たくらみと二日酔い
お宝と言う言葉に、その場にいたメンバーは即座に顔を上げてクロロを見る。ある者は喜色満面に、ある者は明らかな怠惰な表情で、ある者は未だに尾を引いて聞こえてくるの声に笑いながら。
クロロはそんな団員を見回し、フィンクスの名前を呼ぶ。呼ばれたフィンクスはすぐ意図に気付き、無造作に布袋の中で転がされているシルクハットをクロロに投げた。
仕事に出かけなかった数人の目が細くなる。これは何の冗談だと、その何対もの目が訝しがっていた。
「お宝の保管庫だ」
クロロはそんな反応をものともせず、無造作にシルクハットを弄りだす。念は使わず、生き物なら持っている微弱なオーラだけを放つように留めつつ、シルクハットを周りがきちんと確認できるようにあちこちひっくり返し始めた。
笑みを浮かべたクロロは、続けて口を開く。廃墟同然である仮宿の宴会会場は、いつのまにかシンと静まり返っていた。
「見ただけでは分からない微弱なオーラを感じる。一級品のなにかなら当然だが、これはただのどこにでもあるシルクハットにしか見えない。水溜りに落とせば水をはじく間もなく汚れ、刃物を向ければたやすく破れる代物だ。だからこそ」
少々使われた形跡のあるシルクハット。新品ばかり置く洋服店には多少不釣合いに見えなくもないが、女性服を専門に扱っている手前、少量の男性服展示のお飾りだと言われれば納得する程度の美しさだった。
だから、誰も目に留めなかった。ただのシルクハットがそこにあるのだと疑わず、見逃すことが出来た。
クロロは冷えていく外気に、夜明けが近いことを知覚した。
手の中にある存在に、ますます笑みを深めていく。
「だからこそ、こいつが何らかの反応を示すのはおかしいだろう? ただのシルクハットなら、人にかぶられるだけの代物だ。何か仕掛けでもしない限りな」
「反応?」
シャルナークの上げた声に、何人かが同じような疑問の瞳でクロロを見つめる。他の何人かは眠気を訴えて欠伸を漏らしていたが、その場の空気は真剣そのものだった。
満足げに口元を緩ませたクロロは、それ以上シルクハットを弄るのを止めた。そのままシャルナークに放り投げ、彼が受け取ったのを見ると立ち上がって団員に背を向ける。
「後はが起きてからだ。確かめなければならないしな」
オールバックの髪を片手で乱暴に乱しながら、クロロは欠伸をひとつつくとその場を後にする。
「……なにかあったか?」
「見ていた限りではなかったと思うけど」
フィンクスがコルトピに問い掛けるが、コルトピも同じような声音で困惑を示す。マチとシズクをそろって見つめるが、その二人はクロロの言葉が解散の合図だとばかりに、さっさと自室へと引っ込んでいってしまう。
ではヒソカにと視線を男性二人は向けてみるが、楽しそうに微笑んでいるヒソカから即座に視線を引き剥がし、自分たちも思い思いにその場を後にした。
『あたまいたい』
『そりゃぁ、お前が飲みすぎたからだろ。ウボォーとタメ張る飲み方しやがって、急性アルコール中毒にならなかっただけありがたいと思え。馬鹿娘が』
ウワバミかと期待してみたけど、お前普通に痛がってるしよ。
が目覚めて最初に感じたことは、頭内部から染み出すような鈍痛と濃密なアルコールくさい空気と虚脱しきった自分の体だった。
その事実に驚くより先に鈍痛が自己主張を始めてしまい、頭を抱えたところでノブナガの呆れきった声がの頭に降ってきた。
声が頭に響くと涙目になったを見上げるが、ノブナガは下からの視線に目を細めてたぎる怒りを表現してきた。はすぐに視線をそらし、その素早い行動により増してしまった頭痛に悶絶する。
『……ッ! …………ッ!!』
『いてぇだろ、いてぇだろ』
声も出せずにベッドの上でもんどりうつと、それを見ながら怒りの表情を消して虚脱のままにため息を吐き出すノブナガ。無意識にの頭を撫でようとした手は空中で一旦静止し、迷った素振りを見せつつも声もなくベッドの上をのた打ち回るの頭に触れた。
は振動に顔をしかめるが、ノブナガの手を振り払うことなく涙を流し、痛い痛いと体に響かないよう小声でぶつぶつと呟き始めた。
『……かわいそうになぁ』
『全く心底欠片も同情していませんね』
『当たり前だろうが』
