雨傘持った不審な女:クロロ視点
人通りの少なくなった街中は、昼間と比べ物にならないほど静かだ。
まずは子供連れが見えなくなり、笑い合っていたカップルの姿が少なくなる。友人同士だろう人間も建物の中に消えていく。老人の姿も減り、逆に今時風の若者の団体が増えていく。
クロロは本日発売の新書を持ち直し、喫茶店の一席でガラス越しに外を眺めた。
雨は気がついたら降り始めていて、走って建物に駆け込む人間も見かけた。雨宿りをしていると弱まるばかりか、強くなっていく一方の雨足に、堪えきれずに飛び出していく人間も見た。
クロロは本のページをめくり、続きに目を通す。
発売を待っていたはずの本を、うっかり盗り忘れていると気づいたのはちょうど二時間前。クロロは思い出したついでに盗って来ると仲間に告げ、即座に行動を開始した。そして今手にしている本こそが、発売を待ち望んでいたものだったのだが、どうしてか目が滑る。面白くないわけではない。それは断じて違うし、心躍るような内容であることも確かだ。待っていた甲斐があったというものだが、なぜか内容が頭に入ってこない。上滑りしてしまって、結果つまらない気分になってきている。
コーヒーを一口飲むと、もう一度活字を読むことに挑戦するがやはりだめだった。
「つまらんな」
ぽつりと呟いてみせるが、それで活字の世界に引き込まれていくわけでもなし、クロロは本を閉じた。雨は止む気配を見せず、走っていく人の姿ももうない。ここで時間を潰すか、それとも戻って仕事の話でもするかと考え始める。
そしてウボォーの気配に気づく。隠そうともせずに近づいてくる気配は、臆することなく仮宿へと向かっていた。ウボォーらしいなと笑いこそすれ、驚くことではなかった。
人通りがなければ、声でもかけて一緒に仮宿に向かうかとクロロが席から立つと、ちょうど向かい側の店の軒下にいた人間が、空を見上げていた。そして、軒下から飛び出していく。
傘を三本も抱えた女の人影は、足元の水が撥ねることも気にせずに駆けていく。そして、その口を開いた。
「ウボォー! ウボォーギン!」
多分名前の後に何か言っていたんだろうとは思うが、それはどうにも理解できなかった。けれど確かに、ウボォーの名前を呼んでいた。叫んでいたと言い換えても間違いではなかった。
傘で顔は見えなかったが、女だろうその体躯でウボォーの後を追いかけていく。オーラも特に感じないが、ただの素人ではないだろう。あの速さの影を見てウボォーと見抜き、そして迷いなくその影を追いかけられる動体視力と体力を持っているのなら。
クロロは会計を済ませると、迷うことなく路地へと足を進める。ウボォーの後を追った女の影をすぐに見つけ、どうするべきか考えた。
ウボォーの影だけで、彼の名前を当てた。
迷いなくその影を追いかけ始めた。
見失うことなく、仮宿への道を歩き出した。
これだけで十分警戒に値する人物だと思うが、思ったよりも隙がありすぎる。足取りは躊躇うことなく危なげな素振りを見せることなく進むのに、辺りへの警戒がまったくと言って良いほどない。自分が後をつけている事に気づいていないのかと、クロロは試しにアピールしようとするが、その前に目の前の女は走るスピードを速めた。
「ほう」
アピールするまでもなく、気づいていると言うことか?
クロロはひと時唇の端を上げると、アピールはせず、かと言って特に隠れるでもなく女の後をつけて行った。そうは言っても絶はしたが、女は気づいているようで振り切るように走る速度が上がっていく。クロロにとっては歩くような速度だが、女なりに必死な様子が伝わってきて、また唇の端が上がる。
周りの景色が変わっていく。路地を抜け廃墟への進路しか残されていないその道は、今や雨が霧となって全てを覆っていた。視覚では人も物も一寸先とて常人には見えないだろう、そんな場所になっていた。
女の足が、不意に止まる。こちらを振り返ることなく、声だけが辛うじて届く。
「だ、だれ、そこ、いる、ですか」
確信を持って紡がれる言葉に、クロロは眉を上げる。
女はクロロの存在に気づいている。そして、声をかけた。力量が測れないほど弱いのか、それとも己の力を過信しているのか、好奇心か。
女の震える声に目を細め、クロロは静かに足を進める。女の背後に、絶のまま。女はクロロの場所が分からないのか、それとも存在すら確信していないのか、呼吸を繰り返す。クロロの耳にははっきりとそれが届いた。
思っていたよりも実力のない様子に、湧いてきた興味がゆっくりとしぼんでいく。背後にひたりと寄り添うまで近寄ったその時に、暇つぶしに捕まえるかと考えを切り替えた。
女が、また口を開く。クロロとの距離は、まだ何メートルか残っていた。
「わたし、はいご、ひとり、だれ、います、か」
クロロの足が止まる。女の声は、確実にクロロを指していた。
