見えるもの


 クロロの気迫に、のまつげが小さく震えた。それと同時に、小さな喉が不器用に上下する。
『……ノブナガさん』
『なんだ』
 呟かれた名前に、すぐさまノブナガは反応を示す。けれどもは口を開かず、冷や汗をかきながらもクロロから目を離さない。
 クロロもから目を離さず、膠着状態が続く。
 パクノダはが敵ではないと確信をしていたが、クロロの邪魔をするつもりもない。彼が馬鹿ではないと知っているからだが、の状態は心苦しかった。
『あの……』
 こくりとの喉が鳴る。
 乾き始めた唇を舌で潤しながら、ゆっくりと震える唇が音を出す。
『…………………………【テキ】って、なんですか?』
『……はぁ?』
 至極ゆっくりと呟かれた言葉に、ノブナガは一瞬何を言われたか分からなくなり、出てきたのは間抜けな空気が抜けたような音。目を丸くし、お前大丈夫かよとばかりにの顔を覗き込む。
 自然とクロロの前に割って入る格好になってしまうが、ノブナガはすでに気にしている状態ではなかった。
「ノブナガ」
『お前、【テキ】って言ったら分かれよ。敵のことだ!』
『ああ、なるほど! って分かりませんよ! いきなり知らない言葉言われて、すぐに分かる異国人のほうが珍しいですって! ……【テキ】は敵なのですね、なるほどなるほど』
『なるほどじゃねぇよ、こんな緊迫したムードのときにお前……』
 クロロの呼び声も無視し、ノブナガとはハンタ言語講座を開講。ぐったりとうなだれるノブナガと、そんな様子のノブナガをよそに納得し始める。やっちまったと止めずに頭痛を感じている一組の男女、置いて行かれるクロロ。
 混沌とした空気の中、冷え切ったクロロのオーラがノブナガのうなじを撫でた。
『……』
 敏感にそれを感じたノブナガは、静かにの前から脇にずれ、クロロに向かって軽く片手を上げる。それを受けて、クロロは鷹揚にうなずいて見せるが、は気づいた様子もなく口の中で同じ言葉を繰り返すばかり。
「てき、てき、てき、てき」
 自分の脳内に刷り込むように呟かれる言葉に、クロロも毒気を抜かれてしまう。深い深いため息を吐き出し、その音に顔を上げたの顎を取る。
「おまえは、敵なのか」
 口付けんばかりに顔が近づいているというのに、はクロロの言っている言葉が出来たのが嬉しくて、顎が取られているにもかかわらずにっこりと笑みを浮かべた。
「いいえ、くろろ。わたし、てき、ない」
 間近に迫った幻影旅団団長の目を見つめ返し、にこにこと微笑を浮かべる一般女子。
 どこをどう見ても異常な状態だが、どうやら殺傷沙汰にならずには済んだと、クロロ以外の旅団メンバーは胸をなでおろす。こんなに当たり前のような態度を取られてしまえば、クロロもそれ以上の事を今しばらくは実行しないだろう。
 けれど三人の目論見とは違い、クロロはが口を開き終わった後も顎を取り、その目を静かに見つめていた。
「クロロ?」
 シャルナークが不思議に思って声を掛けると、短いと息と共にからクロロの体が離れる。
 なにやら指を振り払うしぐさをしつつ振り返ったクロロに、シャルナークはパクノダと目を合わせて小さく笑った。
「クロロ、見えたんだ」
 どこか期待をしているような軽い口調に、クロロはもう一度を振り返って口を開く。
「ああ。お前たちの言うとおりにな」
 一人瞬きをして首をかしげているを置いて、クロロは面白そうに口角を上げる。に触れていた自分の片手を見つめ、ノブナガに向かって笑みを向けた。
「悪くない」
「勘弁してくれよ、団長」
 とうとう床にしゃがみこんでしまったノブナガに、パクノダとシャルナークが笑う。
 けれど状況が理解できていないは、クロロの目を気にしつつノブナガの傍により、その額に手を当てて顔を覗き込む。心配をしているその態度に、今度は緩やかで穏やかな空気が漂い、ノブナガも苦笑気味だが微笑を浮かべた。
