奇術師の好奇心
フェイタンやパクノダに止められてから少しの時間の後、ヒソカはパクノダの部屋を訪れようと足を向けた。
鼻腔をくすぐるかすかな香りは、ヒソカが慣れ親しんだ液体のもの。きっと誰かが短気を起こしたか、侵入者が無粋な邪魔でもしたのだろう。それほど多くない香りと、それ以上に聞こえてくる叫び声とうめき声に、ヒソカは口の端を吊り上げた。
パクノダの部屋にいる気配は六。誰も彼も隠そうとしていない気配は、脆弱な侵入者二人を取り囲んで弄んでいるようだった。かわいそうに、心の中でヒソカは呟くと、近づいてくる気配に別室へと身を滑り込ませた。
階を上がってくる前から立ち上っていた愉悦のオーラに、ヒソカはそれがフェイタンだと確信していたが、フェイタンはヒソカに注意を払うそぶりもせず、呼ばれるがままに室内へと踏み込んでいった。お土産は重傷を負った男女一組。誰がどちらを傷つけたは知らないが、一撃でしとめてやらずに苦しみを長引かせるとは、なかなか酷い。
部屋の中には現在四人。クロロ、ノブナガ、パクノダ、の気配がする。けれどここでヒソカが不思議に思うのは、一番脆弱で自分の気配を隠すことなど出来ないはずのの気配が、一番薄いと言うことだった。
隠そうとしているわけでもない、生命力が落ちているわけでもない、少々フェイタンの殺気に当てられてしまったようだが、それも命を脅かすほどではないようだ。
「さて、なんだろうねぇ」
は青い果実どころか、ただの一般人。フィンクスの腕の中にいるのを見ただけのときは、そう判断した。育つのを待つどころか、育つ可能性も見えない人間。触れれば壊れるだろう玩具。遊び相手にもならない、つまらない。
フィンクスの神経を逆なでするためだけに、その体に触れようとして触れた。
けれどどうだろう。ヒソカは思い出して身震いをする。
フィンクスとの体を覆っていたものが一瞬だけ見え、次の瞬間には完全に消えうせていた。自分を見ているような、見ていないような瞳が同じように一瞬だけ光を浮かび上がらせ、すぐに消失する。
ヒソカをはじくように二人の体を覆っていたものは一瞬だけ、触れた指先に痛みを与えて消えていった。一瞬前までかけらすら存在のなかったもの。オーラ、念、それ以前の名前すら付けられない純然たるエネルギー? けれどすぐ消えたもの。
念を使わずともたやすく折れてしまいそうな体は、思わぬびっくり箱だった。ヒソカの好奇心を、微かにだがくすぐってくれる。
「くくくっ」
ヒソカはパクノダの部屋から三人の退室者を確認すると、部屋の中にはだけしかいないことも気配で察知する。これはこれは、まるでボクのために用意されたようなシチュエーションじゃぁないか。ほくそえむヒソカの気持ちなど知らず、は布団の中で震え続ける。
「お邪魔するよ」
ノックもせずに扉を開けると、ヒソカの視界に入ってきたのはベッドの膨らみ。小さな子供のように布団の中で丸くなっているのだろうに、ヒソカは遠慮せずに近づいていく。
「何してるのかな、かくれんぼかい?」
足音も立てずにベッドに歩み寄り、ふくらみを指先でつつく。即座に反応を跳ね返してくる小さな体は、しばし待てば中から顔を覗かせてくる。
「やあ」
顔を近づけてヒソカが微笑んでみると、まるで亀のように布団の奥へと引っ込んでしまう。
ヒソカを見て引っ込んだようだが、このままでは話にならない。ヒソカは自分の顎を撫でながら思案し、手持ち無沙汰に布団の背を撫でる。布団の中のは震えているようで出てこないが、ヒソカは部屋の壁にべったりと染み付いた血を見つけた。
「あれが原因かな」
壁に散った血の跡と、床に滴っている血の跡。どうやら先ほどの男女のものらしい。まだ血はゆっくりと香りを放つほど新鮮だし、壁から滴る音も生々しい。
「ねえ、出ておいでよ」
