蜘蛛


 2時間のパクノダ独壇場に入る前。
 と追いかけっこをして笑いながら洋服屋の前で休憩を取り、そしてその店内に入ってからの会話は、情報がより正確に伝わるほうを選び、しばらく彼女の母国語で交わされていた。ノブナガが間に入り、彼女の事柄に関して聞き出していた。
『そういやぁ、お前どうしてこの国にいるんだ? 満足に喋れねぇのに』
 ノブナガがそう聞くと、困ったようには笑い、好きで来たんじゃないんです。不可抗力なんですよと洩らした。やはりそこに聞いていたほうは疑問を持ち、親の都合か何かと聞いた。けれど家族はいないと言うだけで、それ以上詳しいことをは言おうとしなかった。
『お世話になってる人の家に居候、させてもらってるんです。良くしてくれてるんですよ』
『言葉も満足に喋れないのにか?』
『この国の言語表持ってるので、それで意思疎通は出来ますよ』
 ほら、と出されたのは幼児が使うような「あいうえお表」で、シャルナークには読めなかったがノブナガによると、の母国語が対応して書いており、確かに表でやりとりは出来るだろうとのコメントだった。
 妙に感心した声を上げ、誰がこの表作ったのとシャルナークが聞くと、の顔が瞬時に凍りついた。そして、あーだかうーだか唸り声を上げて、近くにあるジーンズを手に取ったまま悩んでいるようだった。
『わたしの、国の、…………有名な方が』
 富樫先生は確かに有名人だよね、嘘じゃないよねと内心思いながら、張り付いた笑顔では答え、その内心をさすがに読むことが出来ない二人は、嘘をついているが正直に言わないだろうなと思ったので、頷くだけで流した。
『あー、出掛けるのが久しぶりって、どのくらいぶりだ?』
 ノブナガはただ単に、会話を変えるきっかけにしようと口にしたのだが、の言葉にしばし言葉がなくなる。
『二ヶ月ぶりです』
「ちょっと、なんて?」
 大概シャルナークに通訳していたノブナガの硬直に、通訳待ちだったシャルナークが急かす。けれど通訳された言葉を聞いたとき、シャルナークもノブナガと同じく固まった。
 多少色が白いかなぁと思う程度で、健康体そのものの。手足は自分たちと比べれば細いが、特に不自然なほど細いわけでもない。太いわけでもない。
「えーっと、入院してたとか」
「あ、なるほどな」
 ひとつの可能性としてシャルナークが上げると、それで正気に返ったノブナガが即座にに質問する。けれどの答えは「否」で、次に病気と聞くがそれも違った。
 次に聞こうと思い浮かぶ言葉は、楽しくショッピングを再開したの笑顔には不似合いで、シャルナークもノブナガも聞けなくなっていた。
 もなんとなく空気の悪さに気づき、自分から正解を口にする。
『お世話になってる人が、この国の言葉が分からないと危ないから、外には出ないようにって言ってたんです。たまーに、出掛けるときに同行させてもらえたりはしましたよ』
『過保護なやつだな』
『心配してくださってるんですよ』
 ノブナガが率直に言うが、はそれに笑顔で返した。
『それに、私も一人で外出は怖かったですし。今日はまぁ、二ヶ月ぶりではしゃぎましたけど』
『それまでは、結構同行させてもらってたのか?』
『ええ、月に一度は一緒に出掛けてました。近くのお店に十分くらいですけど、楽しかったですよ』
 十分は外出っていわねぇよ、外の風に当たるって言うんだと言いたかったが、ノブナガはそれをシャルナークにこぼすだけで我慢した。シャルナークも文句なく同意した。
 自分たちの自由が規制されるなど想像できない。そして、それに甘んじている自分も想像が出来なかった。だからこそ、がなぜ笑えるのかも分からなかった。
 けれどは笑っていて、自分の世話をしてくれている女性がどんなに優しいか話していた。意思の疎通を図ってくれる、自分の部屋を与えてくれた、料理を教えてくれて、自分に仕事を与えてくれた、この世界のことを教えてくれる、先日パソコンも買い与えてくれた、その人の両親も友人夫妻も、たまに顔を見せて気遣ってくれるなどなど。