「大丈夫だ。気が抜けたんだよ」
「き? ぬけ?」
『気が抜けただけだ』
「はい」
 も床に座り込み、安心したと気の抜けた笑みを浮かべる。
 そんなどこにでもいるような態度のに、クロロはもう一度自分の手を見つめて指を擦る。

 触れた瞬間に吹き上がるように感じたのオーラ。
 まるで天へと吹き上がる水柱に手を突っ込んでしまったような、冷たいか暖かいかすら瞬時に理解することが出来なかった衝撃。
 丸くなった目が微笑みに変わったと分かったときには、水柱は解けてオーロラの中にいるような不安定な美しさに包まれていた。色が視界に散りばめられ、柔らかく波打ち始めた暖かさ。
「興味深い」
 小さく囁いたその言葉に、ノブナガがすぐさま顔を上げて反応を示す。に近寄り笑い合っていたパクノダも静かにクロロを見つめ、シャルナークだけは面白そうに口笛を吹いていた。
 それに対してクロロは笑みを崩さず、もう一度口を開く。

 呼ばれたは聞こえなかったのか、クロロの声に反応を示さずにノブナガを不思議そうに見ている。
 ほんの少しクロロは殺気を混ぜて見つめてみたが、すぐに反応するわけでもなく、逆にノブナガから睨みつけられてしまう。腰の獲物に手が伸びているところを見ると、どうやら本気らしいとクロロはますますへの興味を深めた。

 二度目の呼びかけに、ようやくがクロロへと視線を向ける。
 ノブナガを不思議そうに見ていた視線のまま、首をかしげながらクロロを見つめ返したは、クロロの殺気を感じているのかいないのか、自分の二の腕をさすりながら唇を動かした。
「くろろ、わたし?」
「ああ、お前だ」
「なに? わたし、てき、ちがう」
 まだ疑っていると思っていたのか、少々不快そうに眉根をひそめるは、クロロの興味が自分に向かっていることも知らずにため息をつく。そんなの手を取り、ノブナガが何か一言二言呟くが、残念ながらクロロにはすぐに理解できない言語だった。の微笑みようからすると、なにか面白いことでも言ったのか。
「こっちを向け、
『団長を見たほうがいいぞ』
 クロロの呼び声に、ノブナガの注釈が続く。は渋々ながらもう一度クロロを見つめ返し、なに? とばかりに首をかしげる。
 クロロは自分とノブナガへの態度の違いを冷静に見つめてみたが、たった一日過ごしただけの親密度以上のものを、目の前の二人から感じていた。
 言語の違いだろうか、望郷の念ゆえの親近感だろうか。
「……なに?」
 呼んだきり黙ってしまったクロロに、は焦れて声を上げる。シャルナークは何かに気づいたように、静かに部屋を後にした。
「パクノダ」
「なに?」
 シャルナークの動きに目をやっていたパクノダが、急に呼ばれたことにも動じず声を返す。けれどクロロは動かず、自分の顎をさすりだす。
 さて、今現在のからはウボォーを見つけた視力や追いかけた体力、俊敏さの欠片も見られないが。
 この態度が演技であれば、大体の人間のそれを見抜けないクロロではない。けれど、目の前のから知性のきらめきや頭の回転の速さは見られない。極々普通の人間の範疇だ。
「記憶を見たんだな?」
 クロロの一言に、パクノダの雰囲気が緊張を帯びる。けれどその口は開かれない。
「くろろ?」
「……は、聞かないでもらえるかしら」
 パクノダが囁くと、ノブナガが肩をすくめての頭を腕に抱きこむ。突然胸元に抱きしめられたはしばらく動きを止めた後に抵抗を始めるが、ノブナガが耳元に何かを囁いたことで抵抗を止める。
 抱き込んだついでにベッドにを腰掛けなおさせたノブナガは、の頭を抱えたままぼやいた。
「外で話せばいいだろう」