へぇ、と音もなく口を開く。女は背筋を伸ばして動かないが、確実にこちらを意識しているのだろう。その腕が傘を抱きしめなおすのが見える。
雨粒が二人の間をベールのように振り続け、女は極々ゆっくりと振り返って来た。それでもまだ傘で顔が見えない。クロロは女の顔を良く見ようと歩を進める。女は振り返るときと同じように、極々ゆっくりと静かに顔を上げてきた。
顔が全て上がる前に、クロロは我慢できずに口を開く。
「驚いたな、気づいていたのか」
わざとらし過ぎるほどわざとらしい言葉に、女の動きが止まる。言葉でのやり取りは好まない人間なのかと反応を待つが、すぐには反応してくれないらしい。クロロは堪えきれずに笑い声を漏らす。
「走り出したから気づかれてるかなとは思ったけど、場所まで特定されてたとは。驚いたよ、君は念能力者かい? 絶が上手いんだね」
相手を持ち上げるようにクロロは話しかけるが、やはり反応はない。けれどこちらを伺い、先ほどより警戒を強めている空気は伝わってくる。まだまだ修業不足もいいところだが、警戒心は人並みにはあるようだ。移動中の警戒心の無さは呆れるほどだったが。
けれどこちらの力量でも測っているのか、女は本当に動きが無い。
かと思えば、傘の下から隠れていた顔が見えてくる。腕、手首、手、顎、少し間を置いて、唇、鼻、そしてようやく両の目。
視線のかち合った警戒心の塊のような目が、あっという間に瓦解して丸くなる。子供のような丸い目は、またすぐに怖いものでも見たかのように涙ぐんだ。その喉が引くついたのを、クロロは見逃さなかった。
ああ、この女はオレを知っているな。
事実としてクロロはそれを受け入れた。オレが誰だか知っている。だからこそ、ウボォーのことも知っていて、多分他のメンバーのことも知っているのだろう。この女には、聞きたいことが出来たなとクロロは現在の姿に見合った笑みを浮かべる。
降って来る雨などものともせずに、優しげとも思えるような笑み。
「君、名前を教えてくれるかい」
女の喉が、もう一度静かに上下した。震える指が、三本の傘を握り締めなおす。躊躇うように開いた唇が、何度が動きを見せるが音を出さずに閉じる。その唇が見覚えのある名前を囁いたように見えたが、クロロはそれを追求しなかった。
女の唇が、ようやく音を出す。
「」
「ふぅん、オレはクロロ」
クロロが答えたとたん、女の瞼が力いっぱい閉じられる。何か懺悔するかのように傘越しに空を仰ぐ格好になり、どこか諦めた雰囲気が漂ってきた。女はやはり自分を知っていて、今の名乗りで諦めと確信を得たのかとクロロは解釈した。でなければ、諦めなくてもいいのだ。抵抗するなり話し合おうとするなり、逃げ出すでもいい。何か講じようとしていたならば、正体の分からぬ相手に対してすればいいのだ。遠慮することではない。
けれど、幻影旅団の前で素人の力など蟻にも例えられないほど、弱い。
クロロの名前も、立場も、そして顔も知っていたらしい女は、目に見えて肩の力を抜いた。表情は凍り付いて感情が見えず、けれど色の悪い唇で心中は推し量れる。
仕事開始までの暇つぶしもかねて、クロロは女を誘導してやろうと思った。ウボォーを追いかける人間など、賞金稼ぎかそこらだろう。仲間たちの揃っている場所に連れて行かれて賞金首の多さに喜ぶか、逆に敵わぬものと命を諦めるかも知りたいし、その情報の源も知りたい。
本で盛り上がらなかったはずの気持ちは、女一人でこうも波立つのかとクロロは楽しかった。退屈など大嫌いなのだ。
「では。君に敬意を表して招待しよう、オレ達の今のアジトへ」
遠慮などせずクロロは足を進め、女の目の前に立つ。そして凍ってしまったその目を覗き込み、唇の端を上げた。女の表情は揺らがず、けれど逡巡するかのように視線が下に落ち、クロロと視線を合わさったときには小さく頷いてきた。
「よろこんで」
決して喜んでいないだろう抑揚の無いその言葉に、クロロはついつい吹き出してしまう。雨を一瞬だけ揺らした吐息に、女の眉が寄る。
笑い収めたクロロは、ついて来いと一言呟くと女の横をすり抜けて歩き出す。仮宿は実はもう数キロも無くそばにあり、導くまでも無いのだが。クロロが視線を後ろに向けると、女は迷わずついてきている。気づかれぬようにまた笑った。
が、ぽんと可愛らしい音が聞こえたと思ったら、頭上の雨が止む。顔の横に差し出された傘の柄を見ると、女の手がそれをクロロに差し出していた。
特に危険なものも無く、クロロはそれを受け取った。女の安堵とも言える息が、背後から聞こえてきた。なぜだと深い意味も無くクロロは問いかけた。
女は、凍ったままの表情で不思議そうな声を出す。
「かぜ、ひく」
クロロは、今度こそ盛大に笑い出した。
女の困惑した表情が、またそれに拍車を掛けた。