ってみても、残酷な現実は変わらない。膀胱破裂の方が残酷で無慈悲な現実だとわかってはいるが、これはないだろうと途方にくれる。
『……っ』
喉を鳴らしてつばを飲み込み、心を奮い起こしてそっと部屋を抜け出し、廊下らしき場所を歩く。クロロと歩いていたときとは違い、不気味さが倍に膨れ上がったようにの背を竦みあがらせる。元より、この廊下を自分で歩いた記憶がにはなかった。
『こわくない、こわくない、こわくない』
逃げちゃ駄目だと自分に言い聞かせ、は暴れた所為で限界が更に近くなった自分の体を気遣う。他人様がいらっしゃる廃屋の廊下にて、失禁などと言ったら笑い話以前に窓から飛び降りたくなってしまう。それも満面の笑みで泣きながら、「紐なしバンジー!」とか陽気に叫びながらが理想だ。
膀胱が限界に近いため、の思考能力も極端な低下を見せる。電気ひとつついていない廊下は、不気味以前に二日酔いのの動きを鈍らせ、瓦礫は足元を掬い上げる。何度転び転びかけ、漏らしてしまう恐怖と戦っていることか。
は動くことすら失禁の原因になるとでも言うように、瓦礫だらけの廊下を最終的にすり足で移動していた。
ずーり、ずーり、ず、ゴッ! ………………ずーり、ずーり。
まるで巨大なカタツムリが這っているような音を立てつつ、は涙目でトイレを捜し歩いた。
『もれる……』
切実な祈りはどこにも届かず、今にも破裂寸前の膀胱は「そろそろいいですかー?」とばかりに一瞬でも気を抜けば蛇口を威勢良く開いてくれそうだった。
人間として、女としての最大の危機を迎えていた。
「や、いや! の、ノー!」
なぜか妙になまった異国言葉まで喋りつつ、は前へ前へと歩く。時折すごく濃い牛肉を挟んだパンが山ほど腐ったような匂いと、半生の肉の山が崩壊のちに腐った森へと変わったような匂いがしたが、すでに吐くどころではなくはひたすら歩きつづけた。
「か」
そんな不気味で出来れば一生お付き合いしたくない匂いの部屋から、ひょっこり顔が出てくる。
言わずと知れた拷問部屋の主、フェイタンなのだがもう怖いとか気持ち悪い匂いだとか言う気力もなく、は目の前で開かれたその扉に感謝すらした。部屋の中が薄暗くて何も見えないことも幸いしていた。
遭難したジャングルの中、捜索隊に出くわしたような全身全霊での感謝を持って、はフェイタンへと涙ながらの笑みを向けた。
一瞬、フェイタンの動きが止まる。
「ふぇ、たん! お、といれ、わたし、いく! どこ……!」
息も絶え絶えにずりずり近づくと、止まっていたフェイタンの動きがぎこちなく再開される。目はじっとを捕らえているが、微妙に目をあわそうとはしなかった。
小さなため息が、くぐもったフェイタンの口からこぼれる。
「こちよ。世話の焼ける女ね」
「ありがと、ござます……!」
嫌味を言われてもすでに解読する気力も尽き果て、に顎をしゃくって背中を向けたというフェイタンの動作だけでは礼を口にした。
ずりずりと重い体を引きずる音が、無音で歩くフェイタンの後ろを続く。
続いて、続いて……。ようやくそれらしく使える部屋に着いたとき、は泣いていた。もう我慢できないとばかりに、フェイタンが振り向いた瞬間に駆け込んだ。
「こちが」
「ありがとふ!」
開けて閉めて鍵をかけて。そんな一連の動作音が素早く鳴り響き、冷静な部分もあるのか、確認のためのように水の流れる音が続く。フェイタンにはわからない言葉でなにやらは呟くと、ため息を吐いたフェイタンの名前を叫んだ。
「ふぇ、いたん! そこ、いる、して!」
予想外の言葉に、フェイタンが絶句している間に追加の流水音が響く。からからと軽快なリズムで、いつ備え付けたのかトイレットペーパーの巻き取られる音が聞こえた。
きっとパクノダ辺りが取り付けたんだろうとフェイタンは推測するが、を待つ義理はなかった。ここまで連れて来ただけでも、破格の扱いだった。