布団の背を撫でているだけでは、面白いことに何も見えない。これはやはり、直接触れなければ見えないのだろうか。それとも、今は怯えていて力が出ないのか。
自分を微かにだが傷つけたものを思い出しつつ、ヒソカは優しく優しく、まるで母親が子供を寝かしつけるかのような手つきで布団の上からを撫でる。
ますます怯えるように縮こまっていくの感触が、ヒソカはとても気に入ったが、すぐに飽きてしまいそうな反応だった。一般人なら誰でもするだろう反応だということもあり、ここまでの反応をする前に今まで殺していたヒソカにとっては新鮮なのだが、またすぐに飽きが来そうになる。
「ボクが飽きて殺しちゃう前に、少し話でもしないかい?」
譲歩の言葉を囁くが、震える体は出てこない。
ヒソカはあからさまにため息を吐き出す。けれど、またすぐに笑みを浮かべた。
布団の端からの手が出てきて、逃げ出す算段かヒソカを探しているのか、布団の周りをゆっくりと巡りだす。小さくシーツを移動する音がヒソカの鼓膜を震わせ、小さな手をヒソカは見逃さずに掴んだ。
弾けるように逃げようとする手から伝わるものは、ただただ押しつぶされそうな恐怖。混沌としたオーラは重く圧し掛かり、手を掴んだヒソカの手を傷つけるどころか指先から潰しに掛かってくれる。
『……っ!』
声も出せないのか盛大に震えだす自身とは正反対に、オーラは牙を剥くようにヒソカの指先から手、手の甲を這いずり手首から腕へと潰しに掛かる場所を移動していく。まるでなっていない精錬されたとは言いがたいオーラだと言うのに、その恐怖だけを糧にしているようなオーラはヒソカに少々の興奮を生ませた。
「なんだ。君、やっぱり面白い子だったんだね」
片腕は常人なら潰れるだろう圧力が掛けられるが、ヒソカはそれを念でカバーする。念へと昇華されていないむき出し状態ののオーラは、ヒソカの腕を潰せないことを悟ったのか、早々に這い上がってくる。首でも絞めるつもりなのか、それとも肩を切り落とすつもりなのか。
「出ておいでよ」
『やだっ!』
もう片方の腕で無理矢理布団をめくり上げると、ヒソカに手を掴まれて震えているが声を張り上げた。どう見ても哀れな小動物の様に命乞いをしているが、オーラはヒソカの首を落とすといわんばかりに圧力掛けに精力的だ。
そこでヒソカはひとつ思い当たり、自分の唇を舌先でねぶる。
その動作に恐怖を煽られたのか、憐れなほどには体を丸めて目に涙を溜め始める。そういう意味合いでした行為ではなかったが、オーラは更に速度を速めてヒソカの体を覆い尽くそうとした。
ヒソカはそこで、やっぱりねと内心笑う。
「窮鼠猫を噛むってことわざもあるくらいだしねぇ」
返事がないのを承知の上で呟き、ヒソカはオーラを這うまま任せて背筋を震わせた。
力のないものが自身の危機を察知したとき、その底力は計り知れない。
ただの一般人かと思いきや、無意識のうちに生きようとあがく姿がヒソカを刺激した。ただの純粋な生命エネルギーであるはずのオーラが、まるで念の様にヒソカを覆う。これでが念能力者であったなら、ヒソカは迷わずを部屋から引きずり出して鍛えたかもしれない。ヒソカと相対しヒソカをもっともっと傷つけられるように、念を鍛えさせたかもしれない。青い果実だと認定し、その成長に心を震わせることも出来たかもしれない。
ヒソカは目元を緩めてを掴んでいた手を引き寄せる。当たり前の様には上半身を起こさざるを得なくなり、泣き顔のままヒソカとの距離が縮められてしまった。
当たり前の様に人を傷つけた、友人に近い状態になったはずのノブナガとパクノダとシャルナーク三人の顔が、まるで雨の様に何度も何度もの頭の中に浮かんでは消える。そしてその顔の向こうに、半年前まで読んでいた漫画の情報が浮かんでは消えた。幻影旅団、盗賊集団、一年に何度かの活動、命を命とも思わない集団、仲間を大切にする人たち。