 聞いているほうにしてみれば、何だそんな微々たることと言ってしまえる事の方が多かったが、はそれで喜ぶらしい。そして面食いで、その女性がいかに美人で格好よくて、時にハートを射抜くほど可愛いのかを語った。が、その勢いに押されて男性陣が口を聞けないでいると、それまで一人での服を見ていたパクノダが声をかけてきた。そして怒涛の試着時間が始まるのだが、そこまで思い出すとシャルナークは思考にストップをかけた。

「本当にありがとうございます。迷子札を渡したとはいえ、本当に迷子になるだなんて思ってませんでした。ありがとうございます。しかも服まで買っていただいたみたいで」
 の言う、美人で優しい居候先の女性であるサテラは、自分の店の中だというのに丁寧にパクノダ達へと頭を下げる。それに応えるのはパクノダで、こちらも軽くだが頭を下げた。
「いえ、私が好きでやったことです。初対面だったのにいつの間にか、服を選ぶのに気合が入ってしまって」
「わかります。つたない言葉で頼られると、ついつい度を越しちゃうんですよね」
「困った顔も可愛いですしね」
 だんだん怪しい方向へと傾いていく笑顔の成人女性二人に、シャルナークとノブナガは多少居心地の悪さを感じる。渦中のも同じく固まっていて、三人は客の入っている店内で視線の集中砲火を浴びていた。
「もう少しやらなければならない仕事がありますので、奥で待っていていただいてもよろしいですか? ぜひお礼をさせてください。お時間よろしければ、遠慮なさらないで」
「いいんですか?」
 けれどサテラが言い、パクノダが応じたところでシャルナークとノブナガの視線が動いた。パクノダは視線一つ動かさないままサテラと会話を重ね、そして部屋の奥への案内を受ける。
、パクノダさんたちを奥に案内してね」
 急に声を掛けられたは首をひねるが、サテラが身振り手振り、そして単語を区切って話すと軽く頷いて奥へと足を向けた。
「ぱくのだ、のぶなが、しゃるなーく、こちよ」
 手招きして歩き出したに続き、三人はそれぞれサテラに会釈しながら奥へと入っていった。サテラは頭ひとつ下げてから、すぐに他の人間の元へと行ってしまう。
「簡単すぎ」
「厳重な警備でもあった方が良かったか」
「やりがいはあるわね」
 常人では聞こえない程度の小声で、三人は小さく笑った。
 は扉をふたつ通ってリビングダイニングらしい場所へとたどり着くと、辺りを軽く見回す。そしてそのままさらに奥へと足を進めた。
「あれ、ここじゃないの?」
 それに疑問の声を上げたのはシャルナークで、はその声に振り向くとさらに奥の廊下を指差した。
「おきゃくさま、もとおくよ。さんにん、おく」
 そしてさらに奥へと歩いていき、三人は特に異論もないのでおとなしくついていった。通された部屋は物は少ないが明るく光の入った、清潔そうな部屋だった。
 はどうぞと大振りなソファーへと勧め、そしてお茶を用意すると言って部屋から出て行ってしまった。三人は警戒をまったくされない状態に多少面食らうが、気を取り直して部屋を物色し始める。
「これって下見かぁ?」
「いいじゃない。探せるところは探しちゃいましょうよ」
「面倒くせぇ」
「んー、この部屋にはないと思うけどなぁ」
 普段は率先して飛び込んでいくノブナガだが、物を壊さずに騒がずに探そうとすると、やはり神経を使う。それなりに丁寧に物を退けたりひっくり返したりするが、シャルナークに注意されてしまう。
 けれど思ったより早くの足音が戻ってきて、三人はここではないと目星をつけてソファーに腰掛ける。
「金持ちなら、見えるところに置いたりするはずなんだけど」
「金庫なんじゃねぇか」
「ターゲットの形状から言って、その線は薄いんじゃないかな?」
 三人がそれぞれ好き勝手言っていると、震えるようなグラスの音と、ドアノブを回そうと何度も失敗している音がかすかに聞こえてきた。ドアノブの音は、聞いているうちにがっちゃんがっちゃんと回りきれずに戻る音までしてきて、声をかけなくてもどんな状態でそうなったのか容易に想像できた。
「誰が行く?」
 シャルナークが聞けば、パクノダが微笑む。
「ノブナガでいいんじゃない?」
 微笑んだパクノダの視線に、シャルナークの弓形になった目がノブナガを向く。
「お前ら、まだロリコンって言いてぇのかよ……」