「ガキの使いじゃないよ、戻る」
「ふぇ、いたんー!」
小さな声で言い捨てようとすれば、泣き声が名前を呼ぶ。すでに叫ぶという領域とも言えた。
けれどフェイタンは宣言通り踵を返し、返事もせずに来た道を歩き始めた。いっそのこと、トイレのドアごとぶっ壊してやればよかったとフェイタンが思っていることなど露とも知らず、は落ち着き始めた頭で真っ暗のトイレの怖さを思い知る。
『正直、怖い』
我慢していたおかげで浮かんだ涙は、安堵の涙へと変わり、最後には恐怖に震える涙へと変化した。そして怖いトイレから恐る恐る足を踏み出し、何か良からぬものを映しそうな鏡から視線をそらしつつ、恐々と手を洗った。
そして出口にフェイタンが居ないことに落胆するが、戻り道を覚えていないことに呆然とし、更には今更ながらにフェイタンを都合よく使いあまつさえトイレの前で待ってくれという、大胆不敵なことを言ってしまった自分に血の気が引いた。
『……ころされる』
確かに良く考えずとも、初対面のちょっと一般人とは違う雰囲気の男性に、女性トイレの場所まで案内させるだなんて、強烈に一般常識とは外れた行動だった。
は頭を抱えてしゃがみこむ。しかも明かりのない廊下、時折を振り返っていることを確認している動作まで見せてくれた男性に、用足し中もそこで待っていろとまで言った自分に、はもうこれ以上はないほど落ち込み殴打したいと思った。きみが、なくまで、なぐるのを、やめない!
そんな悲しみに暮れながら泣いてみたものの、物音一つしない廊下に冷静な神経が怯えてしまう。普通に怖い。声を出すのも移動するのも怖い。
「……」
耳を澄ましてみても、本当に何の物音もせずに人の気配もしない。
「……ふぇ、い、たん」
おそるおそる声を出してみた。近くに実はいてくれているんじゃないかと言う甘い考えは、数分待ってみても叶えられなかった。けれど、当たり前だと分かっていても心細い。
「……の、のぶな、が」
そう言えば起きたとき傍に居てくれたノブナガが、この建物に居ないだろうか。この近くに居ないだろうかと名前を呼んでみる、が、やはり応答はない。
少しだけ、また目が潤みだす。
少しだけ何かの物音が聞こえた気がして、は飲み物を持ってきてくれたフィンクスを思い出した。傍にいるかも、水場がここにあるのなら近くにキッチンか何かがないだろうかと声を出した。
「ふ、ふい、う、……ふぃん、くす」
心細さのせいで動きにくい口を動かし、はまたしばらく耳を澄ませてみた。……人の断末魔の叫びのような、鳥肌が立つような微かで極々小さい声が聞こえたような気がして、の肌が瞬時にあわ立つ。逃げ出してしまいたいが、逃げる方向が分からない。正面にある窓ガラスすらまともに見られない。
闇夜に目が慣れたとは言え、不気味で瓦礫と化した廊下しか見えない。
「ぱく、の……だ。しゃるっ」
ガチガチと震えだす歯をどうにか押さえ込もうとしながら、は自分の年を心の中で繰り返し、泣かないよう唇を噛み締めた。
年甲斐もなくトイレの案内を強要し、あまつさえ瓦礫が多いとは言え他人の居住区で泣き喚くのは、末代までの恥だ。
すでにノブナガの腕の中で泣き喚いたり、人の腕の中で死に掛けてみたり、他人に食事の世話をしてもらったり、大酒飲んで醜態晒して二日酔いなこともすっかり棚に上げて、は震える唇を何度も噛みなおした。
「……っ、……ふっ、……う」
けれど怖いものは怖くて、どうしようもなくて動くことも出来ない。断末魔の声は断続的に聞こえてくる。
「……」
は泣き喚きそうになる自分を堪えながら、じんわりと復活してきた頭痛にしゃがみ込んだ。
助けは来ない、けれど他人の居住区であるここで暴れるわけにも行かない。暴れるような勇気もない。
どうしようもなくなったは、震えながらその場で現実逃避の様にうずくまった。