「邪魔が入るかもしれないでしょう?」
「邪魔? 誰のがだよ。ここにはおれたちしかいねぇんだぞ」
 ノブナガの言葉にひとつ息を吐くと、パクノダは目も耳もふさがれているを見る。
 まるでノブナガが所有権を主張しているような体勢に、少々疑問を抱かないわけではなかったが、その疑問を押し流してパクノダは言葉を続けた。
「彼女がスパイだとしても?」
「……なに?」
「ほう」
 パクノダの一言に、その場の空気が一気に張り詰める。知らず知らずのうちにノブナガの腕の中に居るへと視線が集まり、その圧迫感は一般人であるにも鳥肌が立つという寒気に変換されて感知されていた。
「の、のぶなが……?」
 は自分を押さえている腕の主を呼ぶが、への返答はない。ただ意思の強い眼がを凝視している感覚だけが伝わってきていて、そのあまりの寒さにゾッと背筋を震わせた。
「……まぁ、それは嘘なんだけどね」
 パクノダの一言に、ノブナガの揺ぎ無く放たれていた視線が歪む。瞬きを数回繰り返し、油をさし損ねた機械のようにぎこちなくパクノダの顔を見た。
 ちょっとやりすぎたかなと微笑んでいるパクノダの目を見て、ノブナガはようやく自分がからかわれたことに気づき、次いで、小さく吹き出した音と共にクロロが体をくの字に折り曲げているのを見ると、声を上げて自分の髪を掻き回した。
「くっだらねぇことやってんじゃねぇ、パクノダ」
 ノブナガは、何も聞かされず不安にさらされ、いびつで心細く歪んでしまったのオーラに、悪いと小さく一言呟いて抱きしめなおす。辺りを探るように歪みながらも伸ばされていたオーラは、ノブナガの声を感じると怯えを示すかのように震え、涙を流すように緩やかな動きで空気へと溶けていった。
、悪かった』
『ノブナガさん……?』
 何がどう動いているのかさえ分からないは、自分の動きを封じたまま謝罪するノブナガの意図がつかめず、見えないながらもパクノダに視線を向けた。パクノダは向けられた顔に向かって苦笑すると、の頭を抱えて反省しているらしいノブナガに向き直る。
「ちょっとしたジョークよ。……でも、気が引き締まったでしょう?」
 油断をするなとあえて釘をさすような言葉に、ノブナガの視線が向けられる。クロロの視線もパクノダに向けなおされ、パクノダはその二つの視線を確認した後に笑った。
 彼女の指先が空を舞う蝶のように動いたかと思えば、出てきたのは念による言葉。

 これ以上聞かせることもないわ。

 その言葉を知覚した瞬間に、四人しかいなかったはずの室内には呻き声と共に見知らぬ男が転がり込み、同じく見知らぬ女が長い髪を振り乱して壁へと体をぶつけ悲鳴をあげ始める。
 突然の音と鉄さびの匂いに、は肩を震わせてノブナガへと身を寄せるが、ノブナガは自分の投げつけた瓦礫を肩に食い込ませた男を一瞥し、パクノダがナイフを肺に突き刺した女の半狂乱になった姿にため息をつくだけにとどまった。
「フェイ呼ぶか」
「退屈でもう外にいるんじゃない?」
「フェイ、入れ」
 ノブナガとパクノダとクロロの流れるような会話に、パクノダの言葉通り部屋の外にいたフェイタンが、笑みを浮かべて音もなく室内へと身を滑り込ませる。室内に転がる一組の男女に目を向けると、その眼が嬉しそうに細月のように歪んだ。
 ノブナガに抱き込まれているへは視線の欠片さえ向けず、彼が今興味を示しているのはおもちゃになりうる男女一組だけだった。
「やていいか」
「ああ。丁重にな」
「わかた」
 嗜虐の喜びに心の底から喜びを示すフェイタンは、念使いならば一度で分かる禍々しい喜びのオーラを放ちだす。やめてくれとノブナガが手でそのオーラを追い払おうとするが、粘着質のそれは絡みついたような感触を送ってくるのみで、ノブナガやパクノダをほんの少しだけよくない気分にさせた。