「図星だからって怒るなよ。ほら、が困ってる」
 声を上げようとしたノブナガの口を、素早くシャルナークが封じてドアへと促す。ノブナガは渋々といった格好で立ち上がるが、自分がやる行動には別に躊躇はない。
 ノブナガがドアを開けると、トレーを廊下に置こうとしゃがんでいると目が合って、力なく笑いかけられてしまった。ノブナガは思いっきり間抜けた表情で、その笑みを見てしまう。
「なにやってんだぁ?」
 ノブナガの声も顔同様間抜けなものになってしまって、座っていた二人が何事かと視線を動かした。は誤魔化すようにうそ臭い笑顔で立ち上がると、ありがとうございますと丁寧に言って立ち上がった。そのままかちゃかちゃトレーを震わせながらノブナガの横を通り抜け、テーブルへとグラスを並べ始める。
「つめたい、あつい、どちがすき?」
 トレーには所狭しとアイスコーヒー、紅茶、緑茶とそれらが三個ずつ並べられていた。三人に対して九個のグラスは、それは重いだろうと言うもの。やはり目の前に並べられて驚くが、ソファーに座りなおしたノブナガも含めて、三人は丁寧に礼を言った。
 は多少トレーに中身をこぼしていたが、それを拭きながらも嬉しそうに笑っていた。
 も適当に三人と均等に近いソファーに腰掛ける。そして余ったグラスを手にとって飲み始めるが、しばしこの場に沈黙が下りた。
 特に話題はない。シャルナークとノブナガが持っていた服たちは店の人間に渡したし、はそわそわと落ち着くなく視線をさまよわせているが、一向に口を開かない。三人はどうせなら下見を再開したかったが、がいるのではそれも出来ない。
「殺してもいいんだけど」
 ひそりとシャルナークが呟く。所詮は今日出会ったばかりの人間で、蜘蛛と存在価値を比較するほどの人間ではない。偶然ターゲットの家に住んでいる行きずりの人間だったわけで、親近感が沸いているとはいえ、やはりその急速さには違和感を感じていた。
「なに言ってるの。今日は下見だって念を押したの、あなたでしょ」
 パクノダの叱るような声にも、シャルナークは違和感を感じていた。
「だって、今日会ったばっかりじゃん」
「黙れ」
 当たり前のようにシャルナークが言うと、即座にノブナガが低い声で打ち消した。その目を見ると多少の怒りが含まれていて、シャルナークは二人にしか分からない程度に肩をすくめた。
「だって、本当のことだよ」
 けれど口は動いて、さらにノブナガの神経をあおる。
 パクノダが嗜めようとするが、その前に三人の声が聞こえていないはずのが動いた。
「のぶなが」
 三人の会話内容が聞こえてないの声は、無邪気だ。表情も何かねだるような甘さを含んでいて、シャルナークは良くそんな表情が出来るなと、この店に来る前までは思いもしなかったことを思い浮かべた。正直、のそんな表情がシャルは不快でならなかった。ノブナガもパクノダもそう思っていないことが、笑んでいる表情から見て取れるとさらにその感情は深まる。
 けれどシャルナークの予想は外れて、の表情はねだるではなく、遠慮だというのが分かった。
「おせんべい、いる?」
「あんのか?」
「そうゆ、そーす、さらだ、あるよ」
「んじゃ、全部」
「わかた」
 やりたかった仕事を任されたかのように喜色満面で立ち上がる。そしてパクノダやシャルナークにも目を向け、先ほどと同じような表情で聞いてくる。
「ぱくのだ、しゃるなーく、くきーはへいき?」
「平気よ」
「おれも大丈夫」
「もてきて、いい?」
「ありがとう」
 嬉しそうに部屋からまた出て行くの後姿を目で追う。ちぇっ、とシャルナークが呟くと、それにパクノダはため息を吐いた。
「何が気に入らないのよ」
「ぶり返してんじゃねぇか。がここにいること、調べてもでなかったっつってよ」
「……だっておれたち、蜘蛛じゃんか」
 その一言に、だから? と二人同時に返されてしまう。シャルナークはむくれた。今はなんだか分が悪い。さっきまで思っても見なかった感情が膨れ上がって、ふとしたことで不快感が殺気に変わりそうな気がする。そんなこと、滅多にありはしないのに。
がこの部屋に戻ってきたときから、シャルおかしいわ」
