揺らめく境界線
自分に向けられているのではない痛い空気が、瞬く間に肌を削るようにぶつかってきたと認識したとき、は自分自身と傍にいる人物が危ないと判断した。
自分を抱きしめる人物が自分を抱き上げて走り出すのを、眠りの世界から半分浮上しながら感じていた。その最中でも。感じたことのないぶつかり合っている痛い空気は、突き刺さるように自分達の肌を削っていく。
それが眠っているから見える夢の話なのか、現実のことなのかはには区別できなかった。ただ、痛いものは怖くて嫌なだけだった。痛いものが自分と自分を抱き上げている人に触れなければ良いと思っただけだった。
起きて痛いものから自分の足で逃げたいのに、中々睡眠の世界から浮上できないでいるの肉体は重く、きっと抱き上げて動いている人物にとっても重いだろうと容易に想像できた。
痛い空気とはまた別の冷たく湿った空気がの肌に触れて、徐々に痛い空気が薄れていくのは眠っていながらに良く分かった。
その内、痛い空気は完全にいなくなって、は安堵とともにまた深い眠りに落ちていった。心地良い冷たく湿った空気と、温かく抱きしめてくれる腕の中はとても居心地がいい。
小さな頃、こうやって両親に抱き上げてもらっていたなと夢の中で映像が再現される。あの頃は我が侭をよく言って、二人を困らせたなぁとは夢の中の再現映像を見ながら一人ごちた。今はもういい年なので抱っこをしろとねだることもなく、自分から抱きしめに行くことがあるくらいだ。我が侭も多少は言うが、昔よりひっと少なくなっているのは確かだ。
そこまで考えていると、の体から抱きしめてくれている人物の体温が離れていくのが伝わってきた。寒くて冷たい何かが身体に当たる。反射的にぐずりたくなるような嫌な感触だったが、体温が何度も身体に触れてくるのが分かって多少安心した。
ああ、きっと自分が重かったのだとは安心してその体温を甘受した。最終的に手を握られたときはその温かさに何か言いたかったが、夢の中では体が上手く動かずに、結局言えたかどうだかには分からなかった。
ただ、ありがとうという気持ちだけでも届けばいいなと夢の中でぼんやりと願いを込めた。
唐突に空気が重さを増したと思ったら、三半規管が追いつかない速さで体が浮かび上がる。浮かび上がったのではなく、もう一度傍に居る人物に抱き上げられたと分かったのは、その人物の服だろう布地をが掴んでからだった。
けれど次の瞬間、空気のない空間に放り出されたかのような衝撃が襲ってきて、の体が硬直する。その硬直が溶ける間もなく、重力が切るような冷たい風とともにに圧し掛かってきた。息をすることも出来ない、睡眠なんて吹っ飛んで口を開けども呼吸が出来ずに口の端に水が溜まり泡になる。服を掴んでいるはずの手の感触すら認識できず、は目を開けていないというのにブラックアウトしそうな自分の意識を、必死に保っていた。震えることも声を上げることも、瞼を開いて生命の危機だと訴えることも出来ない。何かが耳に幾度となくぶつかってくるが、それが何かも分からない。
フィンクスの叫び声も音の塊とすら分からず、認識できない状態に陥ったはまた身体に掛かる重圧が増えたことで、一瞬だけ意識を飛ばした。
不意に緩んだ重圧にの意識が戻ってくる。
フィンクスが木を駆け上り、ヒソカによって轟き軋みなぎ倒された樹木の轟音、避けたフィンクスへの意外そうな奇術師の声。の意識とは別の次元で行われている出来事は次々と進んでいく。
けれど緩んだ重圧の隙に瞼を押し開いたは、自分の体の感覚がないことにようやく気づいている最中だった。意識はまだ自分より外の世界に戻らず、淡々と自分の状況を理解していく。
自分を抱きしめる男性の腕も肩も見えるというのに、その感触が一切ないと言う現実。そして目に飛び込んでくる、テレビや自分と関わりのない場所でしたありえないはずの見晴らしのいい景色は、緑の深い森を一望する場所だった。
ありえない場所、ありえない自分の状態、そして聞こえてきた声と目の前に迫ってきた何かに、はこれもまた夢なのだと認識した。
スペード、クローバー、ハートにダイヤの模様が視界に入り、それの一部が化粧だと理解したとき、ようやくはその風圧で眼球が乾いていく実感を持った。夢なのにすごいなとどこかのんびり感心し、風圧と肌を突き刺しなぶり嘗め回すようなねちっこい感覚が襲ってきて、の呼吸はする暇さえ与えられずに、またもや真空状態に陥った。
殺されると言う言葉がの脳裏を駆け巡り、迫ってきたものの一部が自分の体のどこかに触れたのだと、どこかで理解した。目の前の人物が誰なのかが認識できない、けれどこの人物に殺される。この空気の中で殺されないほうがおかしいのだ。
は触れられたのだ、触れられてしまったのだとと認識した瞬間、強烈な電流冷気暖気重圧の全てをまとめて受けてしまったような錯覚に陥った。頭の隅で錯覚と分かっていながら、心臓も脳も機能を停止したと思った。
きっと、自分は眠っている間に何かをしてしまったのだ。だからこんなに痛くて苦しくて、訳の分からないことになってしまったんだ。
はぼんやりと結論を出し、静かに思考を停止させた。
通り過ぎていく何かと、その何かがどうにかして痛い切れるような音をはじき出したことも、きちんとその耳で聞き取っていながらなにも心に感じない。叫びあがる声も、交わされる言葉にも反応できない。
は陸に上がってしまった魚が、自分の死期を悟って動きをなくしたかのように、その目から光を消していった。
「おら、起きろ」
呼吸が出来ない、心臓が動いている気がしない、空気が回りにある気がしない、頭が痛いような気がするけれど痛みを感じている気がしない。
は揺れる空気を感知すると、思考を停止させたまま目の前に現れた人物の名前を符号の様に口にした。
「ぱ、くの、だ」
「ふいん、く、……す」
自分の口を動かしているはずなのに、自分で喋っている気がしない。
それどころか口の中が渇いている気がするのに、それが本当なのかが分からない。夢の続きなのかもしれない、これは夢なのかもしれない、頭も心臓も痛くて動いていない気がする。は符号をあわせるように目の前の人物二人の顔を見ると、眼球も乾いている気がして瞬きをした。涙は出てこなかったのですぐに瞬きを止めたが、は意識が消えていくのが分かった。
死ぬのだなと、どこか冷静な意識が呟いていた。なるほど、こんなに痛みも苦しみもなく死ぬだなんてなんて楽なんだろう。本命は老衰死だったんだけどなどと思考が戻ってくるが、眼球はその使命を放棄して映像を脳に送る仕事を止めてしまう。
ぷくりと、もう一度口の端に泡が浮かび上がる。の意識は完全に落ち、パクノダの声も肩に触れ揺する衝撃も認識しなくなっていった。
「、? ちょっと、!」
「お前、ちょっ、なにしてんだよ」
「あんた、なんで気づかないの! この子のオーラが消えてるのよ!」
「何があった!」
「くそっ! なんでこんな弱ぇんだよ!」
長い夢かもしれない、悪い現実かもしれない。
そのどちらかだと決定的に確信することも出来ずに、はフィンクスの腕の中に身を委ね続けた。