あたたかな手のひら
いつでもこういうものは唐突なのだ。
は瞬きを繰り返し、涙が出ることを確認した。そしてそのまま零れるに任せ、手の甲で瞼を擦る。
視界を良好にすると辺りを見回し、見たことのない一室だということを確認した。柔らかそうで大きくて女性らしい暖かな色合いのベッドが隣に鎮座していた。そしてテーブルやら椅子やら小物やら、綺麗でシンプルで、それでいてお値段の張りそうなものも転がっていた。
はて、ここはどこだろうかとは確認しようと身体に力を込める。そこでようやく、自分が呼吸をし心臓を動かし脳を働かせている事実に気づいた。
『……体が、動く』
声もかすれてはいるがしっかりと出て、は慌てて起き上がろうとした。手を置いた場所が柔らかいことに気づき、驚いてその箇所を見る。
『やだ、ここどこ?』
見知らぬ布地、見知らぬ布団、見知らぬ枕。は自分が身体を横たえていることに今更気づくと、布団の軽さと柔らかさと温かさに絶対にこれは高いと困ってしまう。
いつ自分は見知らぬベッドに潜り込んだのだろうかと、必死に頭の中を整理しようとするがまとまらない。ぐちゃぐちゃと部屋中に絵の具やペンキをぶちまけたように混乱していて、なぜこの状況に陥っているのか順序だてて考えることも出来なくなっていた。
『とにかく、まず、この部屋が誰の部屋なのかが大切だよね、うん』
声に出して頷いては見るものの、体中が悲鳴を上げているために上手く身動きが出来ない。
辺りを見回したといっても首をほんの少し横に振る程度のことで、今更ながら体の変調に戸惑いを覚えてしまう。確かに何度となく呼吸が止まったり、意識が遠のいたり口の中が渇いたり、時には心臓も脳も命さえも止まったかと言うような衝撃を受けたが、こんな風に変調をきたすとは。
『……夢じゃなかったのかなぁ』
ここが現実であるという保障も、そう言えばないなと思いついたは、試しに手を握ったり開いたりしてみる。油を差し損ねた歯車の様にぎこちないながらも、手は思うとおりにぐーとぱーを繰り返した。
繰り返していく度に精度を増してきているように動くのだが、体中芯から痺れているような感覚が遠いような、熱いお湯に無理に飛び込んでしまったような違和感は中々取れない。
手のひらを握りこんで皮膚に爪を立ててみるが、精一杯力いっぱい握りこんでいるつもりでも力が出ず、おまけに感覚が遠いため爪が当たっていることを認識するのも困難だった。いよいよ体がおかしいと混乱した頭でも、は自分の体がおかしいことを認めないわけにはいかなかった。これも夢かもしれないが、今現在の状況はそうなのだと。
『これは……いよいよ、やばいな』
顔をしかめようと無意識に動かすが、顔も全身と同じ感覚に陥って上手く動かせない。引きつるような化粧を何センチもしているような、分厚い感覚の向こうでの出来事だった。
「、目が覚めたんだね! よかった!」
これはどうすれば解決するのかと、状況把握より自分の身体感覚確認を優先していたの耳に、ドアの開閉音と明るい男性の声が飛び込んでくる。
視線を向ければベッドの正面にドアがあったので、はすぐにそちらへと意識を向けた。短い髪に金色の髪、人懐っこく明るい笑顔と大き目の瞳、言葉の少年っぽさと特徴を掴んでいくと、ようやく誰だか分かった。
嬉しそうに駆け寄ってくる様子を見て、は時間をかけて目元を口元を緩めた。
「……しゃ、しゃるなーく」
「そう、おはよう。気分はどう? 痛いところとか苦しいところはない? それとも水を飲みたいかな、さっき良い水を手に入れたから持ってきたんだ。一杯どう? それとも汗掻いちゃって気持ち悪いかな、それとも寒い? もしお腹がすいてるんだったらすぐに用意するし、ええとこういうとき後は何がいるんだっけ」
矢継ぎ早に話し出すシャルナークは、光が生まれるような明るい笑顔になったかと思うと、すぐに眉をしかめて首を傾げだし、また次の瞬間には慌てたように着替えはどこだっけと呟き、かと思うと誰か食事取ってくるって言ってたっけと携帯電話を弄りだす。