泣きながらノブナガを睨みつけただが、心底呆れかえった声に返す言葉もない。かろうじて息も絶え絶えな声で、助けを求めるしか出来なかった。
片手をノブナガに伸ばし、その服の裾を掴む。
『おくすり、ありませんか』
ぜぇぜぇと荒く肩を揺らす呼吸すら苦痛なのか、はそう一言呟くとまたベッドへと静かに顔から突っ伏した。それを見てノブナガは思わず柔らかい笑みを浮かべ、頭をひと撫でするとベッドから離れた。
二日酔いに響かぬように、ことさら慎重に足音を消してノブナガが歩くと、不安そうなの声が追いかけてくる。
『……のぶなが、さん?』
その子供のような頼りない声に、ノブナガは振り返らずに手を振った。
『酔い覚まし持ってきてやるよ』
『……ありがとうございます』
足音がの耳をノックし、来客を告げる。気付くと同時にノブナガが閉めていった扉は拳で打たれ、が息も絶え絶えに返事をすると即座に開かれた。
「おら、生きてっかよ」
「ふぃんくす、……なぜ?」
名前は即座に思い出せるが、慣れないハンター語を思い出すに数瞬かかる。その間もフィンクスは仏頂面で足音を立てながらに近づき、の頭痛を増徴させる。
痛い、と頭を押さえてベッドに顔を押し付けるを見て、フィンクスはようやく何のために自分がここに来たのか自覚した。手に持っているマグカップが、ゆらゆらと優しく湯気を立ち上らせている。
「飲め、酔い覚ましだ」
「……」
フィンクスの言葉には動きを止めるが、受け取ろうとする仕草もしない。
「おい?」
不思議に思ったフィンクスが顔を覗き込もうと、ベッドを回りの顔が覗けそうな位置まで移動し、ベッドの高さと同じくらいまでしゃがみ込んだ。
青白い顔が、なにやら眉根を寄せて考え込んでいた。
なにかおかしな事でも起こったのかと一瞬心配したフィンクスは、肩から力を抜いて小さく笑う。それと同時に、一瞬でも心配した自分を鼻で笑った。心配だと、この女を?
その前に、女だと言う事実を拒否したくなるほど元気の良い飲みっぷりだったなぁと、意識が違う方向へ行きかけるが、の目がベッドに顔を伏せたまま、そろそろとフィンクスを見上げてきたことに気づく。
「おら、飲め」
その視線が何か問い掛けていることに気づいてはいたが、フィンクスはそんなに優しくする義理もないとカップをの額に押し付けた。
思ったより勢いが付いてしまったカップは、重く小気味の良い音を立てての額にぶつかった。分厚いマグカップが壊れることはなかったが、の目が一瞬意識を飛ばしたのをフィンクスは見てしまった。
「げ」
やばい、と口にする前には自力で現世に戻ってきたのか、涙目になって額を両手で押さえていた。カップはやんわりと手で押しのけられ、フィンクスは逆らわずに自分の胸元にカップを引き寄せる。涙を浮かべたの目は、言語が通じずともフィンクスに思いを伝えていた。
『なんかもう……フィンクスさん、ちょっと軽く事故れって言うか、言いたくないけど納豆気管に詰まらせて鼻から飛び出しつつ、くたばってくださいと言いますか……!』
普通に嫌な死に方を口走りながら、けれどその許さんと言う怒気のこもった涙目は、フィンクスを焦らせた。
一般人にどんなに睨まれたって怖くもないが、ノブナガやパクノダにばれた時が厄介だ。むしろ現時点で、すでにこの女には山ほど迷惑をかけられている。言い出したのはノブナガたちだが。勝手に泣いたっつっても、泣かせたのがばれたら折角親切にしてやったことすら嫌味言われそうだな。
ぶつぶつと呟いたフィンクスは、涙目で睨みあげてくるの声を聞き逃した。
「あ?」
さっきからあなた、喧嘩売ってますよねとはズキズキと痛み続ける額を押さえながら口走りたかったが、忍耐の文字を思い浮かべながら同じ言葉を繰り返した。
「よ、よい? さめ、し? だ?」
「ああ?」
何が言いたいのか分からないの顔を、ほんの数センチの距離でフィンクスが睨みつける。マグカップの湯気は未だにゆらゆらと美味しそうな匂いを漂わせていた。
は本当に初対面も良いところの男が間近にいるという緊張を感じながら、続きを口にした。
「よい、ざ、め、しだ? は、なに?」
それ、とばかりにフィンクスの持っているマグカップをを指差し、フィンクスはとマグカップを何度か交互に見つめ、ようやく理解した。