「分かってる。知ってるよ」
 自分でも自覚していたのだ。けれど殺気は押さえ切れないかもしれないし、実際不快感は押さえ切れなかった。こんな不安定な自分はどのくらいぶりだろう。
 パクノダはノブナガに目をやり、ノブナガは肩をすくめる。シャルナークはソファーの上で俯き、深い深いため息を吐いた。
「なんでだろ」
 が戻ってきてもシャルナークのその感情は続き、ことあるごとに顔を出した。一度は自分の携帯を手にとる段階まで殺気が膨れ上がり、ノブナガにせんべいを数枚投げつけられて治まるという場面もあった。パクノダは大仰にため息を吐き、ノブナガはただ呆れた。
「しゃるなーく、へいき?」
 事情を知らぬは、テーブルを回ってまでシャルナークに近づき、わざわざ顔を覗き込んできた。心配そうに見つめてきた視線に、シャルナークは苛立つ。けれど同時に、違和感を覚える前に感じだような、素直に嬉しいという感情も湧き上がっていた。
「ノブナガがいきなり……っ!」
「お前なぁ!」
 大げさに頭を抱え込むと、ノブナガの呆れた声と一拍置いての笑い声。その声に安堵する自分と苛立ちが増す自分がいるのを確認して、シャルナークは笑顔をに向けた。二人顔を見合わせて、笑い合ったりもした。
 そしてシャルナークは仮説を思いつく。自分のこの苛立ちは、元々自分の中から感じているだけではなく、どこか別の要因があって成立しているのだと。近くにがいる分には、苛立ちとは違う感情がきちんと正常に作動すると。
 そして早速実証すべく、シャルナークはの手を取った。自分より幾分かは小さく、けれど確かに生きている人間の手。
「しゃるなーく?」
 不思議そうなに構わず、自分の隣のソファー生地を叩く。
、ここに座ってよ」
 は素直に座ったが、他の二人は怪訝そうだ。ノブナガはシャルナークがに手を出しやすくするためかと警戒して、先ほどよりも近い位置に移動した。パクノダは元々シャルナークの近くだったので、警戒を強めるだけに留めた。
 その二人の行動に苛立つシャルナークと、微笑ましいものを見るように感じる二つの感情を、シャルナークは確認した。そして隣のに微笑みかけ、微笑み返されると感じる感情も二種類確認した。
 殺気は出ない。けれど苛立ちはある。それは握っている手から水でも伝わってくるかのような、独特のオーラがシャルナークを包み込んできて、軽い程度の苛立ちにしているのだと分かった。生きるためのものより、少し多目だろうのオーラの存在に、シャルナークは触れてやっと気づいた。
「しゃるなーく」
 に呼ばれて、弾かれたように顔を上げる。どこか照れたような表情を、素直に可愛いと思えた。の視線が一度シャルナークと絡んで、ほどける。
「て、あたかいね」
「そうだね」
 シャルナークが手を握りなおすと、くすぐったそうにが笑う。シャルナークも声には出さなかったが、笑った。
 笑い合ったところで、誰かの咳き込む音が割り込んでくる。
「あー……、どこの初々しいカップルだよ」
 シャルナークとパクノダだけに聞こえる音量で、ノブナガが呟いて力の抜けたような姿勢でうなだれる。パクノダも同じ気持ちなのか、心持ち遠くのほうを見て同意の声を上げた。
「なんなのよ、さっきまでの反応は」
「おれにも分からないよ」
 そう言った後、と目を合わせて笑い合って、シャルナークは付け足した。
「今はね」
 成人女性の足音が廊下から響いてきて、ひそりとした内緒話は打ち切られる。すぐに三人とも目線を合わせ、シャルナークはの手を解こうとしたが、やめた。
 も特に抵抗なく手を繋いでいるので、ほどかなくてもいいだろうと思ったのだ。
「さてらだ」
 小さい子供のように声を上げたは、三人に視線で問いかける。見てて、その通りだからと言わんばかりの視線に、三人は笑って返す。そう言えば、最初からはいろんな意味で初々しい反応ばかりだったと、三人とも同じことを考えていた。
 二度のノックに、が応える。
「すみません、時間がかかってしまって」

 さて、パクノダ本領発揮のお時間です。


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