けれどにとって、目の前のピエロ顔の男はいろんな意味で規格外だと言う認識しかなく、よくよく考えればいつの間にか視界に入っていたようなトランプのマークがなぜか脳内でちらついていた。同一人物であれ別人であれ、一対一で部屋の中に居る現在はの恐怖を煽る存在でしかなかった。
血のべったりとなじりつけられた壁を見て、嬉しそうに頬を緩める男と言うだけでも恐ろしいというのに、なぜこの男性は自分に構うのだろうかと不思議でならない。それと同時に、なぜ自分の手を無理矢理掴んでまでこうやって顔を見ようとするのかもわからない。
今自分は気分が悪いのだと震える歯の隙間から呟いても、なんとも楽しそうに首を傾げるだけ。
もはや言葉にならず、は段々と近づいてくる顔に瞼をしっかりと閉じるしか抵抗の術がなかった。
「で、いつまでオレを無視するのさ」
不意に聞こえてきた声にすら、一瞬で体をこわばらせ身構えてしまう。
けれどヒソカは楽しそうにしばらく唸り、そして堪えきれないように笑い出した。の手を掴んでいる体が揺れ、振動が緩やかにの恐怖を底上げした。
「やあ、シャルナーク。君こそいつまで立ち聞きするつもりだったんだい?」
「に危害を加えようとしたら、すぐに攻撃する程度だよ」
「団員同士のマジ切れ禁止なんじゃなかったかな」
ヒソカの言葉に、シャルナークが爽やかな青少年そのものの笑みを浮かべる。手には彼愛用の携帯電話が握られていた。
「団員じゃなくなればいいわけだよね」
「……」
ヒソカが震わせた背筋の振動は、先ほどと同じようにへと伝わった。けれどそれよりもを怯えさせたのは、肌を突き刺すように空気を震わせているシャルナークの笑顔だった。
それはと目が合うやいなや、まるで幻の様に掻き消えていったが、呆然としてしまったはシャルナークから目が離せなかった。ヒソカに伝わるオーラも、先ほどとは打って変わって軽く明るいものになっていた。あちらこちらとオーラは色を変え、迷うように悩むように重さや質感が分かっていく。粘着質かと思えばさらりと肌をすり抜けていき、かと思えばヒソカの皮膚を痺れさせた。
シャルナークはそんなに通常の微笑みを浮かべると、素早く近づきヒソカの手を弾いてを開放した。ヒソカやが何か言うより早く、シャルナークはの顔を両手で包み込む。
「大丈夫だった? ヒソカになにかされてない?」
まるでキスが出来るほど近くから顔を覗き込まれ、が覚醒するのにしばしの時間を要した。
「?」
「……おどろく、した」
寝ぼけたように小さな声で囁かれた言葉は、ヒソカの笑いを誘いシャルナークに苦笑をもたらした。
更にが正気になるまで時間を必要としたが、シャルナークが傍に居て安心感を取り戻したは、改めて自己紹介をされたヒソカに警戒心を覚えながらも握手を交わし、一緒に建物内を歩くことになった。
「さっきはごめんよ。驚かせちゃったみたいだね」
「おどろく、わたし、ひそか、ごめんなさ」
「が謝ることなんてないよ。興奮してたヒソカが悪いんだから」
歩きながらに抱きついてくるシャルナークに、は笑いながら抱きつき返す。足元がふらつくへのシャルナークなりの配慮だったが、それを見たヒソカが面白がって真似をした。
「ひどいと思わないかい、。ボクはただ純粋に君と遊びたかっただけなのに」
「うそ臭いね。うん」
に抱きついてこようとするヒソカをシャルナークは邪険に振り払うが、は笑いながら歩くのを止めない。そしてある部屋の前で、シャルナークは意外な言葉を聞いて盛大に足を滑らせた。
「私たちの出ている漫画がアニメにもなっているだなんて」
滑り込むように床へとダイブしたシャルナークを見て、はしゃがみ込みヒソカは聞こえてはいたものの面白がって笑い出した。
「どうしたんだい、シャルナーク」
「なに、だいじょぶ? しゃる?」
そして衝撃のまま立ち上がろうとしたシャルナークが、うっかりを巻き込んでもう一度ひっくり返るまで後三秒。