そのめまぐるしい変化には呆気に取られていたが、またゆるゆると表情を緩めて笑みをこぼした。
時間をかけて布団から手を出すと、また時間をかけてシャルナークへと片手を伸ばす。それに気づいたシャルナークはすぐさま手を取り、どうしたのと顔を覗き込んでくる。
そう、目の前の男性の名前はシャルナーク。
子供っぽくてでも頭が良くて大人びていて、かと思えばパクノダやノブナガに怒られていた、今日知り合ったばかりのシャルナークだ。
はゆっくりと瞬きを二度し、間を開けてもう三度瞬きをした。
そう、日本語を喋るノブナガさんと知り合ってすぐに紹介された、シャルナークさんだ。
今日会った出来事を、落ち着いてきた頭では順を追って反芻しだす。
出会って話して追いかけっこをしてショッピングをして、居候先の家に来てもらってお茶をして、雨が降ってきたからと傘を持って追いかけたのだ。追いつけずにさ迷っているとウボォーギンさんの姿を見かけて、ミーハー心丸出しで後を追いかけてたら、どこからどう見ても幻影旅団団長にしか見えないしかもクロロと名乗る男性と知り合ってしまったのだ。
なぜか有無を言わせぬ迫力で押し切られ、示されるとおりについて行ったらノブナガさんとパクノダさんとシャルナークさんがいて、これまたなぜか色気と男臭さをかもし出し始めたクロロさんに迫られて。
そこまで考えていると、は熱くなってきた顔を自覚した。ゆっくりと瞼を閉じ、あの時なぜあんな状況になったのか頭を悩ませた。子供でもあるまし、叫んで喚いて泣き出して男性の胸で慰められるだなんて、なんて恥ずかしいことをしてしまったんだとの顔の温度は上がるばかり。
しかもその後の記憶がないところを見ると、どうやら泣き疲れて眠ってしまったらしい。小さい子供なら許されることだが、一応仮にも大人と呼ばれる年齢でそれはないだろうと、自分の行動ながらは恥ずかしくて仕方がなかった。恥ずかしいだけでなく、大変相手に失礼で礼儀としても美しくない。
ノブナガが慰めに掛かってくれたことすら、今のにとっては恥ずかしく申し訳ない気持ちしか湧き上がらなかった。大変ありがたかったが、合わす顔がない。
「?」
眠ったの、と優しく鼓膜をくすぐってくる声に、は真っ赤な顔のまま瞼をコマ送りの様にゆっくりと開いた。心配そうに覗き込んでいたシャルナークは、首を横に振るを見て安堵したように息を漏らす。
シャルナークのもう片方の手がの頭を撫で、黙っていたかと思うと静かに問いかけてきた。
「返事をもらえなかったけど、体、本当に大丈夫?」
嘘をつくことは許さないとでも言うのか、シャルナークの目は真剣みを帯びていた。睨みつけるでもなく、けれど心配をしているのだというのが真摯に伝わってきて、その目は強い力を持っていた。
は嬉しさと申し訳なさを同時に感じたが、それを表現する体力がなかった。ただ静かに首を横に振り、大丈夫と囁くだけに留めた。
シャルナークの目と身体には、そんなの感情が復活したオーラによって言葉よりも明確に伝わってきていたが、の絶状態が解除されたという安堵も相まって、茶化す余裕すらなかった。
色がずいぶんと薄くて触れる感触も浅いオーラだが、の感情を如実に表すそれは満ち広がる暖かい喜びの桃色と、小さく縮こまり頭を下げているかのように伸び縮みを繰り返し、シャルナークに触れないように気をつけているのか近づいてこないベージュの二色だった。
ベッドに寝かせる前にパクノダが気づき、泥汚れなどを軽くお湯ですすがれたの髪は柔らかく、シャルナークは撫でながら笑みを浮かべる。が見たことのある笑みでシャルナークを見上げ、その口で名前を呼んだという事実に安堵していた。
「パクノダもノブナガたちも、皆ちょうど部屋から出てたところなんだ。すぐに皆戻ってくるよ」
その言葉にまた嬉しそうにの口元は時間をかけて緩み、オーラもまた桃色がほんのりと色味を濃くした。
シャルナークはますます安心し、その髪を和やかに目を細めながら撫で続けた。