「お前、意味分かってなかったのかよ」
「………………………………はい」
フィンクスの言った単語は、居候先のサテラがよく口にする単語でもある。
会話での意思疎通が困難なは、何度となくその言葉を言われるたびにこっそり自分の無知を恥じていた。サテラは特に咎める響きもからかう響きも哀れむ響きもない発言だったが、にとっては言われるたびに身の置き所がなくなる言葉だった。
自分は、言葉の意味が分からない。
小さく縮み込み始めたに、フィンクスは片手で自分の頭をがりがり掻き毟る。女子供のこんなときの対応など、面倒くさくてやってられるかと言うのが持論だが、手に持っている酔い覚ましが冷めてきているのも事実だった。そしての顔色も先ほどより数段悪く、さすがにフィンクスからしても憐れに見えてくる。
団長にも目を付けられ、すぐに捨てられるだろうがしばらくの間は監禁されるのだ。
「……よ、い、ざ、ま、し。……とにかく飲め、ノブナガが効くっつってたぞ」
とにかくが安心しそうな名前を出すと、聞き取れたのか力ない顔がほんの少しだけ笑う。フィンクスはとっさにカップを持っていない手での頭に触れていた。
「……」
『……え?』
戸惑うの声に、フィンクスも戸惑う。けれど触れた端から見え出したオーラは、力強くないがゆらゆらとカップから漂う湯気の様にから立ち上っていた。
紺の中にちかちかと見える星のような赤と苔の様に深い緑は、何かの不安を表すようにオーラの中から顔を出したり潜ったりを繰り返す。手触りは水分の少ない絵の具のような重さを感じ、フィンクスを攻撃することもなく取り込もうだとか守ろうだとかもせず、の周りを揺らめいている。
フィンクスにとって、言葉よりもよほど明確な意思表示。感じ取ったのは、迷いだとか自己嫌悪だとかそんなふうなごちゃごちゃとした感情が向かう負の色。
「……お前、」
何かを言いかけ、フィンクスは自分でも何を言いたいのか分からずに口を閉じる。決して対する嫌悪感だとかそう言ったことを言いたいわけではなかった分、自分が何を言い出そうとしたのか分からなかった。
触れた頭は、二日酔いとカップをぶつけた痛みの相乗効果なのか、ほんのり熱を持っているようだった。
「……おらよ」
不思議そうにフィンクスを見上げているの視線に、フィンクスは首根っこを掴まえて上半身を起こしてやった。猫の子のように簡単に持ち上がる体は、急に遠ざかる布団の熱に反射的だろう速度で両手を伸ばす。その手に、フィンクスはすかさずカップを持たせてやる。そしてそのまま口元まで有無を言わせず持って行き、飲めとジェスチャーで伝える。
「……」
『……』
目と目で見つめあい、は首根っこを片手で掴まれたまま恐々カップに唇を触れさせ、フィンクスが頷くのを見ながら中身を口に含む。そこで動作を止めると、フィンクスがもう一つ頷く。はゆっくりと液体を飲み込んだ。
「よし、そのまま全部飲め」
片手で下から煽るような動きするフィンクスに、もその動きに合わせて液体を飲み干していった。
味など分からないほど今の状況を理解していないだったが、フィンクスがなぜだか真剣に見つめて飲め飲めとジェスチャーで示しているので、もう言われるがままだった。
なんとなく、介護師と患者の気分だと思いながら液体はカップから飲み干される。
「おし、飲んだな」
空のカップをが差し出すと、フィンクスは受け取って中を確認した後、無造作にから手を離す。後ろに重心が傾き、手荷物のようにベッドにひっくり返ったに、フィンクスもも顔を見合わせる。
『……けふっ』
液体で満腹になった胃が、良い返事をする。
「……」
『……』
フィンクスはもう一度の頭に、今度は叩きつけるように自分の手をぶつけると、目を白黒させ頭痛に身悶えしているからすぐに離れた。自分の手を確認するようにフィンクスは見つめ、人の悪い笑みを浮かべる。
「調子戻ったら、またさっきの場所までまっすぐ来い。団長の命令だ」
痛みで声もなく悶えているの返事を聞く素振りもせず、フィンクスは機嫌よく空のマグカップを指で回しながら部屋を出て行った。
痛みに何も聞こえなかったは、その数分後、大量摂取した酒とトドメの酔い覚ましに尿意を我慢できず、闇雲に部屋を飛び出すことになる。