「ああ」
 一組の男女を笑いながら引きずっていこうとしたフェイタンの足が、ドアの境目で静かに止まる。室内を振り返り、そこでようやくノブナガの腕の中にいるへと視線を向ける。
 誰かが口を開く前に、笑みを浮かべたままのフェイタンが歌うように告げた。
「そのままだと、そいつしぬね」
 その一言だけ告げると、フェイタンは歩みを再開してすぐに姿を消した。
 けれどノブナガたちがを見ると、まるでフィンクスの腕の中にいたときと同じように震えている。慌ててノブナガが体を揺するが、ぼんやりとした視線はノブナガの姿を上手く捉える様子もない。
「ならやるなっつうんだよ」
 小さくノブナガがフェイタンへと吐き捨てるが、当の本人へ言葉は届かない。
 何度かノブナガが頬を叩き、パクノダが一言断っての腹部に痛みのない程度に打撃を加える。ひゅっとか細い呼吸音が聞こえると、激しい咳き込み音と共にが涙声で声を上げた。
「な、っ、なに…っ」
「……戻ってきたわね」
「ま、一安心だな」
 すでに動揺の影など跡形もなく消した二人は、涙を流しながら咳き込むをなだめすかし、再びベッドに体を横たえさせる。頭の中は疑問でいっぱいのも、とにかく今は咳を治めるのが先だとばかりに大人しく横になった。
 けれど、血の匂いの漂う室内と壁にべったりと撫で付けられた赤い液体が五感を刺激し、日常とかけ離れている光景に視線が固定される。
 の顔を覗き込んでいるノブナガとパクノダを見れば、どこか幼子を寝かしつける夫婦のように穏やかな表情で、壁の液体や鉄さびくさい匂いなどどこ吹く風。は自分の気のせいかもしれないと思い直して見るが、聞こえてきた声に体を強張らせた。
「ノブナガ、後で拭いておけ」
「分かってる」
 クロロの顎をしゃくった先には赤い液体。なんでもないようにうなずくノブナガに、は目の錯覚ではないことを認識させられた。
 本当に、血なんだ。
 ドラマやアニメでしか見たことのない量の液体は、べったりと壁に染み付いている。なにかを殴打する音も聞こえていた。面倒くさそうなノブナガ達のため息も聞こえていたような気がする。
 は二言三言話している三人の声を聞きながら、必死で心臓の鼓動を押さえつけようとした。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。数を数えても目に焼きついてしまった血の跡は脳内から消えてくれず、生々しい映像は逆に滑稽な気にすらなってくる。
 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。
 まるでパクノダ達にされたのがきっかけになったかのように、は小さな子供のように布団の中で体を丸めた。血の匂いがする。部屋の壁と言う壁から伝わってきた振動が、あの血糊の原因なのではと思考が加速する。
 今日知り合ったばかりの人間、人たち。
 優しい笑い声、触れる手は温かかった。
 怖い人もいた。
 どこかの誰かと同じ名前、同じような容姿、同じような関係らしい会話。
、何か持ってくるから寝ててね」
『大人しくしてろよ、まだ具合悪ぃんだろ』
 再び声を掛けてきた二人に、は布団から顔だけを覗かせてうなずく。小さく小さく頷くだけの返答でも、二人には十分だった。すぐに笑みと手が振ってきて、優しくの頭を撫でる。
 部屋の中を見回すと、クロロが感情のうかがえない目で見ていることに気づき、は慌てて布団をかぶった。
 今は何も見たくない。聞きたくない。感じたくない。
 自分の震える体を抱きしめて、は力の限り瞼を閉じた。
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